医学界新聞

新春企画

トライ&エラーを繰り返して自分を磨く

寄稿 大野 毎子,佐藤 美保,白石 吉彦,吉村 健佑,岡 秀昭,神吉 佐智子

2022.01.10 週刊医学界新聞(レジデント号):第3452号より

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 「周りからは失敗に見えることでも,僕からしたら前へ進むための段階という場合があります。決して,後ろに下がっているわけではない」(大谷翔平)。

 研修医の皆さん,あけましておめでとうございます。研修医生活はいかがでしょうか。慣れない生活の中で次々に舞い込む業務に慌てたり,患者さんや指導医から叱られて沈んだ気持ちになったりしていませんか?

 うまくいかないことを恐れずにぶつかり,トライ&エラーを繰り返してこそ,その経験が自分の血となり肉となるのです。新春恒例企画『In My Resident Life』では,著名な先生方に研修医時代の失敗談や面白エピソードなど“アンチ武勇伝”をご紹介いただきました。

こんなことを聞いてみました

①研修医時代の“アンチ武勇伝”
②研修医時代の忘れえぬ出会い
③あのころを思い出す曲
④研修医・医学生へのメッセージ

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唐津市民病院きたはた院長/唐津市総合診療教育センター センター長

①家庭医を志望していた私は,1993年に筑波大学を卒業して千葉県の東葛病院で初期研修を始めた。最初に担当したのは80代女性。脳梗塞を発症し,意思疎通が難しく,寝たきりとなって入院を継続している方だった。指導医から一人で身体所見を取ってくるように言われ,私はナースステーションの隣の患者さんがいる部屋に入った。カーテンで仕切られたベッドサイドにいること30分以上。私がなかなか出てこないので,指導医が「大丈夫?」とカーテンを開けた。私は患者さんの橈骨動脈を押さえながら「脈が全然触れないんです。右も,左も……」と答えた。実際,何度やっても触れないので,押さえる場所がいけないのかな,血管病変があるのかな,血圧が低下しているのかな,指導医を急いで呼んだほうがいいのかな,でも患者さんの顔色はそんなに悪くないし,なぜだろう……。頭の中でさまざまな考えがぐるぐる巡り,汗ばむ自分の手で何回も触診を繰り返して時間が過ぎていった。

 指導医は私の様子を見て一言。「先生の力を抜いたらどう?」と。患者さんの手首を握っていた自分の指の力を抜いたら,「触れた!」。私は患者さんの脈を握りつぶしていただけだったのだ。指導医は優しく私を見守ってくれた。それからは,「触診はそっと行う」ことを心掛けている。今では高齢者の脈を取るのは,身体所見というよりもむしろコミュニケーションのツールとなっている。

 もう1つ,エピソードをご紹介する。2年目の後半に都内の生協浮間診療所で3か月の家庭医療研修を行い,診療所の母体である王子生協病院でも週1回の外来研修を行っていた。ある日,慢性疾患を持つ壮年の男性を診察した。その後,私にクレームがあったと指導医よりフィードバックを受けた。「家庭の事情を根掘り葉掘り聞かれて不愉快だった」とのこと。家族図を意識して問診し過ぎ,申し訳なかったと深く反省した。その後は一度の診察で全部を聞こうとしないこと,前置きをうまく伝えることなどに注意するようになった。今では,こちらから聞かなくても患者さんが話してくれることもあるとわかり,それを待てるようになった。私たちの修業は,患者さんに一生支えられているのだと思う。

②私は大学6年生の時に,実習のエレクティブで国内の総合診療部を巡る旅をした。そのうちの1つが佐賀大学病院総合診療部であった。私は佐賀県生まれだが,当時は佐賀大学病院の総合診療部が日本の草分けとは知らなかった。実習では福井次矢教授(当時)をはじめ,スタッフに大変熱心にご指導いただいた。特に同院の全初診が総合診療部を経ていたので,毎日午後に行われる充実した外来カンファレンスは圧巻であった。そこでは学生も患者のプレゼンテーションをする。そのレベルが高くて同級生とは思えなかった。この総合診療部を巡る旅は,私が家庭医をめざす大きなきっかけになった。卒後は関東中心に研修をし,家庭医として働いていた。

 医師になって12年目の2005年に帰郷し,現在の唐津市民病院きたはたに勤務することになった。この病院を紹介してくれたのも,佐賀大学病院総合診療部のOBであった。帰郷後,同部の外来カンファレンスに時々参加した。また2021年5月開催の第12回日本プライマリ・ケア連合学会学術大会で私は大会長を拝命した。この時,実行委員会として佐賀大学病院総合診療部の皆さんに全面的に支えていただいた。こんなにお世話になろうとは,エレクティブ実習の頃の私は想像すらしていなかった。つくづく,目の前の出会いが大切だと思い,感謝するのである。

④これから皆さんは,仕事仲間はもとより,多くの患者さんとその家族に出会うでしょう。喜怒哀楽とともにそれら全てが学びとなる医師という道を選んだ皆さんを応援しています。出会いを大切にし,仲間を作りながら進んでください。

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写真 1997年,韓国・ソウルで開催されたWONCA(世界家庭医療機構)アジア太平洋地域学術大会の会場にて。左から順に筆者,ロバート・テイラー氏(当時,オレゴン州立健康科学大学家庭医療講座名誉教授),友人の西村真紀氏(現・川崎セツルメント診療所所長)。

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浜松医科大学眼科学教室病院教授/日本弱視斜視学会理事長

①私が研修を始めた1986年は,ほとんどの医師はローテート研修をせずに卒業と同時に自分で選んだ医局に入局していました。しかし名古屋大学では卒後2年間の関連病院でのローテート研修が必要でした。一方眼科では,関連病院での1年間の研修の後に入局して大学で眼科研修を受けることが勧められていました。そのため私は1年間の研修を認めている病院を探しました。

 選んだのは,実家から1時間程度の所にある中規模の総合病院です。当時はまだ公式な研修プログラムがない時代なので,点滴ルートが取れること,救急対応ができること,挿管ができることを研修の目標と勝手に決めていました。救急当直はとても緊張して,「救急車が来る」という第一報が入るともうドキドキです。上級医も付いてくれますが,何と言っても頼りになるのはナースです。当直の日はまずその日の当直ナースを確認して,知り合いだと「あ,今日は◯◯さんだ,良かった!」となるわけです。救急車が到着すると,私が所見を取ったり指示を出したりする前に,ナースが「点滴つないでいいですか?」「◯◯先生に連絡しましょうか?」などと上手に私を立てながら対応してくれます。今思えば,研修医が担当の日には,面倒見のよいナースが組まれていたのでしょう。よくまあ,ふわふわした私に貴重な経験をさせてくれたものです。そんなわけで,私の初期研修は当直に向けて昼間は体力を温存し,できないことがあっても特に落ち込むことのない日々でした。

②そんな研修生活でしたが,小児科を回った時に2年先輩の女性医師に付くことになりました。実は学生の頃から,おしゃれで物静かな雰囲気の彼女に憧れていました。毎日の外来診察の後,その日の患者さん一人ひとりについて説明をし,曖昧なことがあると分厚い教科書で調べて教えてくれました。私は憧れの先輩がどうやって高いモチベーションを保っているのか知りたいと思いました。ある日思い切って「どうしてそんなに勉強するんですか?」と聞いてみました。偉くなりたいのかしら,それとも研究者をめざしているのかしら,などと思ったのです。彼女は「知らないために本来助けられる子どもが助からないとしたら,自分が許せない」と答えました。そのシンプルかつ真摯な言葉に私は衝撃を受けました。それ以降,私は「自分が知らない」という理由で患者さんの可能性をなくしてはいけない,と肝に銘じて診療しているつもりです。

③米国留学をしていた時,ビリー・ジョエルが来ると聞き,コンサートのチケットを買いに出掛けました。チケット売り場で「ビリー・ジョエル」と言ったのですが,相手はキョトンとしています。2,3回繰り返しても「Who?」と言うので私はついに,彼の大ヒット曲「Piano Man」のサビを歌いました。ようやく「Oh,ビリー・ジョー!」と言ってチケットを売ってくれました。全く発音が違っていたのです。今思えばなぜ歌えたのか不思議で,ちょっとほろ苦くて楽しい思い出です。

④若い時は,自分が人より劣っていると思って落ち込むことが多々あります。しかし,医師としての人生は長いです。目先のことにとらわれず「自分は大器晩成なんだ」と信じて取り組み続けてください。

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写真 名古屋大学大学院にて,赤緑フィルター眼鏡を用いて立体視の研究をしている。手前が筆者。

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島根大学医学部附属病院総合診療医センター長/隠岐広域連合立隠岐島前病院参与

①学生時代は課外活動が忙しく,短期記憶のみで試験を乗り切ってきた私でした。ただし速攻で覚えたものは速攻で忘れるというのが世の常で,卒業時点では知識はほとんど定着していません。それでも天性の楽天家,ポジティブ思考で,研修医生活は見るもの聞くもの全て新しくワクワクの日々でした。見たことがないことはできないから,とにかく何でも見ておきたいという欲求が強かったですね。2年目に在籍していた徳島県立中央病院ではローテート診療科の診療が終わった後も,夕方から勝手に救急外来に行って,看護師さんの手伝いをしたりお茶をしたりしながら救急車を待つような生活をしていました。だいたい23時頃まで救急外来で過ごした後,近所の飲み屋に寝酒を飲みに行って常連さんとその日を締めくくるという日々でした。

 ある日,その飲み屋ですっごく楽しい時間を過ごしたんでしょうね。チョイと飲み過ぎたようです。明け方に自分の担当患者さんが想定外の急変をして,病院から電話がかかってきました。研修医の常で電話の音には非常に敏感で,すぐに目が覚めるように体がしつけられていましたから,当然ワンコールで電話に出ます。酔っぱらった勢いで,何だかそれなりに返答して「すぐ行きます」と言って,そこまでは良かった。ところが,受話器を持ったまま寝込んでしまったのです。いつまでたっても医者(私)が来ない看護師さんは困ってしまって指導医である副部長を電話で呼び出し,対応してもらったのです。次の日から副部長,しばらく口を利いてくれませんでした。私の人生,常に飲み過ぎ注意です。

②初期研修の初出勤の日。入局した徳島大学第二内科には,同期が12人いました。オリエンテーションが終わって,それぞれのオーベン(今で言うところの指導医)が紹介され,オーベンに付いてそれぞれの場所に散っていきました。ところが私のオーベンだけが見当たらないのです。誰に聞いてもわかりません。というか出勤初日ですから,誰に聞いたらよいかもわかりません。結局,手術室にいるらしい,という情報を数時間かかって得ました。消化器内科医であるオーベンは,自分が診断した膵臓がんの手術に最初から最後まで見学として入っていたのでした。自分が担当の研修医のことは放っておいて,自分が診た患者さんの全てにかかわって診る,という態度にしびれました(笑)。本当ですよ。私にとっては「臨床医にとって一番大事なこと」として脳に刷り込まれた研修医初日の出来事でした。

③忌野清志郎(RCサクセション)の「雨上がりの夜空に」が大好きです。従来車好きで,その当時はなぜか一緒に飲んでいる隣の女性を大好きになってしまう習性を持っていた私にとっては,圧倒的にかっこいい歌でした。そして患者さんが亡くなった日の夜,帰り道を歩きながら空を見上げると,雨が降った後でなくても,スローバージョンのこの曲が頭の中を流れます。そして,ジンライムのようなお月様を探してしまいます。

④人生は(たぶん)1回しかないので,本当にやりたいことをやってください。人の評価ではなく,自分の評価で。

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写真 卒後3年目の1995年,徳島県立三好病院時代に発生した阪神・淡路大震災の際に,淡路島北淡町で支援に当たった。避難所となった公民館で診察を行っている(上)。一緒に活動したベテランナースと共に(下)。

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千葉大学医学部附属病院次世代医療構想センター特任教授/センター長

①初期研修医1年目ですか……。うーん,失敗云々の前にとにかく「イタイ」研修医でした。知識や経験もないくせに,「この診療にはどういう意味があるのか」「こんなに時間やコストをかけて,やり過ぎではないか」と何かと考え込み,その疑問を上司の医師にも問うてしまうところがありました。可愛げのないことこの上ない研修医ですね。

 例えばICUでの研修では,濃厚な血液浄化法を行っている急性膵炎の患者さんがいました。毎日何度も血液浄化のためのフィルターを交換しており,かつ入院が長期化していました。そのためにどうやら莫大なコストがかかっていると聞きました。指導医との懇親会の席でそれについての考えや疑問を口にしてしまい,「そんなことは一人前になってから言え」と叱られ,場がしらけるばかりでした。

 左利きで,かつ不器用ということもあり,検査や手術などの手技・手順がとにかく覚えられず,根性もないのでうまくならない。消化器内科の研修では内視鏡的逆行性胆管膵管造影(ERCP)の手技に興味が持てず,医局の研修医部屋でサボっていて,本当に「しょうもない」研修医でしたね。

 28歳で初めて社会人になったものだから,毎日朝起きてちゃんと仕事に行くことにどうしても慣れずに毎晩夜更かししては日中うとうと……。おいおい,です。何というか,徹底的に鍛え直さないといけない人間でしたね。当時迷惑を掛けた各科の指導医,先輩や同僚には本当に申し訳ないです。すみませんでした(汗)。

②勤務先は総合病院で,精神科病棟はありませんでした。その中で遠藤博久先生という精神科医がお1人だけ常勤で勤めていました。私は精神科外来の様子やリエゾン精神科診療にはなぜか興味が湧き,精神科にローテートしていたわけではないのに,院内で遠藤先生にくっ付いていろいろ診させてもらいました。せん妄の診断と対応・薬物療法,自殺企図患者の再企図評価法,認知症のBPSDと対処法,担がん患者の抑うつ状態の評価などなど,総合病院ならではの精神科トラブルもたくさんあり,勉強になりました。

 それから精神科医に憧れ始めたんですね。遠藤先生は大変穏やかな方で,私の生意気な質問にも諭すように返してくれました。精神科に進みたいと話すと喜んで,読むべき書籍を教えてくれました。自分でも日本精神神経学会に入会して勉強をするようになりました。どうすれば精神科診断や精神療法が上達するのか,そればかり考え出したんですね。精神科医になると決めた後は,今のうちに内科管理や縫合などの小外科手技に少しでも通じようと,ようやく研修に身が入りだしました。さりげなく道を示してくれた遠藤先生には本当に感謝しています。

 その後は精神科医から,産業精神保健,社会医学に関心が拡大し,現在は医療政策・公衆衛生を専門にして,大学の教員をしています。自分の人生はわかりませんね。

④医学部時代には,水泳部の活動や大学祭の運営と,課外活動ばかりに没頭し,まともに勉強をしていませんでした。果ては卒業試験でひどい点数を取り(苦笑),最後の科目で留年が確定し,第一志望でマッチしていた病院の内定をお断りするという,トホホな経験もしています。それでもまあ,卒後15年間,何とか仕事をしています。留年やら医師国家試験浪人やらでつまずき,恥ずかしさや情けなさで落ち込む後輩を見ると「大丈夫,今はつらくても何とかなる」と声を掛けてしまいます。まっすぐ進んでいる医師ばかりじゃないし,遠回りだからこそ学べることもあります。

 しんどい時は頑張り過ぎず諦めない「中腰の姿勢」でしのげば,時間とともに大体のことは乗り越えられるかな,と。さて新年ですね,今年も少しずつ頑張りましょう。

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写真 総合病院にて,外科ローテート中の写真。後列左から4番目が筆者。朝6時半から約10人の採血をして回った。

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埼玉医科大学医学部総合医療センター総合診療内科教授

①「病棟の発熱患者には血培(血液培養)1セットを実施してチエナム®0.5 g朝晩とアミカシン200 mg朝晩。救急外来の風邪患者にはバケロ処方」。これが血液内科研修医として,母校で臨床医のキャリアを歩み始めた私の指示や処方箋でした。「バケロ処方」とは,今や統合された某製薬メーカー営業さんに「先生,風邪にはバケロ処方お願いします!」と接待を受けて教えられた処方です。「バ」は某第3世代セフェム系経口薬の商品頭文字,「ケ」は同社の健胃薬の頭文字,「ロ」は同社の国民的消炎剤です。

 今では大阪大学医学部教授の忽那氏と共に,第3世代セフェム系経口薬を「DU(だいたいウンコになる=吸収率が低い)」と言い,処方に当たり注意を呼び掛けている私も,研修を始めた当初は恥ずかしながら風邪に処方していたのです。というか風邪診療を完全に舐めていたのでしょう。「自分は,難しい血液疾患の最先端の治療をしている」と。でもその最先端のはずの発熱性好中球減少症の患者への対応は「血培1セット実施と,チエナム®とアミカシン朝晩」。褒められたものではありませんね。当時,血液内科病棟における緑膿菌のカルバペネム耐性率は50%近くありました。今,自分が指導医なら,研修医時代の私に蹴りを入れるかもしれません(いえ,誓ってもそんなことしません。優しいんですよ!)。

②そんな私に,優しく蹴りを入れてくれたのが,現・亀田総合病院感染症科部長の細川直登先生でした。「血培は2セット取りなさい。君の抗菌薬の選択は違うし,投与量も少ない」と。私にとっては目から鱗で,個人的にさまざまな症例を相談するようになりました。こうした日々を送る中で,2000年に革命的な医学書の初版が出版されました。そう,私たち世代の日本の感染症専門医にとってのバイブルである青木眞先生の『レジデントのための感染症診療マニュアル』(医学書院)です。細川先生と「青木本」と呼び,2人でその内容に驚嘆・共鳴するとともに,あまりに日本の現場の感染症診療とかけ離れていることに苦しむのでした。

 そして始まった試行錯誤の日々。研修医である私がいきなり血培を2セット取り出したのです。最初は2セットの意味がよくわからず,4本のボトルに1回の採血を分注したり,コンタミを減らすため針先をライターであぶったりと今では笑ってしまうような試行錯誤を繰り返しました。抗菌薬も,朝晩投与から8時間ごとなど一定間隔にしたり,投与量を増やしたりと。血培を2セットなどは今では当たり前になりましたが,当時は革命的でした。それを研修医がやる。当然抵抗されました。看護師さんたちからは「面倒なことをする,血培を取りまくる危ない研修医」と陰口を叩かれたり,ある他の科の指導医からは「うちは君の科のように特殊な感染症を起こさないので,そのようなオーダーはいらない」と注意されたり。しかしめげずに強い意志で続けました。そして患者さんの調子が良くなり結果が出てくると,次第に私たちの話を聞いてくれる仲間も増えてきました。

 以来,苦節15年。『レジデントのための感染症診療マニュアル』の精神を携えて,2015年に私は『感染症プラチナマニュアル』(MEDSi)を出版しました。「当時の非常識」は「現代の常識」へと変わったのです。

④「苦しかったら前に(星野仙一)」「置かれた場所で咲きなさい(渡辺和子)」。共に私に力を与えてくれるセンテンスです。これらの言葉を『感染症プラチナマニュアル』と共に,山あり谷あり,さまざまな試練が待ち受ける研修医・医学生に贈ります。


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大阪医科薬科大学外科学講座胸部外科学教室講師

①私が医学部を卒業した1999年は,現在と違って大学病院の医局に入局して研修を行うシステムだった。そのため母校の胸部外科に心臓外科専攻で入局した。入局先は学内外の医局の先生方に相談に乗っていただいた。研修プログラムのみならず,研修後に大学院進学→研究→医学博士→米国留学ができるかどうかで選択した。母校を選んだのは,研修プログラムが充実していたこと,研究と留学が盛んであったこと,院内に顔なじみの先生や先輩が多いことなどが理由だった。最後が特に重要で,学生から医師への環境変化に順応するストレスが少なく,研修の効率が上がると考えたのだ。

 入局同期は大学の同級生3人。研修プログラムは医局で心臓外科と呼吸器外科を3か月ずつ研修後,救命救急センターを6か月,一般・消化器外科を6か月(うち3か月は関連病院),麻酔科を6か月の計2年間で,外科専門医の必要症例が経験できるローテーションだった。研修医として初めて担当した患者さんの急変では,医者として不甲斐ない思いをした。患者さんは高齢で右肺上葉切除後の回復期だった。訪床時,食事中だった患者さんが激しく咳き込み呼吸困難になった。私はナースステーションに走り,看護師さんの指示の下,上級医に連絡。複数の上級医が駆けつけ看護師さんに指示を出し,蘇生処置が行われた。私は胸骨圧迫を懸命に行い,蘇生後はICUでの全身管理が続いた。本来は医師である私が急変時に酸素投与やモニター装着などの指示を出すべきであり,医師としての自覚が芽生えた出来事だった。

②同期4人での医局研修が修了し,壮行会で教授をはじめとする指導医の先生方から激励の言葉をいただいて,それぞれのローテート先に配属となった。まず赴任したのが救命救急センターで,さまざまな診療科から赴任している研修医と共に,救急車到着のオルゴール(「ルパン三世のテーマ」だった)を合図に走って処置室に行き,救命救急処置に当たった。その中で2年目の研修医の先生方から学ぶことが多かった。カンファレンスは全診療科で行われ,決まった流れのプレゼン後には多くのコメントが飛び交う,緊張するものであった。心臓外科では急性大動脈解離や腹部大動脈瘤破裂の手術が多く,冬に増加する大動脈解離でお正月前後にはICUが満床になった。印象に残っているのは,来日中に食道破裂を発症した中国籍の患者さん。合併症治療のため気管切開を要し,コミュニケーションは漢字の筆談で行った。転院には飛行機に乗れる状態に回復する必要があり,転院依頼の紹介状を記載した。残念ながら治療途中で研修は終了してしまったが,後日談で患者さんの帰国がかなったことを知った。

③マライア・キャリーの「ヒーロー(Hero)」。「恋人たちのクリスマス」は今でもクリスマスソングの代表で,私より少し上の世代には,1994年のドラマ「29歳のクリスマス」(フジテレビ)を思い出す人もいるかもしれない。「ヒーロー」は全ての人への応援ソングだ。初めて社会人になった研修医時代は,重症の患者さんを受け持つなど手術や術後管理で緊張し放しの日々だった。治療原理などが理解できなかったり,コミュニケーションで悩んだりした。その時この曲を聞くと,自分の選択をやり通し,自分を見つめて恐れを追い払い,頑張る勇気がもらえた。

④今振り返れば,研修開始からこれまでの20数年間は挑戦の連続であった。新しい課題に直面した時は「やってみないとわからない」の精神で「やってみる」ようにしている。医学部は医師養成課程として良い医師になるための6年間である。講義や実習,クラブ活動では,さまざまな医師や研究者と話をする機会がある。そのため「私はこういう人になりたい。こういう活躍をしたい」というビジョン(将来展望)やロールモデル(お手本にしたい人)に出会える可能性が高い。ビジョンは具体的であるほどやり抜く力の源になる。挑戦を恐れず頑張ってほしい。

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写真 医学部6年生の頃に医局同門会に参加した時の写真。一緒に写っているのは同期3人と同門の先生方(上)。研修プログラム終了後に関連病院に呼吸器外科医として赴任した時の写真。中央が筆者。一緒に写っているのは手術室の看護師さんと一般・消化器外科の先生(下)。

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