医学界新聞


母の願い(3)

連載

2007.01.22

  〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第100回

延命治療の中止を巡って(9)
母の願い(3)

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2714号よりつづく

〈前回までのあらすじ:1976年,ニュージャージー州最高裁は,遷延性植物状態の患者カレン・クィンラン(入院時21歳)から,人工呼吸器を外すことを認める歴史的判決を下した〉

 人工呼吸器が外れた後,ジョーとジュリアはカレンの転院先探しに奔走した。幸い,近隣の郡立ナーシング・ホームが受け入れに同意してくれた。しかも,ただ同意してくれただけでなく,クィンラン一家のプライバシーを守るために,郡のシェリフが病室の警護役を務めることも申し出てくれたのだった。

 転院後も,ジョーとジュリアは,毎日カレンの病室を訪れた。ジョーは,通勤の行き帰りにカレンの病室を訪れることが日課となったし,ジュリアも,自身が交通事故に遭って重症を負った期間を除いて,カレンが亡くなるまでの9年間,毎日病室を訪れたのだった。

基金を設立し使途を決定

 世間の注目を浴びたカレンの裁判とクィンラン家の苦闘は,本になっただけでなく,テレビドラマにもされた。印税やドラマ化の際の「権利料」がクィンラン家の収入となったが,自分たちの個人的な用途に使ってはならない金だということで,両親の意見は一致した。カレンの名で基金を設立したが,「どうしたら一番有効な使い方ができるのか」と,ジョーとジュリアはその使い道について知恵を絞り続けた。

 自分たちと同じ苦しみを他の人々には味わってほしくないと考え続けた挙げ句に,基金の使い道として二人が選んだのは,当時米国でも始まったばかりのホスピス運動の推進に役立てることだった(註1)。大筋の目標はできたものの,具体的に何をするのかということを決めるために,ジョーとジュリアの3年がかりの調査が始まった。訪れることができるホスピスは片端から訪れたし,当時,米国におけるホスピス運動を推進していたキューブラー・ロス(註2)にも相談に乗ってもらった。ロンドンを訪れた際には,近代ホスピス運動の創始者,シシリー・ソンダースのもとも訪ねたが,二人に「在宅」ホスピスを見学するように勧めたのはソンダースだった。イギリスで見学した在宅ホスピスの活動に強い感銘を受けたジョーとジュリアは,米国で在宅ホスピスを設立するために娘の基金を使うことに決めたのだった。

在宅ホスピスを開設

 ロンドンから戻ったジュリアは,「自分自身が患者のお世話の現場を知らなければホスピスなど運営できない」と,ケア・ボランティアのトレーニングを受けた。トレーニングを終え,実際に患者を受け持つようになった後,ジュリアは,自分たちがしようとしていることの大切さを改めて実感したのだった。カレン自身はホスピス運動の恩恵にあずかることができないことは百も承知していたが,「終末期医療の姿をよりよいものに変える」という目標は,娘の存在に象徴されているように思えてならなかった。

 カレンの名を冠した在宅ホスピスが開所されたのは,80年4月15日,カレンが入院したという知らせを受けた,悪夢のような夜から,ちょうど5年目のことだった。それから5年後,85年6月にカレンは肺炎で亡くなったが,ジュリアは,娘を失った後,いっそう,ホスピスの運営に力を注ぐようになった。開設当初は一度に4人の患者を受け持つのが精一杯だったが,徐々に規模を拡大,いつの間にか,近隣の2郡も加え,3つの郡のケアを担当する大ホスピスへと成長していた。

娘がくれた贈り物

 戦争で片腕を失ったことを除けば病気や怪我とは縁のなかった夫が体調を崩すようになったのは,96年のことだった。歩行障害と腰痛を訴えるようになったのだが,背骨に癌が見つかったのは,自力で歩くことが不可能となった後のことだった。手術を受け,化学療法も始められたが,ジョーとジュリアが金婚式を祝ったのは,術後,リハビリ施設に入院しているときのことだった。施設近くにあるレストランへの外出許可をもらい,ささやかな宴を催したのだった。

 やがて化学療法が再開されたものの,効果があるようには見えなかった。医師は反対したが,「もう治療はやめて,家に帰りたい」という夫の希望をかなえることで,一家の意見は一致した。夫は,自らが創立した在宅ホスピスの患者になることになったのだが,ボランティアとしてホスピス患者のケアに関わってきた体験が,自宅で死を迎える夫の世話の役に立つことになった巡り合わせを思うと,ジュリアは運命の不思議さを思わずにはいられなかった。

 夫は,人生最期の日々を,自宅で家族と友人とに囲まれながら,幸福に過ごすことができた。「娘を人間らしく死なせてやりたい」と,裁判を起こした20年前には望むべくもないことだった。自分たちが起こした裁判の影響で終末期医療の姿が変わったからこそ可能になったのだと思うと,夫が最期に過ごした幸福な日々は,娘がくれた贈り物のように思えてならなかった。

 99年,ニュージャージー州ホスピス・緩和ケア協会は,ジュリア・クィンランの四半世紀に及ぶホスピス運動への貢献を讃え,協会賞を授与した。

この項つづく

註1:コネチカット州に米国最初のホスピスがつくられたのは1975年のことだった。
註2:1969年,名著『死の瞬間』を出版,米国の終末期医療に大きな影響を与えた。

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