医学界新聞

書評

2022.04.11 週刊医学界新聞(レジデント号):第3465号より

《評者》 医療法人社団永生会 南多摩病院総合内科・膠原病内科部長

 さて書評である。
 この本の書評は難しい。なぜならとても良い本だからだ。
 良い本。買ったほうがいい。本来これで終了である。

 この本は,ちゃんとした医学書である。
 その点が非常に重要である。

 各所で言ってしまっているかもしれないが,教科書というのはある事柄の「全体」を標準的(時に画一的)に扱うものであるが,ガイドラインなどと違い,具体的なことよりも抽象的なことを教えてくれるものだと私は認識している。

 ここ数年以上の「医学書」のトレンド・趨勢は,とにかく「図表が多く,わかりやすく,まとまっていて,すぐ役立つもの」である。そうでないと売れないからだ。ガイドラインというものも非常に汎用はんようされている。まあ,なんというかわかりやすいからだろう。これらはつまり,標準的な「全体」をカバーし,かつ抽象ではなく具体を扱っている。

 この本は,「皮疹の診かた」というある程度の「全体」が扱われている。そしてちゃんとした教科書であり,解説内容も説きかたも堅実で,意味としては抽象を(著者もほぼ無意識に)扱っている本である。この本のやや特異な点は,「全体」と言いつつ,初期研修医などが学ぶべきこと全体からしたら「皮疹の診かた」というやや「個別」を扱っているという点だ。

 ここまでで私が何を言おうとしているかきっとわからないだろうが,私個人は自分で書いていて腑に落ちた。

 この本は「読ま」なければならない。参照して,重要なところだけ拾い読みする本ではない。これを省略すると,この本の真骨頂である,「皮膚科診療という“個別”から,真の意味で応用の効く抽象的な理解を得る」ことはできない。

 ……ああ,それってごく普通のことではないか。教科書から学ぶということにおいて,そんなことは普通。ただ,これをことさら言わねばならないことが問題だと思う。医者は本当に医書を読まない。読まずによく臨床ができるなと思う。どんどん出る新しい論文をフォローするだけで臨床スキルをアップデートしていける人は全体のごくわずか(オリンピアン:全人口比くらい?)だろう。

 少し脱線してしまったが,本書の解説に戻ろう。

 非専門医にとっての「皮膚科の本」といえば,各皮膚疾患が皮膚画像とともに解説がされてあって,読む側は「絵あわせ」的に参照して,今みている患者の皮膚を思い出してこれかな~のような関わり・使いかたになるであろう。

 この本は違う。そういう解説の仕方は一切していない。ロジックを重視。臨床的な「頻度」がしっかり意識されてある。読者を,明瞭に「初期研修医」に合わせてある。

 良い本。買ったほうがいい。これで終了である。


《評者》 高知医療再生機構理事長

 本書の著者であるジャンさんとの出会いは,1980年代後半までさかのぼる。当時私が勤務していた東大病院分院の助教授から,ジャンさんを紹介された。知り合って10年間は,2週間に1回程度おしゃべりの機会を持ち,論文ができたら校閲してもらっていた。その後,私の職場は高知大,そして高知医療再生機構へと変わったが,投稿論文は全てジャンさんの手を経ており,今では機構が販売する学内委員会Web審査システムの英文マニュアルまで校正をお願いしている。

 今回,『トップジャーナルに学ぶ センスのいい科学英語論文の書き方』を読み進めながら,30年以上前にレトロな東大分院の建物で教えてもらっていたことは,ステップIの「英語のマインドをつくる」に述べられている内容であったと気付いた。確かに,科学論文を書こうとする日本人は皆,英作文はできる。しかし残念なことに,「(日本の)学校英文法」とは似て非なる,「英文」を構成する法則,コンセプトへの理解は欠落している。Native speaker(以下,native)が学ぶようなparagraph writingの概念を教える授業は,日本にはないからである。そこをすっ飛ばして中学から大学まで英語を学んだ若い研究者たちは,卒前,あるいは卒後しばらくして初めての論文を完成させる。「事実は現在形で」とか,「受動態は少なめがよい」とかいう先輩の指示だけを道標に。“Paragraph”を日本語の「段落」に置き換えただけの頭では,「ミニエッセイ風」などの構成は思いも至らない。このような前提を知らないと,nativeのproofreadを受け取ったとき,その朱字を許容し難い場合がある。Nativeも,日本人の文の順序や改行を怪訝に思いながら,校正と格闘する羽目になる。

 推奨したいのは本書の3つの使い方である。まず,将来科学論文を書く可能性のある人は,卒業した時点で本書を読んでおいてほしい。そしてステップIの英語のマインドだけはきちんと理解しておくことを勧めたい。以後,英語論文を読みながら,耳障りでない英語を嗅ぎ分け,自分の糧にするために有用である。次に論文を書くときには,Materials and MethodsなどのセクションごとにステップIIの該当する項目を一読してから,英語類語辞典を手元に置いて書く作業を積み上げていくとよい。最後に,論文を書く前はいつでもsignal wordsの分類とステップIIIを読み返す習慣をつけると,自身の論文の質を高めることと後輩の指導に生かせそうである。こうすれば,編集者から“There is a language barrier.”と言われない,研究に対する正当な評価が待っている。

 英文学術誌の編集者であり,本書の執筆に協力された岩永敏彦先生のコラムも参考にしてほしいし,もちろんnativeの英文校正が必須であることは変わらない。投稿誌の論文の傾向をつかむ,その雑誌に必要な字句の定義を考える,大文字ルールを知るなどの教えも,示唆に富んでいる。参考文献の年号巻頁の記載順だけをチェックして論文を書き始めた私の若かりし頃にも,この本があればと悔しくなる。本書の価値はAAAである。


《評者》 佐久医療センター内視鏡内科部長

 『百症例式 胃の拡大内視鏡×病理対比アトラス』の書評を依頼され,書籍が届いた。

 まず,タイトルが長い。そして,表紙がチョットね。某アジア国の夜店に並んでいる本みたいである。

 いやいや,本は内容が勝負。まずは序説を拝読した。何と,敬愛する八木一芳先生ではないか! 急に興味が湧いてきた。

 編集を担当した「拡大内視鏡×病理対比診断研究会 アトラス作成委員会」とは,京都,奈良,神戸,岡山,高知で,独自に開催されてきた拡大内視鏡研究会の総称とのこと。八木先生,八尾建史先生,藤崎順子先生,小生など胃拡大内視鏡診断の第1世代ではなく,各地で拡大内視鏡研究会を企画発展させてきた,第2世代のリーダーたちが制作に当たった書籍である。

 まずは,第I章の総論。胃観察の基本,胃癌病理の基本,切除標本の取り扱い,そして撮影法。実体顕微鏡があれば大変便利だが,買ってもらえない人でも,数万円のデジタルカメラで見事な撮影ができる。素晴らしい工夫である。

 そして,第II章ではよりすぐりの18例が提示され,拡大内視鏡画像と病理組織像が見事に対比されていた。もちろん,champion caseを提示したのであろうが,常日頃から熱心に拡大内視鏡観察し,切除標本を愛おしく扱わねば,このような見事な対比はできない。各執筆者が,いかに情熱を込めて拡大内視鏡診断とESDに取り組んできたのかが,よく伝わってきた。

 拡大内視鏡観察の作法は,フルズーム派と中拡大で表面構造を読む派に大別されるが,第II章に両派が混在していることも面白い。異なる師匠を持つ第2世代たちが,切磋琢磨して成長している姿が垣間見える。

 第III章のWebを用いた100症例の「百症例式」トレーニングでは,医学書院のWebシステムを上手に活用しており,まさに新時代の内視鏡アトラスと言える。

 1990年代に手探りで拡大内視鏡の勉強を始めたが,もちろんテキストもアトラスもなかった。プロトタイプの拡大内視鏡で撮像した画像と,割入りの切除標本,組織像を1例1例対比して,表面構造と組織構築に関係があることを見いだした。しかし,当時はEMR時代であり,分割切除標本では十分な対比は困難であった。「拡大内視鏡画像との対比が可能な,美しい一括切除標本を得たい!」。これがESDの開発に取り組んだ動機であった。1990年代の後半に針状ナイフでのESDに取り組み,試行錯誤を経て手作りのHookナイフに至った。1999年に第1例目の食道ESDに成功した時は,その美しい切除標本に感動した。

 切除標本と組織像を完璧に対比するには,まずは出血や焼灼のない,美しいESDを行うことが重要である。また,標本回収後にグズグズしていると組織融解が進み,きれいな組織像が得られなくなる。素早くピン打ちし,実体顕微鏡観察前に5分間ホルマリンの中へ入れることが肝要である。

 この素晴らしい書籍を制作してくれた「拡大内視鏡×病理対比診断研究会アトラス制作委員会」のメンバーたちへ感謝申し上げる。皆さんは,もう若手ではない。今後は指導者として内視鏡診断学をさらに発展させ,第3世代を育成してくれることを祈念し書評を終える。


《評者》 群馬パース大教授・作業療法学

 当たり前のことであるが,人は突然に老人としてこの世に現れるわけではない。生を受け,愛くるしい赤ちゃんが愛され育まれて子どもの時間を過ごし,成長し大人になる。同時に,行動範囲が広がり,活動や社会参加が増えていき,大人として社会生活の営みを持つ。成熟した時間を過ごし,「老い」とともに自分らしさや幸せ,生きる意味を追究していく。そんなある時,病気となり,障害を持ち,老いた対象者としてリハビリテーション・スタッフの前に現れる。

 私たちには,今,目の前にいる対象者の姿しかわからないが,人の生きてきた時間の長さや空間の広がりだけでなく,その時代の出来事をも受け止めていくことは,リハビリテーションにとって大切なことと感じている。本書第9版の序にあるように,新型コロナウイルス感染症の蔓延により,私たちの生活は変化した。高齢者や障害者も大きな影響を受け,決して以前と同じ生活には戻らないかもしれない。

 人生の節目は確かにあるが,一連の流れの中で人やその生活,「老い」をとらえなければ,支えることはできない。それでも,やはり老人のリハビリテーションの特殊性がある。それを学ぶ上で,本書には版を重ねてきた強さがある。

 「老い」を体験している人のリハビリテーションを,「老い」を具体的に生活の中で体験していない者が治療者となり考え,実践する。障害に老いと病気が加わる大変さ,壮絶さについて若い学生が学んでいくのは,考えてみるとかなり難しく,本質を理解するのは無理な話かもしれない。そんな時には,本書の「II.老人の尊厳とその接し方」が参考になる。この章では,人に対する姿勢が示されている。人間の尊厳は,全ての人に共通するものではあるが,老人であるがゆえの多様性をとらえる接し方が具体的に書かれている。

 人生をまとめる意味をまだ考えたことのない若いスタッフが,リハビリテーションを担当することだってある。けれど,それは決して悪い面だけではない。治療者側が自覚した上でのことではあるが,若さは十分武器になる。高齢になったからこそ果たすことのできる社会での役割もある。それには,若者と接する機会が,たとえ医療の場面であっても重要だと感じる。そのため,その役割がどんな意味を持つのか,治療に当たる若者は知っておかなければならない。高齢化が一層進む社会の中では,この両者の経験は一層大切ではないだろうか。

 今回の版で加わった「III.終末期のリハビリテーション」は,今後ますます発展していくであろう。特に「右肩下がりの終末期のリハビリテーションを考える」の項は,明るい前向きのリハビリテーションと少々違う意味付けが加わる。「老い」もそうであるが,死と向かい合うことの意味を,リハビリテーションの中にどう置くべきかが興味深い。また終末期の問題は,老人のみならず家族の問題でもあり,社会の問題でもある。リハビリテーションに携わる者として,ここに大きく貢献できると信じている。

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