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『WHOをゆく――感染症との闘いを超えて』より

連載

2021.07.09

 著者の尾身茂氏は現在,政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の会長として感染症の収束に向け尽力する。困難に立ち向かう覚悟と原動力はどこから湧き出るのか。WHO西太平洋地域事務局で同地域のポリオ根絶に貢献し,事務局長時代にはSARS対策で陣頭指揮を取った経験が,今まさに直面する感染症危機管理のリーダーシップにも一貫する。感染症と闘い続ける尾身氏が若者に向けて著した『WHOをゆく』のうち,自身の「得手」を探し求めた「青春物語」を3回に分けて公開する。

 「これからの長い人生において,様々な困難,挫折,悲哀に遭遇するであろう。しかし,君たちには,人生の最後に『自分の人生は厳しかったが,十分堪能することができた』と言えるような生き方をしてほしい」――(「第11章 若者へのメッセージ」より)。

(第2回のつづき)

試練克服への道

 専門家会議の直後から,私は,ワクチン購入の金策のため,開発援助機関(世界銀行,アジア開発銀行など),援助国,UNICEFなどの公的機関を巡り歩いた.いわば“営業マン”としての生活が始まった.しかしおそらく,30億円という「金額」と,アジアでのポリオ「根絶」が,相手には荒唐無稽に映ったようで,私がポリオ根絶の可能性をいかに力説してみても,「大変よい話ですが,いずれまたお話をしましょう」と門前払いも同然だった.

 公的機関が駄目であれば民間企業ということで,企業などを個別に歩き,また,一般の人からの寄付という方法まで模索したが,「営業成績」はゼロのままだった.当時のRDから進捗状況を聞かれるが,「大丈夫です.ご安心を」と見栄を切らざるを得ない状況がずっと続いた.

 そうした中,突然,一条の光が差し込んだ.最初の専門家会議から約1年半を経た1992年10月,北京での第3回専門家会議の前日の日曜日,国際ロータリークラブの友人から「個人的に話したいことがある」と言われ,レストランに行ってみると,「尾身さん,中国のワクチン対象人口を,5歳以下から4歳以下に,WHOとして正式に変更してくれれば,ロータリークラブが1億円の資金提供を今回の会議で約束しよう」と,願ってもない申し出があった.友人は過去の専門家会議に参加しており,中国での患者の大多数が4歳以下であることを知っていたので,年齢の引き下げを条件としたのである.

 しかし問題があった.前述のように,特別予防接種デー(またはウィーク)の対象は5歳以下というのがWHOの立場だった.選択肢は,WHOの方針を文字通り遵守して,この資金獲得のチャンスを失うか,あるいは多少リスクを負っても,ワクチン費用を確保するかのいずれかだった.私にとって答えは明白だった.ところが,WHO本部の拡大予防接種の部長は,実際には私の考えを理解していたが,立場上,「ダブルスタンダードを認めるわけにはいかない」と公式見解を繰り返す.このため,翌日の会議も,暗礁に乗り上げた.コーヒーブレイクになり,私は彼に囁いた.「会議の途中,適宜トイレに立つふりをして,座を外してくれないか.その間に“4歳”で決めたい.そうすれば貴方に責任はかからないから」.彼はニッコリ頷いた.会議の途中,予定通り彼が席を外した.そして“4歳”が決定された.長いトイレであったが,こうして最初の資金提供が決まった.

 この国際ロータリークラブからの1億円の資金提供は,私にとってWHO西太平洋地域事務局赴任後2年目で初めて感じた手応えだった.しかし,目標の30億円にはまだ29億円足りず,われわれは更なる資金提供先を模索した.当時,西太平洋地域のポリオ根絶の最重要国は,患者数からしても当然中国だった.中国の成功なしに地域全体の成功はあり得ない.当時,中国国内で生産されていたワクチンでは量的に不十分だった.結局,日本の政府開発援助(ODA)の無償資金協力に頼るしかないと判断し,国内のしかるべき支持者と相談しつつ,外務省,JICAとの交渉を始めた.しかしここでも難題に直面した.

 1つ目は“日本のODAは消耗品には支出しない”という原則だった.当時はODAの対象として,道路,建物,車両などが供与の対象とされており,交渉相手の担当官からは,「尾身さん,ワクチンは消耗品ですから,残念ながらODAの対象にはなりません」と指摘された.この原則を変えるのは難しいようだった.そこでわれわれは,「確かにワクチンは消耗品の分類に入るかもしれません.しかし,子どもに免疫ができることによって,その効果はその人にとって一生続く“固定資産”になります.さらにこの戦略が成功すれば,ポリオワクチンそのものが不必要になります.橋や建物はいつかは滅びますが,この財産は永遠に続きます」と言った.私も懸命だった.こうした議論を何回か繰り返すうちに,幸いにも,ワクチンをODAの対象とすることに理解が得られるようになった.

 しかし,もう1つ問題があった.日本のODAは基本的に「要請主義」の立場を取っており,ポリオワクチンを日本が供与するためには,相手国からの要請が必要ということだった.すぐに私は,中国の保健省(日本の厚生省にあたる)の友人にこの話をしたところ,彼らは理解を示してくれた.しかし中国の保健省は,日本からの援助に関して直接交渉する立場にはなく,中国の「対外交渉省」が担当していることがわかった.このため私は,すぐに「対外交渉省」に足を運び,ポリオワクチンの要請を日本に提出してもらうよう依頼した.しかし「対外交渉省」の局長は,「日本へは他の案件の要請がすでに出ている.ポリオワクチンはこれとは“別枠”という保証があるなら要請を出しましょう」と言った.踵を返し日本に戻り,「ポリオは別枠になりませんか」と聞くと,「いや,中国へのODAの総額は決まっているので,ポリオワクチンが必要なら中国として優先順位を上げる以外にない」との返事.またここでも暗礁に乗り上げた.お互いの原則は相容れない.このため,私は日本と中国の間を月に何度も往復することになった.

 しかし,そうこうしているうちに,交渉相手との信頼関係が徐々に構築され,少しずつ,いわば“本音”の部分が聞けるようになってきた.ある日,日本の外務省関係者から,「ポリオの優先順位を上げることが難しいのなら,少なくとも『ポリオワクチンが欲しい』との一言が中国側から必要だ.それがないと何も始まらない」という意味のヒントを“あうんの呼吸”でもらった.また,日本と中国の無償資金提供に関する定期会議が近々東京で開催されることも教えてくれた.私はすぐに北京に飛び,「対外交渉省」の高官に会い,「今回の定期会議で,最低『ポリオワクチンが欲しい』と一言でいいから発言してくれ」と強く進言した.しかし間もなく,中国側からのポリオワクチンに関する発言は皆無だったとの情報が入った.私は,暗澹たる気持ちになり,ポリオ根絶を断念せざるを得ないと思った.

 ところが数日後,日本から「この話,うまくいくかもしれない」という知らせが私の耳に入った.もちろん私は,この予想外のニュースに歓喜したが,実際,この間何が起きたのか皆目見当がつかなかった.また,いまだに謎である.しかし,はっきりしていることは,交渉相手だった外務省やJICAが,困難な制約の中で理解を示してくれたこと,また,前述したように私は様々な方に相談していたが,そうした支持者(当時の細川総理大臣夫人,厚生省の先輩や同僚,熊本の蟻田功先生,日本の国際ロータリークラブの方々)などの支援がなければ,この不思議な展開はあり得なかったことである.

 1993年5月,当時の細川内閣の閣議で,正式に中国に対する総額7億円の無償資金協力が決定された.

 後日振り返ると,この2つの資金援助なしには,その後の西太平洋地域のポリオ根絶はあり得なかった.国際ロータリークラブが先鞭をつけ,さらに当地域のリーダー格の日本がその決意を示したことで,他の援助機関もポリオ根絶計画への拠出に対し積極的になり,ポリオ根絶に向けた大きな歯車が回転し始めたのである.

さらに乗り越えなければならない課題

 しかし,ポリオ根絶に向けた戦略の実施にあたっては,他にもサーベイランス体制の問題,その他政治的・社会的問題が立ちはだかっていた.

 中国のポリオ感染の疫学情報としては,山東省に派遣されていたJICAの専門家の方々の活動により,同省においてはポリオ患者の8~9割が第2子以降の小児であることがわかっていた.さらに,その後のWHOの調査でも,この特徴が山東省に限らず,中国全体に見られることがわかった.理由は明瞭で,中国の「一人っ子政策」が原因だった.この政策のため,中国では,第2子以降の子どもは予防接種台帳に登録されていなかった.したがって,予防接種は第1子のみで,第2子以降は受けないことになる.

 つまり,中国の一人っ子政策が問題の核心だったが,その一人っ子政策は中国の国策であり,WHOはもちろん,この国策に関して内政干渉する立場にない.だが,第2子以降の子どもが予防接種の対象から外れれば,アジアにおけるポリオ根絶はあり得ない.問題解決の方法を間違えればWHOの中国への内政干渉になりかねないという,政治的にも微妙な問題だった.

 さて,どうするか.考えた挙句,当時のRD, Dr. Hanと私が直接,中国の保健大臣(日本の厚生大臣にあたる.その保健大臣は大変温厚な人柄で,医師としても人間としても皆に尊敬されていた)にお会いし,率直にこの問題を話すことにした.

 1993年秋にその機会を得た.「大臣,第2子以降からのポリオ患者が多く発生していますが,この問題を解決しない限り,中国におけるポリオ根絶は不可能です.何とかこの問題に対処していただきたい」.大臣は私たちの話を静かに聞いていた.しかし,どうするかという明確な方法についての言及はなかった.保健大臣としても微妙な問題なだけに,慎重にならざるを得なかったのだと思う.問題の解決はそう簡単ではないと思った.

 しかし,大臣との会見後,2週間経ったある日,中国保健省からマニラのオフィスに「1993年9月25~26日に,中国のすべての省(30省)の保健担当の副知事が参加する会議を主催するので,貴方にも参加して欲しい」との連絡があった.

 会議場には,30省の副知事をはじめ,保健大臣を含む保健省幹部,さらに国務委員(中国で5人しか任命されず,保健大臣より位は上)の方々など,中国全土の保健関係者が一堂に会し,会場は熱気に溢れていた.

 会議が始まる.私は,アジア地域全体のポリオ感染の状況を説明した.しかし,これはセレモニーの一環に過ぎなかった.ついに,前述の保健大臣が登場した.私はイヤホンを通じ,大臣の発言の英語訳に聞き入った.型の如くの挨拶が終了した後の大臣の発言に,私は自分の耳を疑った.「来るべき〈特別予防接種期間〉では,第何子であろうが,登録居住地が中国のどこであろうが,すべての子どもにポリオワクチンを接種してください.これが中国におけるポリオ根絶の必要条件です」.

 大臣の発言は,会場のすべての人々に響き渡った.私は感激した.中国でのポリオ根絶は成功すると,この時初めて確信した.

 同年冬,上述の保健大臣の発言にあった「来るべき〈特別予防接種期間〉」がついにやってきた.私も中国に赴き,その予防接種に参加した.公式に定められた会場での予防接種を終えた後,私は関係者には黙って,見学の予定外の接種現場に直接赴き,当の子どもやその親に第何子か質問した.間違いなく第2子以降の子どもが含まれていた.結局この予防接種期間中,中国全土で約8000万人(第2子以降を含めた対象人口の約9割)の子どもがポリオワクチン投与を受けた.これは,当時の公衆衛生史上,空前絶後の出来事だった.

 政治的問題は,中国以外にもあった.カンボジアやフィリピンにおける内戦や政情不安の問題である.例えばフィリピンでは,当時ミンダナオ島で内戦が勃発しており,ワクチン接種どころではなかった.こうした状況の中,当時のラモス大統領に依頼したところ,予防接種のための「停戦協定」が結ばれ,期間中は武器を置いて,子どもたちにワクチン接種を行うことが可能となった.同様のことが,クメール・ルージュとの紛争中のカンボジアでも実施された.

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中国,特別予防接種期間の,子どもへのポリオワクチン接種の様子

「週刊医学界新聞」(第2952号 2011年11月7日)のインタビュー記事もご覧ください。
〔シリーズ〕 この先生に会いたい!! 悩み,失敗して“個性”を獲得する医師の道を歩んでほしい(尾身茂,渡邊稔之)
https://www.igaku-shoin.co.jp/paper/archive/y2011/PA02952_01

 

WHOで感染症と闘い続けた尾身茂氏が語る奮闘記

<内容紹介>著者の尾身茂氏は、WHOアジア西太平洋地域における小児麻痺(ポリオ)根絶の立役者。また21世紀最初の公衆衛生の危機となったSARS対策でも陣頭指揮をとり、日本に戻ってからは新型インフルエンザ対策で活躍した。『公衆衛生』誌の連載をもとにした本書であるが、3.11後の医療・社会について加筆されている。本書は、まさに感染症と闘い続けた尾身氏の奮闘記。志とは? 覚悟とは? 己との格闘とは? 自ら道を拓こうと欲する、若者に贈る。

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