医学界新聞

新春企画

どんな環境であれ人生を楽しめる人が最強

寄稿 松村真司,甲賀かをり,水野篤,伊藤香,川島篤志,磯部紀子

2024.01.08 週刊医学界新聞(レジデント号):第3548号より

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 研修医の皆さん,あけましておめでとうございます。研修医生活はいかがでしょうか。まだまだ不慣れな業務に忙殺される中,失敗した自分を責めたり,周りと自分の成長度合いを比べて落ち込んだりはしていませんか?

 「成功するとか失敗するとか僕には関係ない。それをやってみることのほうが大事」とプロ野球選手の大谷翔平は述べています。成功や失敗にとらわれず一生懸命挑戦できる,どんな環境に置かれても人生を楽しめる人こそ最強なのではないでしょうか?

 新春恒例企画『In My Resident Life』では,著名な先生方に研修医時代の失敗談や面白エピソードなど“アンチ武勇伝”をご紹介いただきます。

①研修医時代の“アンチ武勇伝”
②研修医時代の忘れえぬ出会い
③あのころを思い出す曲
④研修医・医学生へのメッセージ

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松村医院 院長

 送られてきた本特集企画の趣旨には「成功を収めた先生方に失敗談を聞く」とありました。今の私が成功を収めているかはさておき,そもそも令和の若者たちが卒後30有余年たっても変わらずドジっ子キャラの私に何を学ぶことがあるでしょうか。振り返ってみれば失敗談の山,いちいち例を挙げればきりがなく,思い出補正を差し引いたとしても,全ては今の私へと続く「長い一本道」かつ「青春の影」です。そして,今も日々繰り返される失敗は,未来の自分の糧になると信じて……いや,信じていないとやっていけません。

①「何かあったら助けてやるから絶対大丈夫」と先輩に言われ,当直医向けの某マニュアル一冊だけを持って出かけた初めての当直バイト。今では考えられないですが,当然のように一人当直。明け方の外来に来たのは動悸を訴える患者さんでした。心電図をとったところ洞性頻脈のように見え……までは良かったものの,その後は頭が真っ白。助けてくれるはずの先輩のポケベル(!)を鳴らしてみても案の定コールバックなし。困り果てた私を助けてくれたのは,実家で寝ていた当時現役開業医だった父でした。その父も数年前に鬼籍に入り,今となっては電話を受けた時どんな気持ちだったか,聞いておけばよかったなと思っています。

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レジデント時代の写真
白衣姿の写真はこれしか見つかりませんでした。聴診器はたぶんその場にいた看護師さんに借りたものです。

②当時はほとんどが出身校の医局で研修をする時代。そんな時代に母校を飛び出し,東京の病院で研修を始めた私は激レアさん。そんな中,最初の内科ローテーションの指導医になったのは母校の優秀な先輩という,激レア×激レアの組み合わせ。そんな奇跡も重なったためか,マンツーマンでの熱血指導となりました。会うなり一言「まっちゃん,学生時代の教科書はハリソン? セシル?」。ネット書店のない時代,一念発起しその日のうちに神保町のS省堂でセシルの分冊を買ったのでした(電子版のない時代,ハリソンは持って帰るには重すぎました)。研修時代を共に過ごした多くの医学書たちとは,“こんまりメソッド”に従いほとんどお別れしたのですが,黄ばんだセシル内科学は,「スパークジョイ」を発しつつ今も本棚の一角に並んでいます。

③ポール・ウェラー『Into Tomorrow』。当時私は,The Jam,The Style Councilという輝かしいバンドキャリアに区切りをつけ,ソロアーチストとして再出発をした彼に一人上京した自分を重ね合わせて,この曲を含むファースト・アルバムを繰り返し聞いていました。ライブも見に行きましたが,過去の自分に怒りをぶつけるような激しいステージアクトに魂を揺さぶられ,勝手に兄貴認定し,その後もずっとお慕い申し上げています。年を重ねてもなお前進し続けるウェラー兄貴を見習い,私もめげずに頑張ろうと思っています。

④勝ち続けることは難しく,また勝つことは人生の目的でも意味でもありません。逆説的ですが,負けを繰り返すことによって豊かな人生が生まれるのだと思います(と言うか思いたいです)。でも負けはつらい。負けが込むともっとつらい。そんな時は,なるはやで,助けを求めましょう。どこかに救いはあり,必ず出口はあるのです。

 「そう,人生は勝つことより,負けることの方が数多いのだ。そして人生の本当の知恵は『どのように相手に勝つか』よりはむしろ,『どのようにうまく負けるか』というところから育っていく。」(村上春樹著『一人称単数』「ヤクルト・スワローズ詩集」,文藝春秋より)。


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千葉大学大学院医学研究院生殖医学(産婦人科学) 教授

言葉遣い:学生時代は千葉大医学部で上下関係のゆるい水泳部と,上下関係が全くフラットな英語サークルに入っていました。そのせい(+さまざまな生育環境により)で,研修医になったばかりの時は,上級医や教授クラスの先生にタメ口をきき,よく怒られました。生まれて初めての学会発表で,他大学の先生(しかも教授)に向かって「良い質問ですね」と言ってしまい,指導医が大慌てをしたこともあります。英語でもThat's a good questionと言うし,何がいけなかったのか,その時はしばらくわかりませんでした。現在は身分をわきまえ,(わりと)上品な言葉遣いをしている(つもり)です。

乱暴な手技:当時よく私は,「先生は度胸があるね」とか「大胆だね」と言われていました。素直に褒め言葉だと思っていましたが,実は(わりと)乱暴な手技をして周囲をハラハラさせていたようです。手術中に子宮マニピュレーター(子宮の中に入れる器具)を子宮ではなく腟に突き刺した,とか,帝王切開の時に臍帯と間違えて指導医の指をコッヘルで噛んだ,といったような経歴を,今でもとある先輩に語り草にされています。その後は諸先輩方の指導の下,かなり慎重で丁寧な手術をするようになったと思いますし,自分も手技の荒い若手の先生にこれらの話を披露して根気よく指導するようにしています。

武谷雄二先生:お会いしたのは医学部6年生の時なので,正確には学生時代です。当時千葉大に残るつもりでいたところ,夏に父が急死,母親も鬱になってしまい,一人っ子の私は東京の母親の面倒を見るべく,数年間東京で働けるならどこでも良い,と思って医局探しをしていました。その時お会いしたのが当時の東大産婦人科教授,武谷先生です。その頃よく,「これからはお産が減るから産婦人科と小児科は仕事がなくなる」という話を聞きましたが,武谷先生は「お産が減ったせいで罹患率が増える病気,例えば子宮内膜症などの診療で産婦人科医が活躍するチャンスはむしろ増える」とおっしゃり,なんとポジティブで論理的な考えをされる先生だろうと感動し,入局することにしました(そしてくしくも子宮内膜症は私のライフワークになりました)。

吉川裕之先生:私が東大病院の研修医の時,産婦人科の病棟医長として悪性腫瘍の患者さんを一手に担当されていました。当時,腫瘍マーカーの結果が出るには数日かかり,ケモ(化学療法)の効果がなかなかわからないことがよくありました。そんなある日,先生に「◯◯さん,腫瘍マーカー下がっていました」と普通に報告したところ「なんでもっとうれしそうに報告しないのか」と怒鳴られました。何で怒られたのかわからず一瞬呆然としましたが,その後先生がいかに本気で患者さんを思い,自分の治療にプライドをかけているのかを知り,医者としてのプロ意識が何たるかを学びました。

④学生時代,初めて産婦人科の内診台に上がって診察を受けた時(千葉市の病院です!),自分はいつかカーテンの向こう側で,困っている女性の幸せのために仕事がしたい,という夢を持ちました。産婦人科医になり,いったんはその夢をかなえられたように思いましたが,自分一人で診察し,手術し,幸せにしてあげられる患者さんの数には限界があることも知りました。そして今,私の夢をさらにかなえるため,自分と同じかそれ以上に良い診療のできる後輩をたくさんリクルートし,教育し,輩出したいと思っています。皆さんも常に夢を持ち,夢に向かって仲間を増やし,さらに大きな夢を抱いてそれを叶えていってください。そして周産期・産婦人科医療に興味のある先生・学生さん,この世に女性がいる限り,活躍の場はたくさんあります! ぜひ私たちの仲間に加わってください!


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聖路加国際病院心血管センター循環器内科 医幹
QIセンター医療の質管理室長

①何回か似た話をしていると思いますが,ご容赦ください。

 まず,留年する人の少ない大学で留年し,同期にほとんど知り合いがいないため,情報戦に出遅れます。そのくせ,何か有名な病院に行ってみたいということで,かろうじて知っている先生に研修病院のおすすめを教えてもらうのですが,社会常識もないダメ人間のため,大都会東京の病院の面接では大変な状況でした。某有名K病院の履歴書は顔写真を貼らずに提出しましたし,面接官の偉い先生方から「見学も来ていないとどんな病院かなんてわからないだろう,ふざけているのか!」と言わんばかりのお叱りを受けたのだけよく覚えています(われながらお恥ずかしい限りで,当時の面接官の先生方すみません)。

 その後,日々一所懸命生きるようになった初期研修医時代。毎日必死に研修しているのは良いのですが,救急外来での腹部エコーの最中に寝落ちしてしまい,患者さんから「大丈夫ですか?」と心配される始末。今ではありえない環境だったかと思います。20年近く前の大変鍛えられる(ブラックとは言ってません!!!)研修状況で必死に頑張っていたということだけは伝わっていたのか,周りも患者さんもサポートしてくれていたのだと思い,今でも感謝しております。

②自分を育ててくれた患者さんはたくさんいます。読者の皆さんも,医師となって初めての受け持ち患者さんは忘れられないと思います(後々,私のように話すこととなるのでしっかり覚えておいてください)。人工透析導入直前の慢性腎臓病,冠動脈バイパス術の既往のある高齢女性。オーダーどころか病態も把握できないまま,とりあえず受け持ちが決まった日の翌日の朝,何か調子が悪そうなんです。今考えれば慢性心不全の増悪なのですが,全く状況がわからんのです。今はガイドラインなどで治療方針が当然のように決まっていますが,当時は○△マニュアルのようなものしかなく,病棟での悩みに答えてくれるコンテンツは皆無でした(今はいい時代です)。状態が悪いことを周りの先生方に手当たり次第に伝えまくって,優しかった卒後4~5年目ぐらいの消化器科の先生がさまざまに助けてくれました。本当に感謝したことも記憶しています。当時の患者さん・同期・指導医の先生方の多くの助けがあり,自分は医師としての道を歩むことができたと思っています。

③研修医時代はスキマスイッチでしたね。何か『全力少年』(全力おじさん)だったからでしょう。

④とりあえず目の前のことを一所懸命していると良いことがあると思います。人生はどんな環境であれ,楽しめる人が最強です。臨床現場では,自分の力量で診れるちょうどギリギリの患者さんと定期的に遭遇するようになっているように思います。「自分は試されているな」と感じ,非常にストレスがかかることも事実です。ただ,その目の前の患者さんに一所懸命に対応することはきっと皆さんを成長させてくれるでしょう。成長の先には何ものにも代えられない幸せ・楽しさがあり,エウレカに通じるものです。もちろんこれは,臨床だけではなく,研究であれ,事業であれ,どれも同じかもしれません。

 優秀な人であればあるほど,臨床現場からは離れていってしまう時代となりましたが,臨床医にとって,このWilliam Oslerの金言は不変だと思うので,最後に共有して終わりたいと思います。「我々は患者と共に学びをはじめ,患者と共に学びをつづけ,患者と共に学びをおえる」。


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帝京大学医学部外科学講座Acute Care Surgery部門 病院准教授

①私は2000年に東京慈恵会医科大学を卒業した後,聖路加国際病院で外科研修を開始しました。当時の研修システムでは研修医の労働時間制限などの配慮はなされておらず,基本的に明確な休みの概念がなかったため,朝から晩まで病院内で働いていました。病院のすぐ隣に「レジデントハウス」という研修医用の寮があり,研修医たちはそこに住んでいましたが,そこにも毎日は帰れませんでした。

 外科のローテーションでは,私以外に小児科系と内科系の女子がおり,女子3人で運命共同体のようになんとか生き延びていました。私たち3人は慢性的に睡眠不足だったため,日中のカンファレンス中や,長い手術に鈎引きで入っている時など,寝落ちしてしまうことがありました。そのため,当時のアテンディングや先輩医師から,「ナルコレプシーズ」と呼ばれていました。ナルコレプシーとは,昼間に強い眠気を生じ,睡眠発作を起こす睡眠障害です。今の時代,研修医をそんな状態になるまで働かせていたら問題になると思いますが,当時の寝ても覚めても研修に没頭していた時代は,間違いなく私の医者としての原点となっていて,今でもその時代を一緒に生き抜いた研修医時代の同期たちに会うと,当時に戻ったような気分になります。

②聖路加国際病院に研修医として就職した時の新人歓迎会で,外科レジデント3年目でこれから米国へ臨床留学するという先輩に出会いました。その先輩は,レジデント2年目の時にベストレジデントに選出されており,ECFMGなどの臨床留学に必要な資格も全てそろえて,米国の中でも超一流であるハーバード大学の外科プログラムの正式なレジデントとして採用されていました。米国留学をめざしていた私はその先輩から,どうしたらベストレジデントになれるのか,米国臨床留学への道のりはどのようなものなのかなど,話を聞かせてもらいました。その先輩はそのあとすぐに渡米してしまいましたが,私は先輩のアドバイスを守りながら聖路加での研修を続け,研修医2年目の時にベストレジデントに選出されることができ,特典として,1か月の米国短期留学の切符を手に入れました。その際に,ハーバードでレジデントをしていた先輩のいる病院の見学へ行きました。その先輩は現在の私の夫です。

 ちなみに,夫が私に教えてくれた,ベストレジデントになるためのアドバイスは,「退院サマリーの締め切りを守る」でした。一見,「そんなことで?」と首をかしげてしまいそうなアドバイスなのですが,超多忙な外科研修で,手術や病棟業務などの診療そのものに追われる中,地味で小さな仕事であっても取りこぼさずに勤勉であれ,ということだったのだと思います。

③及川光博『死んでもいい '98』。外科ローテーション中,当直明けで意識が朦朧とした状態で朝の回診をしていた時に,患者さんの病室のテレビでこの曲のMVが流れてきました。レオタード姿のミッチーがポップな曲調で「死んでもいい」と明るく歌い踊る,その突き抜けた感じが,当時の実際に死にそうなくらい疲れていた私の心に刺さりました。

④研修の開始は医者としての人生の幕開けです。仕事もプライベートも思い切り楽しむことが,結果として,患者さんにとって最高の医療を提供できることにつながると思います。

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写真 聖路加国際病院での研修開始時の集合写真
「このときから20年以上が経過しましたが,今でも忘れがたい仲間たちです」。左端が筆者。

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市立福知山市民病院 研究研修センター長兼総合内科医長

①私は初期研修1年目を大学病院,2年目からは後述する舞鶴で研修しました。もともとは京都大学医学部附属病院の総合診療部で1年間という話でしたが,いつの間にか(?)3か月×4というローテート研修に変わっていました。しかも,もともと5月から勤務となっていたにもかかわらず(当時は3月中旬に医師国家試験),4月中旬に国家試験の結果発表を確認するために自宅に電話すると,「明後日から仕事やぞ!」と父親から叱責。頭の中は??? でした。というのも,この時卒業旅行でエジプトに滞在しており帰国はまだ先(4週間弱の卒業旅行から帰ると,アパートのポストに4月から勤務であることを記載した手紙が大学から届いていました……が明らかに遅いですよね!)。急いで大学の複数の先生方に電話で連絡を取りました。1日500~1000円暮らしの貧乏旅行だったのに,電話するのに5000円以上かかって憤慨していました! アパートの引っ越しもまだ……という段階でしたし,「そんなの聞いてない!」と腹をくくって,予定通り旅行を完遂してから引っ越し。医師としての勤務は1週間以上遅れて始まりました。

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写真 初期研修1年目に結核病棟にて
回診で訪室すると,大仏マスクをかぶって待っていたお茶目な若い患者さんが,「先生もかぶってよ!」と言って,撮ってくれた写真です(当時はフィルムから現像してわざわざくれました)。当時の聴診器はシングルチューブですね。ちなみに患者さんは結核菌を排菌してました……。この症例は診断プロセスが興味深く,キャリア初の学会発表につながりました。論文化もされましたが,川島の名前はありません……。

 最初のローテートは循環器志望の多い10数人のグループ。当時は研修医室に戻るたびに患者さんからの差し入れをバクバク食べていたら,体重は3か月で+10 kg(卒業旅行で-5 kgでもあったのですが)。今考えると,大した業務をしていないのに,「忙しい,忙しい……」と文句を言っていました。担当患者さんからもらったバナナを冷凍し,週1回の教授回診に備えて皆でワイワイ食べようとしていた時,ガブっと噛んだら,ボキっと前歯が逝ってしまいました(もともとその歯は痛めてたという前振りはありますが……)。しばらく前歯がない時期は歯抜けネタもできましたが,強面の医局長からは「喧嘩したんやないやろな」と締められました。

 ここでは病棟看護師さんのスケジュールがなぜか把握できて,仲良しグループでよく呑みにも行きました。ある呑み会の際に,(当時あった)ポケベルで病棟から呼び出し。途中で元気よく「帰ります!」と飛び出したものの,次に気づいたのは翌日の朝10時過ぎ。なぜかコピー室のソファで布団をかけられて寝ていました……。それが土曜日だったので,金曜日の準夜勤,土曜日の深夜勤の看護師さんが帰った後の,次の日勤の看護師さんに恐る恐る前日の様子を伺いました。しかし,何があったかわからず……。さらにポケベルまで失くしていました。学生時代にもアルコールで記憶が飛ぶことがありましたが,社会人になって「やってしまった」のは大反省でした(ちなみに呼ばれた要件は大きな問題ではなかったです)。一応,自分的にはそれなりに頑張っていた大学病院1年目……でしたが,2年目からの研修で目が覚めた感じでした。

②昨今の働き方改革的には逆行していますが,医師2年目から過ごした,市立舞鶴市民病院での3年間,同僚・先輩方,医療スタッフとの出会いはかけがえのないものでした。何度も寝坊した早朝勉強会から始まり,朝の回診(その前の情報収集),大リーガー医のレクチャー(+その準備),いつ呼ばれるかわからない剖検,救急診療……そして,学生さんを含めた教育。自分自身の臨床医としての礎をつくってくれた場所でした! どんな時代だったのか興味を持たれる方は『“大リーガー医”に学ぶ――地域病院における一般内科研修の試み』(医学書院)をどうぞ。

③コブクロの『Million Films』。愛娘が小さい時,早朝の散歩やだっこで寝かす際によく歌っていました。初期研修中であっても子育ては大事! 該当する方は,理解ある上司を見つけて,周囲への気配りをして(受援力1)を高めて),楽しい育児を経験してくださいね2)

④ここ数年はコロナ禍での研修開始で,皆さん大変な思いをしているのではないでしょうか。学生時代のような仲間や時間の過ごし方はできなくなってくると思いますが,ほどよく息抜きをして,長い医師人生を乗り切るスキルを身につけてくださいね! 医学生さんも今のうちにシッカリ遊びましょう! ただし,病院からの手紙とアルコールには注意ですよね!

1)吉田穂波.受援力リーフレット.
2)林寛之,川島篤志.パパ予備軍に捧ぐ育児講座.週刊医学界新聞.2008.


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九州大学大学院医学研究院神経内科学 教授

①あまり要領の良い研修医ではなかったように思います。研修医1年目,内科をローテートしていた際,私が主治医をしていたのは4人ほどの患者さんであったにもかかわらず,日々の診療に全く時間が足りませんでした。その日の診察所見やアセスメントを紙カルテに延々と書いて,カルテが何枚にもわたることもあり,日記のようでした。病院から歩いて5分以内の場所に住んでいたにもかかわらず,夜にカルテを書きながら力尽き,仮眠室で寝る日々を送っていました。研修医の先生方と仕事後に飲みに行くイベントにも間に合わず,あまりの要領の悪さを心配した先輩研修医が「何にこんなに時間が掛かっているのか」と面談をしてくださったこともありました。同期の研修医が記載した,端的で取るべきアクションがぱっと分かるカルテを見て衝撃を受け,徐々に記載を改めるようになっていきました。

②医師3年目で勤務した済生会福岡総合病院神経内科の当時の部長であった山﨑賢智先生からは大変鍛えていただきました。tPA治療など救急の業務の合間に,英語の成書を毎日10ページずつ読むノルマがありました。抜き打ちで進捗度チェックがあるので,日曜日の夜は必死で読んでいたのを覚えています。とても苦しかったですが,今思えば数冊通して読むことができ,とても勉強になりました。

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済生会福岡総合病院で一緒に勤務した仲間と
厳しい日々に励まし合った大事な同期(左)と筆者(中央)と先輩(右)。

 患者さんとの出会いも忘れられません。脳神経外科をローテートしている際,神経膠芽腫により全失語になっている患者さんの点滴ルート確保が何度やってもうまくいきませんでした。半分泣きながら取り組んでいる際,ふと見上げると患者さんがとても優しい笑顔で見守ってくださっていたお顔は,今も時々思い出します。 研修医2年目には,神経内科(現在の脳神経内科)病棟で,ウクライナ出身で多発性硬化症を発症したばかりの患者さんの主治医となりました。当時の私は喫煙が多発性硬化症の発症や病態進行のリスクになると知らず,喫煙したい患者さんを何度も院内喫煙室(当時はまだあった!)にエスコートし,一緒に座って病気や人生のことなどさまざま話しました。再発予防のためインターフェロンβ製剤を導入しましたが,ウクライナでは同製剤を使用するには自費で購入するしかなく,これでは治療が継続できない! と途方に暮れ,病棟からウクライナ大使館に電話し,何か彼女のために対策をしてくれないかと頼み込んだこともありました。

③研修医時代,特に脳神経外科をローテートしていた頃は毎日とても充実しつつも気が張っていて,朝の目覚まし代わりにPINKの『Trouble』を大音量で流して飛び起きていました。今でもこの曲が流れると,やるぞ,と気合いが入ります。大学院時代からは,同期の勧めでPerfumeが好きになり,『Dream Fighter』のMVを見ると,“現実に打ちのめされ倒れそうになってもきっと前を向いて歩”いていこうと思えます。

④お一人お一人の患者さんから学ぶ姿勢をぜひ大事にしてください。わからないことは自分で調べてみて,それでもわからない時は周りの人に尋ねてください。もしそんなことも知らないの? と言われたとしても,人に聞くことで知識も焼き付きますし,得た知識を患者さんに還元することができます。特に研修医の時は,一人で抱え込まないようにしましょう!

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