医学界新聞

連載

2017.01.30



The Genecialist Manifesto
ジェネシャリスト宣言

「ジェネラリストか,スペシャリストか」。二元論を乗り越え,“ジェネシャリスト”という新概念を提唱する。

【第43回】
知識と技術――ジェネシャリの“弱点”論

岩田 健太郎(神戸大学大学院教授・感染症治療学/神戸大学医学部附属病院感染症内科)


前回からつづく

 ジェネシャリストになることの利点と方法について本連載では説明している。今回は,そのような武勇伝ではなく,ジェネシャリになることの欠点と困難について述べたい。

 それは,「技術」の問題だ。

 技術の習得には反復練習が必要だ。そして,実践しない技術は確実に衰えていく。もちろん,使わない知識も衰えるものだが,失った知識を取り戻したり,アップデートするのはいとも容易である。たとえ暗記できなくても,取り出す(retrieve)だけなら簡単だ。これがデジタル時代のいいところである。

 しかし,“失った知識”を取り戻すのに役立つインターネットも,“失った技術”そのものを取り出してはくれない。インターネットは無限とも言える情報の宝庫だが,ドラえもんの四次元ポケットではないのだ。

 ジェネラリストになるためにはいろいろなセッティングでの経験が望ましい。ぼくはそう考える。外来中心でやるにしても病棟診療の経験はしておいたほうがよい。できれば,集中治療や救急医療の研修もしておいたほうがよい(mustかどうかは,議論の余地があると思うけど)。一般外来で「死にそうな」患者,つまり医者の所作で生死が決まってしまう患者を診ることはまれだ。まれだが,時には起きる。そういう修羅場を経験したことがあるのとないのとでは,対応がまるで違ってくる。一次救命処置(BSL),二次救命処置(ACLS),あるいはImmediate Cardiac Life Support(ICLS)講習を受けていても,やはり実際に心肺蘇生の経験があるのとないのでは,大きく違う。

 違うのだけれど,やはりICUやERを離れてしばらく経つと,そういうセッティングでの技術は失われてしまう。ぼくは内科研修時代,ICUもERもCCUも割と長くローテートしたのだけれど,当時できたはずの手技でも,今はできないものが多い(老眼が入ってきているせいもあるが)。

 まあそれでも,何百回もやった手技はちょっとやればすぐに思い出せるけれども,その動きはぎこちなくて,緊張の汗をカキカキやるといった感じだ。率直に言って,普段やらない手技は,やらなくてよいのであれば,やりたくない。

 スペシャリストの強みは,手技に対する圧倒的な経験値と近接性にある。近接性というのは,「普段からやりこなしている」という意味だ。毎日やっている手技は「手になじんだ手技」だ。それは,たまにやる手技とはクオリティーが相当異なる。

 ジェネラリストはオールレンジでいろいろなことをするのだが,手技に関してはどうしてもその範囲が狭まってしまう。ドラマの『Dr. HOUSE』では,部下のドクターたちがレアな手技をバンバンと自らこなすのでびっくりするが,あれはドラマならではであり,普通のドクターは,そう何でもかんでもできるものではない。

 「やらない手技」はスキルが落ちるから,「難しい手技」になる。難しい手技は,「やりたくない手技」になる。やりたくない手技は,やがて「できない手技」になってしまう。この負のスパイラルにわれわれは陥りやすい。

 もちろん,セッティングによっては年齢が上がれば手技の類は(手技をやりたくてウズウズしている)若手にアウトソーシングするという手もあるだろう。しかし,それができない環境もあるはずだ。そして,若手にアウトソーシングしてしまえば,それはわが手を離れてしまった手技となる。いずれにしても,われわれ全てが一度は憧れる「何でもできる医者」からは遠い存在になっていく。

 このことは,恐らくはわれわれが受け入れなければならない「不都合な真実」なのかもしれない。何でもできる医者なんていない。特に手技に関しては,オールレンジでやることは難しく,普段やっていることに実用範囲が限定されてしまう。

 普段診ていないまれな疾患を診断する,あるいは治療することは可能かもしれない。ところが,普段やっていない手技をいきなりやるのは不可能か,あるいは相当困難なのだ。手技に限定してしまえば,われわれのジェネラリズムはかなり狭い,限定した範囲に収まらざるを得ないのである。

 もちろん,広いと狭いは主観であるから,個人的に「今,俺がやっている手技の範囲で十分に広い」と思い込んでしまえば,それで問題はなくなりそうだ。だが,それでぼくに残るのは不全感だ。ぼくはいつだって,自分に満足した医者でいるよりも,不満な医者でいたがるのだ。かつてできていたはずの手技をやらなくなり,やりたくなくなり,できなくなっていく自分に不満である。しかも,この不満を克服する名案をぼくは持たない――「なかったこと」にする以外は。

 ヒントはある。ぼくが知る限り,手技に関してオールレンジタイプの(稀有な)医者は,たいてい外科出身のジェネラリストである。外科医は非常に密度の高い技術的訓練を受けているので,内科系医師よりも技術の減衰スピードが遅いように思う。また,技術のレベルが高いのでいろいろなところにそれを応用できる。かつて開胸術を数多くこなした外科医は胸腔ドレナージ挿入の技術も衰えにくい。他のチューブ挿入も上手なままだ。一方,たまに気胸の患者を診ていたという程度の内科系ジェネラリストは,数年気胸を診なかっただけで,ドレナージチューブの挿入に躊躇するだろう(そういう状態で,全く躊躇しないというのもそれはそれで危うい態度かもしれない)。

 アメリカの医者に比べて,日本の医者は技術,手技に対する思いが強いように感じている。アメリカは基本,分業社会なので「何でもできる」タイプに関心が低い。自分はこれをやり,それ以外は別の人がやるものだとアッケラカンとしているとぼくは思う。日本の医者はそれに比べて技術,手技に対して非常に思い入れが強い。まあ,時に強過ぎてその手技のもたらす「意味」を無視してしまうほどであるのだけれど(本当に,そのカテーテル検査,必要ですか?)。

 ジェネシャリストは,高齢化,人口減少が進みポリバレントな能力が必要な日本社会の未来において求められる医師像である。ぼくはそう思っている。しかし,ジェネシャリストは,他のどの医者もそうであるように,医者の無謬なファイナルアンサーではない。まだ答えのない,答えの見えない未開領域は存在するのだ。

つづく

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