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  • 帰ってきたスポーツの夏! 東医体・西医体の夏!!(林寛之,山髙篤行,上原由紀,泉美貴,皿谷健,越智小枝,後藤礼司)

医学界新聞

寄稿 林寛之,山髙篤行,上原由紀,泉美貴,皿谷健,越智小枝,後藤礼司

2023.07.10 週刊医学界新聞(レジデント号):第3525号より

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 医学生時代の思い出に部活動を挙げる方も多いのではないでしょうか。医学生の医学生による医学生のためのスポーツ大会と言えば,東日本医科学生総合体育大会(以下,東医体)・西日本医科学生総合体育大会(以下,西医体)です。新型コロナウイルス感染症の影響で2020年度から中止や縮小されてきましたが,この夏4年ぶりに全面再開した形での東医体・西医体が帰ってきます!

 本紙では第一線で活躍されている先輩方から,東医体・西医体の思い出,部活動から得た学びを紹介していただきました。さらに,4年ぶりの全面再開に向けて尽力する運営委員の現役学生による対談を企画。学生時代を懐かしみ,母校の後輩たちを応援してみませんか(関連記事)?

こんなことを聞いてみました

①出身大学・部活動
②医科学生総合体育大会の思い出
③部活動を通した出会いや学び
④医学生へのメッセージ

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福井大学医学部附属病院 救急総合診療部 教授

男泣きし坊主に,汗と涙の東医体!

①自治医科大学・硬式テニス部

②晴れて大学生になった暁には,ワクワクドキドキでムフフな青春を送ろうと,軟弱(軟式)テニスか好色(硬式)テニスにしようか……少しだけ迷った。昔はスマホなんてないので,テニスかスキーをするしか男女の出会いはない。もちろん,下心が見え隠れした好青年は硬式テニスを選んでバラ色の青春を送る……はずだった。「しまった,ここは自治体育大学だったのか……」。なんとも硬派な部活だった。大学は全寮制なので毎日が合宿のようなもの。サボれない部活だった。授業はサボり放題だったのに……。先輩たちは「東医体」という言葉にエクスタシーでも感じるのか,全力で熱くなっているのが最初は不思議だった。それでも飲み会で肩を組まれ汗と泥にまみれれば,もうすっかり洗脳されてしまった。初めての合コンも田舎者のくせに新宿アルタ前なんて人のごった返す場所を待ち合わせにしたおかげで,人混みに押し流されて,結局夢に見た合コンもできずに終わった。スマホのない時代ってやつは……。「二度と合コンなんて行くもんか」と誓い,潔くテニスに打ち込むことができた。脳は言い訳を考える天才だぁ!

 その日から毎日練習に明け暮れ,東医体では2回優勝,準優勝と3位が1回ずつ,全医体3位。関東医歯薬リーグでは5部(全6部)から毎年入れ替え戦で勝ち上がり,5年生では1部で優勝するまでに至った。関東医歯薬個人戦ではシングルス3位,ダブルス優勝(ペアは現・兵庫県立尼崎総合医療センターER総合診療科長の吉永孝之先生)という自治体育大学の名に恥じない成果を残すことになった。熱く切磋琢磨したチームメイトとは何年たっても心を許せる関係を築けた。心から感謝してもしきれない。

 東医体は主におしゃれな山中湖や軽井沢で開催されるが,自分たちには埃舞う戦場にしか見えなかった。仙台のインドアコートで開催された夜までもつれた決勝戦,優勝が決まった瞬間にコートに走り込んで先輩と強く抱き合ったのをおぼろげながら覚えている。あの光景を走馬灯のように見ながら死ねると幸せかなぁ……。主将を務めた4年生の時は,決勝で私が負けたせいで優勝を逃し,男泣きに泣き,坊主にした。人生で坊主にしたのはあの時が最初で最後だ。

③ジリジリと照り返しの強いコートで意識が朦朧となる中,胸元を汗が垂れる時の感触は……むしろ満身創痍でやる気を振り絞る決意を感じた。「練習量では負けない,競ったら絶対に勝て!」とペアを組んでいた吉永先輩から教わった。その時から勝ち癖がついたように思う。逆境こそ伸びるなんて少年ジャンプのヒーローじゃあるまいし,と思うが日々の努力や行動・目的が伴えば,逆境は突き破れると学んだ。今も仕事に追われ八方ふさがりになっても,踏ん張っていれば急に一段階成長する感触があり,それと同じだ。

 主将の時,赤点を取ったらレギュラーから外すという暴挙に出るも,みんな従ってくれたおかげでテニス部は学業成績が良かった。一方で,過酷な合宿メニューを組んだら総スカンを食らい,ワンマンではダメとチームマネジメントを学んだ。ちょっと……いやしっかりと落ち込んだのは言うまでもない。でも仲間には愛があった。

④今の医学生は出席管理も厳しく,われわれの時代と同じように部活に打ち込めないのはかわいそうだが,できる範囲でぜひとも東医体・西医体に命を燃やし,いろんな仲間とうまくやるすべを学んでほしい! 学生の本分は,学生時代にしかできないことに思いっきり打ち込むことにあるのだから。また勝ちにこだわる大事さも部活で学んだが,いろんな凸凹な仲間と楽しくやることから「人生は競争ではなく旅である」ということも学んでほしい。


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順天堂大学小児外科・小児泌尿生殖器外科 教授

 

規律と鍛錬をラグビーから学ぶ

①順天堂大学・ラグビー部

②中学・高校・浪人時代と適当に生きてきた私にとって,大学入学後,生まれて初めて燃えられるものに出合いました。その出合いによってまさに人生が一変したのです。それがラグビーでした。神様はなぜ私にラグビーを,そして後に小児外科という初めて燃えられる学問・職業を与えて下さったのか……。2つの幸運に恵まれました。

 入学後,程なくラグビー部に勧誘されました。私自身,運動神経にはそこそこ自信があったものの,身体は大きくなく,2年間の浪人生活を経ていたので,数合わせに勧誘されたようなものでした。中高時代は「ラグビーは不良を更正するスポーツ」だと思っており,高校ラグビーがテレビ放映されていても観ることがなかったのです。しかしながら,練習見学に参加した際,男同士の鍛え抜かれた肉体と魂のぶつかり合いに圧倒され,いたく感動。入部を決めました。そして,何よりラグビー部の「自由」な雰囲気が自分に向いていました。

 ラグビー部監督は,後に私の上司であり人生の師となる宮野武先生(現・順天堂大学名誉教授)でした。宮野監督が公式戦前日のミーティングで選手を送り出す儀式は,入部間もない私には宗教がかっているように映り,これは特殊な宗教団体の集まりではないかと疑心暗鬼に陥ることがありました。

 さて実際の練習はというと,過激の極みでありました。けれども私は辞めたいなどとは一瞬たりとも思ったことはなく,とにかく「いち早くレギュラーになってやる」との一心でひたすら練習に励みました。宮野監督に鍛えられた当時の先輩方の実力は,医学部の域を超えていたと思います。東医体5連覇,医歯薬リーグ6連覇,公式戦53戦不敗を達成した実績が何よりの裏付けであるかもしれません。実際,全国大学ラグビー選手権に出場し,慶應大の体育会の一軍でプロップ(スクラムの最前列のポジション)をされていた選手が,「順天堂のプロップは本当に強かった。医学部とは思えない」「彼らは本当に医者になったのか?」「いや,本当に強かった」と,私が後にお会いした際に,昔を懐かしむように語っていらしたのが印象的でした。当時,練習の指導にお越しいただいていた早稲田大の元日本代表選手は「医学部なのに早稲田より体育会系で驚いた」とおっしゃっていました。

 当時のラグビー部を象徴するエピソードとして,私の後輩が「小指の思い出」と題したものがあります。試合を一週間後に控えていた後輩は,練習中に小指を骨折。試合当日に運悪く患部をスパイクで踏まれてしまい,激痛で七転八倒。応急処置のためグラウンド外に出された後輩に監督は「一体どこが痛いんだ?」と問う。後輩は「小指が折れているんです」と答える。その瞬間,監督の形相が変わり,「小指を怪我したってラグビーはできるんだよ!」と一蹴。「いや,これは凄い……」と失笑を禁じ得なかった自分がいました。

 そんな逸話を持つ後輩でありますが,息子さんがラグビーをやってみたいと言い出した時の感慨を,「息子が試合中,小指を折った時,かわいそうにと抱きしめるのか,小指くらい何だと怒鳴るのかはわかりません。しかし,あの時の宮野監督のように嘘,偽りのない,自分なりのラグビーへの思い,本音をぶつけてやれたらと思っています」と,ある記念誌で語っていました。

③ニュージーランド代表チームオールブラックスの怪物ウイング,ジョナ・ロムーの言葉に「ラックの下敷きになる。相手がスパイクで踏みつけてくる。それでも笑顔でポジションに戻る。そのためには精神的な訓練とコントロールが必要なのです。ラグビーによって,人生は規律と鍛錬だと学びました」があるそうです。

 かくいう私は生来規律が苦手ですが,ラグビーで鍛錬の重要さを学び,ラグビーによって教育され矯正され,いい加減な生き方から抜け出せました。ラグビーは,私にとりましても確かに「不良を更正するスポーツ」でした。小児外科を生業とできるようになったのも,このラグビーから教わった鍛錬と精神修養の賜物と申せます。

④最後に,私が6年間練習終了後に蹲踞そんきょし毎回大きな声で読み上げた監督宮野武先生作の「順天堂大学医学部ラグビー道場訓」を記します。

 「ラグビーで最も大切なものは気力,魂である。練習とは,気力,魂の錬磨であり,不可能を可能にすることである。我が順天堂ラグビーは攻撃的ディフェンスのラグビーである。勝つためには試合に於いてスクラメージとプレッシャーとディフェンスが完璧に遂行されねばならない。素質で勝つのではない。練習の質と量で勝つのだ。今日の練習が無事に終わったことを両親と神に感謝する」

 この道場訓を基に私は小児外科医になるための修行をしてまいりました。あれから40年。今でも,「手術で最も大切なものは気力,魂である。手術前の準備は,気力・魂の錬磨である」と日々実感しています。

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写真 鍛え抜いた肉体と魂をぶつけ合う。

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藤田医科大学感染症科 臨床教授

弓道で培った対応力と心身コントロール

①日本大学・弓道部

②日大弓道部は東医体以外にもたくさんの大会に出場するため,もはやどれがどの時の記憶なのか曖昧になっています。それでも幹部学年である4年時の東医体が一番大変だったように思います。

 弓道部は女子に人気がある大所帯の部で,4年生の私は総務的役割である「主務」を務めていました。自分自身も個人戦や団体戦に出て一定の成績を出さないとならないし,後輩も指導しなくてはならないし,先輩にも失礼がないよう遠征をアレンジしなくてはならないし……と,今思うと弓道と関係ない思い出の方が多いです。もはやどこで4年時の東医体があったのか,試合の成績がどうだったのかは忘れてしまいましたが,自分を高めながら他の人のためにも丁寧に仕事をするという弓道部の幹部学年でのマルチタスク経験は,感染症科でコンサルタントとしてさまざまなご相談を受ける時に役立っているかもしれません。

③大学に入り,人生で初めて運動系かつ先輩や後輩が多数所属する部活動を経験することとなりました。弓道で使う弓は西洋のアーチェリーの弓と比較すると的中の正確性には欠けます。そのぶん邪念や準備不足が的中に影響してしまうのが面白いところであり,難しいところでもあります。常に安定した成績を残される先輩や,生き生きと良い成績を残す後輩には,質の良い練習を十分に重ね,感情のコントロールが上手で落ち着き払っている,という共通の特徴があったと思います。自分自身は運動神経ゼロで,身長の割に手が長いにもかかわらず筋力が付かず,筋力が付いてもすぐに落ちてしまうため,技術的に結構苦労しました。それでも時には心身の状態が一致して集中でき,良い結果を残せることもありました。そういう時は自分でも納得でき,清々しい気持ちになれたものです。

 弓道部で学んだことは,技術だけでなく心身のコントロールもあると思います。医療の現場では驚くことやピンチが数多く起こりますが,あまり動じないでいられるのは弓道部での経験が大きく影響していると考えています。

④新型コロナウイルスのパンデミックにより,部活に入ってみたけど十分活動できなかったという学生さんもいれば,部活には入らず他の興味あることに打ち込んでいるという学生さんもいると思います。久しぶりの開催になる東医体・西医体に参加される方はぜひ大会までの過程も含めて大会全体を満喫し,部活に入っていない方も熱中できることがあればそれを大事にして楽しんでください。先の人生にどの経験が役に立つのかは後からわかる場合もありますので,逆算しすぎずにいろいろな経験をすることをお勧めします。


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昭和大学医学教育学講座 教授

人生に必要な知恵は全て卓球から学んだ

①川崎医科大学・卓球部

②西医体の女子シングルスは1年生で優勝し,卒業まで負けなかったので,600連勝くらいしたと思う。全医体には2度出場し,共に優勝した。現在,学生に「勉強しろ」とは,到底言う資格のない大学生活であった。「神様! 何でもしますから,この1点を私に下さい!!」と,心の中で何度絶叫したことか。そこまで卓球に熱中できた学生生活に悔いはない。

③私は山口県の公立中学校で卓球を始めたが,たまたま顧問が熱心な強豪校で,先輩たちは県や中国大会で優勝し,全国大会で活躍していた。自分もごく当たり前のようにそのレベルをめざした。私より運動神経の優れた人は大勢いたであろうし,卓球台がたくさんある学校はいくらでもあった。

 この経験から,医学部を卒業する際に,最初に教育的な指導者に付いて,レベルの高い教室に入局することが,医師として成功するために絶対に必要だと感じていた。熟慮の末,最も教育的と考える先生がいた病理学教室に入局した。病理医としての修行時代は,1週間に100時間くらい働いた。万人にはとてもお勧めできないものの,その時代に病理診断の基礎を叩き込まれたおかげで今日があることは間違いない。何かを修得するために人間には「学ぶ時期」があると思う。医師としての実力はスポーツと同じで,最初の1,2年間で急峻に伸びる。この時期を逃して伸びる人はまずいない。

④運動部に所属すれば,勝つために必死で努力する。勝って喜ぶことも負けて涙することもある。長所を伸ばすことは重要だが,短所を強化すると意外に長所に変わったりもする。大勝もあれば,大逆転負けもある。自分が勝ってもチームは負けたり,その逆もある。入念な準備や,面倒臭い後片付けもしなければならない。

 往々にして運動部は不条理である。顧問や先輩の言うことは(たとえ弱い先輩であっても)絶対である。先輩からの意地悪もあれば,生意気な後輩からの突き上げもある。チームの応援を一所懸命してくれる部員もいれば,しない者もいる。OB/OGたちはしばしば口うるさく横やりを入れてくる。キャプテンは毎日がもめ事の仲裁役で,いつも理不尽に責任を取らされる。

 チーム医療,コミュニケーション,リーダーシップ,プロフェッショナリズム,自己研鑽……。

 けだし医学部の運動部は社会の縮図である。あ~経験しておいて良かった!!

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写真 「袖から太ももが出ている」と言われた頃の立派な体格から繰り出すスマッシュ。

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杏林大学呼吸器内科 准教授

むせかえる暑さのなか歓喜の抱擁

①順天堂大学・サッカー部

②小学校3年生からサッカースポーツ少年団に入り,1学年上の先輩とセンターフォワード(CF)を一緒にしていたが当時の自分が活躍した記憶はあまりなく,サッカー以外にも水泳(母親が水泳の先生であった),スキー(1級まで取得)などに親しんだ。

 大学では医学部の同学年90人のうちサッカー部が10人。サッカー部は全学年で40人近くの大所帯で結束力があり,本当に多くの時間を共にした。部活の練習は火,木,土,日にあり,土日のどちらかは必ず練習試合である。火曜日,土曜日は御茶ノ水から千葉県の酒々井にあるグラウンドまで車で行き,特に火曜日はナイター練習後の帰宅は午前様で,夜中にラーメンを皆とよく食べた。サッカー部は完全に体育会系であり,オール朝鮮選抜のキャプテンで当時は恐かった先輩や(「相手が足で来たら顔で行け!」が口癖),同期や後輩には東京地区選抜,福島県選抜,東北選抜などもいて黄金期だった。

 東医体は2年生からCFで出場し,2年時と幹部学年の5年時に優勝,6年時は引退していたが準優勝であった。東医体の思い出は“真夏のむせかえるような暑さ”であり,体感では40℃近い土埃の舞う照り返しの強いグラウンドでの試合である。Jリーグ開幕の頃と重なり,春畑道哉の「J'S THEME(Jリーグのテーマ曲)」が会場に流れたことが印象に残っている。東医体決勝は芝生のグラウンドで行われ,一番の思い出は幹部学年(5年生)時の優勝である。優勝後の円陣で,同期とお互いに抱き合ってうれし泣きをしたのは人生の中で,最初で最後の経験となるかもしれない。

 もう1つの思い出は,日本があと一息でW杯出場を逃した“ドーハの悲劇”と,日本がW杯初出場を決めた“ジョホールバルの歓喜”である。どちらもサッカー部の同期が小生の部屋に5~6人で集まり,日本国旗を振り,歌いながら応援していた。「もう勝った!」と思いトイレに行ったロスタイムに悲劇が生まれ,部屋に戻ると皆が静まりかえった瞬間や,W杯出場が決まりそのまま歌いながら居酒屋に繰り出し,知らない人たちともハイタッチして盛り上がったことも懐かしい思い出である。

③春合宿・夏合宿では,地元の高校生を相手によく試合を行った。また夏の炎天下の中で行われる,“まわ十(グラウンドまわり十周の略)”というダッシュと軽いランニングを繰り返し,延々とグラウンドを走らされるトレーニングは名物であった。

 サッカー部では時間厳守の原則があり,普段のミーティングでも理由なく遅刻すると,その週の試合への出場資格を失う。また試合に向けてのメンバー決めは実力主義であった。幹部学年の4年・5年の総意で決定されるため,毎回3時間から長いと5時間,徹底的に話し合った。この話し合いはたくさんの人間がいる中で価値観の違いや考え方の多様性,組織運営の難しさを学ぶ良い機会となった。

 真夏のグラウンドで仲間から学んだことは,「気合い/根性をいくら唱えても鍛え上げた体力(底力)」がなければ思うように動けず,裏を返すと「普段の練習から自分を厳しく追い込む人」が苦しい中で実力を最も発揮していたことである。

④多くの仲間と汗と涙を共に流して打ち込める環境があるのは幸せなことです。燃え尽きるくらいの熱量を注いで良い思い出を作ってください!

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写真 5年時の決勝戦の順大 vs. 東北大。FWとして活躍。

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東京慈恵会医科大学 臨床検査医学講座 教授

部活は身を助く。深夜の病棟は「ラストファイト~」

①東京医科歯科大学・剣道部

②東医体は東日本各地で行われるため,大会が終わった後の部員旅行が毎年の楽しみでした。北海道のサッポロビール園で先輩が酔いつぶれ,そこら辺にあった台車を勝手に拝借してホテルまで先輩を運んだこと,花火問屋から内緒で分けてもらった打ち上げ花火を改造して打ち上げたこと,先輩の車を追い越しながら水鉄砲で攻撃したこと……もう時効とはいえ悪さばかりしていました(今考えたら危険なので絶対にマネしないでください!)。

 大会については,最初全く勝てなかったことが悔しく,4年生以降は新木場で行われていた警視庁特練の朝稽古に参加させていただきました。その他,他大学への出稽古も含め5~6年生の頃は臨床実習の合間に週10回くらい稽古をしていたおかげもあり,5~6年生時の東医体では個人戦で優勝,男子団体戦にも参加して決勝トーナメントに上がれました。6年生時の大会では他大学の仲の良い同期に声をかけて,昼休みに試合会場で勝手に合同稽古会を開催したのも良い思い出です(迷惑ですね)。学業成績は急降下。卒業試験の追試の際には後輩から部活の出禁をくらいました。ご利用は計画的に。

③大学時代と言えばほぼ部活の記憶しかなく,朝練をして教室で爆睡,後頭部で授業を受けながら午後練に備えるのが常でした。朝練後に休んでいたら「今日テストだよ」と言われてとても焦ったこともあります。

 ただ,部活で培った体力は研修医時代にとても役立ちます。初期研修を行っていた病院では「女医の半分は月経が止まる」と噂された厳しい病棟に半年いました。それでも体を壊さず済んだのは,部活のおかげかと思います。真夜中の病院の廊下を「ラストファイト~」とつぶやきながら走る怪しげな研修医でしたが……。

 剣道は今も続けており,留学中にもボストン,ロンドン,ベルギー,イスラエルなどあちこちに防具を担いで行っては“剣縁”をつなぐことができました。スポーツは喋らないでも意思疎通できるため,英語を話せなくても友人を作ることができ,「芸は身を助く」だなぁ,とつくづく思いました。

④今は私が学生の頃とは比べ物にならないほど,医学部のカリキュラムが厳しくなっています。このため気楽に「部活だけやってりゃあいいんだよ」とは言えないかもしれません。しかし,医療の現場は今でも体力勝負の部分もあり,どんなに優秀で優しい人でも,体力がないために患者さんや他の医療者につい厳しく当たってしまう,という場面をしばしば見かけます。そういう意味で,学生時代の体力は知力と同じくらい皆さんの助けになるだろう,というのが私の持論です。

 また,病人ばかり診ている仕事の中で,精神的に追い詰められてしまうことはまれではありません。短時間で気持ちを切り替えられる趣味は心を守る術にもなり得ます。そういう意味で学生時代にはぜひ皆さんにも部活動にハマってほしいと思っています。

 今まではコロナ禍で難しかったと思いますが,「同じ釜の飯を食った仲」の同僚は,何十年たっても貴重な仲間です。さらに,無理矢理にでも一緒にいて,喧嘩をしながら仲間になっていく,という体験は将来のチーム医療の実践にも大切な学びになります。教員としてあまり大きな声では言えませんが,長い人生,学業を多少犠牲にしてでも部活に打ち込むことも大切だと思います。ただし,私のようにお酒を飲みすぎて屋根から落ちたり冬の路上で寝たりしないよう,くれぐれも気を付けてくださいね。

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写真 朝稽古から出稽古まで励む。右から2人目が越智氏。

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愛知医科大学循環器内科 講師

気分はもうスラムダンク

①藤田保健衛生大学(現・藤田医科大学)・バスケットボール部

②バスケットボールを小学校6年生から始めた私はその面白さに魅了され,もちろん大学に入学した後も心はバスケ部一本でした。私が幸運だったのは良い先輩たちに指導を受け,仕事が「点取り屋」となったこと。大学入学直後の5月~6年生の12月末の大会までスターティングメンバーとして試合に出続け,特に高学年時の平均得点は40点を超えていました。

 スポーツをする医学生にとっての夏の祭典は東医体・西医体です。『スラムダンク』をご存じの方がいれば理解が容易だと思いますが,私が大学5年の夏,「湘北対山王」は起こりました。相手はインターハイ経験者,国体経験者に加えイケメン揃いで占められたドリームチーム。2回戦での対戦が決まりました。大会1か月前のトーナメント発表はわれわれのチーム全員の顔を青くさせました。しかし,われわれは「湘北」でした。徹底分析し,各選手の特徴を詳細に把握。チーム戦術を緻密に組み立てました。そしてその時覚えた,「ディープスリー」と言われるスリーポイントラインよりも2mほど後ろからのスリーポイントシュートが私の武器に。本大会では会場の観客の予想を裏切り見事にUpset(番狂わせ)を達成! 2点差のゲームでしたが決勝点がそのスリーポイントシュートとなったのです。今でもシュート時の手の感覚を鮮明に覚えています。ただし,その後は燃え尽きるというところまで「湘北」そっくりであったことは付け加えておきましょう……。

③卒業後,医師になっても私の隣にはいつも大好きなバスケがありました。社会人チームでのプレーと,母校でのコーチングを続けていた私にある日,JBL(現在のBリーグの前身)2部に所属していたアイシンAWアレイオンズ安城(2022年で活動終了)からプレイングドクターとしてのオファーが。当然周りの反応はNo,できるわけがないと。でも私はそれに反しYes。

 循環器内科医としての仕事をしながらのスター選手たちとのトレーニングや練習は過酷を極めました。朝から病院へ行き仕事,夜や土日のワークアウトは当直や日直業務がない限り参加し,追加で自主トレ。その後はまた病院に戻るという生活でした。緊急カテーテルで体育館から練習着で病院に戻った時もありました。ある日チームメイトは私にこう言いました。「ドクターは普通に仕事してたら十分じゃないですか,しかも忙しいし……。それに加えてなんでわざわざつらい練習までするんですか?」と。冷やかし程度だと思っていた選手もいたようです。しかし私の回答は「コートに立つからにはコート上で結果を出さなきゃいけないのは当たり前,だから努力は最大限するよ」と。才能も能力もある選手たちとプレーを共にするには人一倍努力して当たり前だとチャレンジ前から考えていました。そして得点するのが難しいと面食らったのもこのカテゴリーでした。今まで私が「井の中の蛙」にならずにここまで来られたのも,そして全ての人に感謝しつつチームに何か一つでも,の気持ちはこの時培われました。そして今でもチームメイトは私の大事な友人です。

 現在,循環器内科医として大学病院に勤務する傍らBリーグのチームドクターを複数担当しています。そして2021年にはB3リーグ優勝をこの母なるチーム(アイシンAWアレイオンズ安城)でドクターとして経験しました。かけがえのない経験と大好きなバスケは今も私の隣にいるのです。

④学生時代の部活動が私の人生を大きく変えました。「医学生だから〇△は無理」という固定観念は私にはありません。コロナ禍では医学生の皆さんも本当にいろいろな制約を受けたことでしょう。感染には気を付けながら東医体・西医体を思いきり楽しんでください! そして私自身,さまざまなジャンルでの二刀流医師の登場を心待ちにしています。

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写真 「点取り屋」として活躍。右が後藤氏。

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