オバマケアの「デザイン」(津川友介)
連載
2016.10.31
短期集中連載[全3回]
オバマケアは米国の医療に何をもたらしたのか?
■第2回 オバマケアの「デザイン」
津川 友介(米国ハーバード公衆衛生大学院(医療政策管理学)リサーチアソシエイト)
(前回からつづく)
政策が目的とする成果を達成するためには,科学的根拠に基づいた政策(Evidence-based policy)を「デザイン」することが必要不可欠である。臨床医学が病態生理とエビデンスを組み合わせるEBM(科学的根拠に基づく医療)を通じて患者の健康を最大化するように,医療政策学では理論(主に医療経済学の理論)とエビデンスを融合させること(図)で医療の質の向上や,医療費抑制をめざす。昔はデータが少なく医療政策学のエビデンスも乏しかったため,実務者の経験を基に政策をデザインするのが現実的であったのかもしれない。しかし,現在では理論もエビデンスも十分に存在するため,欧米では科学的根拠に基づいた政策のデザインがスタンダードとなっている。
図 EBMと科学的根拠に基づく政策(筆者作成) |
オバマケアの「デザイン」における研究者の役割
オバマケアによって米国は皆保険制度を達成した。もちろん制度設計上は,全ての国民を公的医療保険へ強制加入させることが最も簡単な方法であった。しかしそれでは既存の民間医療保険会社を廃業に追い込んでしまうことになるため,オバマ大統領は民間医療保険の市場に規制をかけつつ皆保険をめざす共存の道を選んだ。そのためには医療経済学の理論やエビデンスを基にした綿密にデザインされた制度が必要であった。そこでオバマ大統領は第一線で研究を続けている医療経済学者や医療政策学者にその「設計図」を描くよう依頼した。
保健福祉省長官(日本の厚労大臣に相当する)のシンクタンクとも呼ばれるASPE(office of the Assistant Secretary for Planning and Evaluation;註)には,ハーバード大のリチャード・フランク(医療経済学者)やアーノルド・エプスタイン(医療政策学者)が政治任用の高官として勤務し,この他にも多くの医療経済学者・医療政策学者がオバマケアの設計にかかわった。ASPEでは常勤の研究者が毎日のようにデータ解析と政策評価を行っている。つまりオバマケアは,米国の最高の学者たちによる理論とエビデンスの結晶を,オバマ大統領をはじめとした政治家や官僚が実現した法律だととらえることができる。
医療経済学の知見がどのようにデザインに生かされたのか?
オバマケア最大の挑戦は,国が保険加入を強制することなく皆保険制度を達成することであった。医療経済学の知見から,障壁となるのは「逆選択」と「リスク選択」という2つの「選択」であることが知られていた。よってオバマケアはさまざまな手段によりこの2つの選択を抑制しようとした。
1)逆選択
医療保険に加入することによって得をするのは,病気になるリスクが高く,高額な医療サービスを使う人である。逆に健康でほとんど病院に行かない人にとっては,医療保険の還付額よりも保険料の方が高くついてしまう。一般的に不健康な人ほど,保険料が高いものの還付も手厚い医療保険に加入する傾向があり,この現象を「逆選択(Adverse selection)」と呼ぶ。
医療保険は健康な人と病気の人を共にカバーして,病気の人の治療コストを皆で広く浅く負担することで初めて成り立つ。医療保険に入るかどうかを個人の自由にすると,健康な人は医療保険に加入しなくなり,加入者は病気を持っている人ばかりになる。そして医療費を使う人の割合が増えれば,保険制度を維持するためには保険料を上げざるを得なくなる。
保険料が上昇すると,医療保険の加入者の中で比較的健康な人たちが,使っている医療サービスの量と比べて保険料が高すぎるということで翌年から保険に加入しなくなってしまう。医療保険の加入者に占める重症な病気を持った人の割合は年を経るごとに増え,保険料は徐々に高くなっていく。最終的には保険料が高くなりすぎて保険会社が提供できるプランがなくなり,医療保険の市場自体が消滅する。
このように,逆選択によって市場自体が成り立たなくなってしまうことをハーバード大の医療経済学者デイビッド・カトラーは「逆選択の死の循環(Adverse selection death spiral)」と名付けた。この現象は1990年代半ばにハーバード大の職員向けの医療保険で実際に認められた1)。
オバマケアはさまざまな手段を用いて逆選択が起こらないようにした。個人に対しては個人加入義務(Individual mandate)を課し,医療保険を買うだけの収入があるにもかかわらず加入しなかった場合には税金が高くなるようにした。米国では連邦政府の権力の範囲は憲法によって規定されているため,民間企業から医療保険を購入することを国が国民に強制することはできない。しかし国には課税徴税権があるため,医療保険を購入しない人へのペナルティーを罰金ではなく税金であると解釈することで,個人加入義務は合憲であると最高裁は判断した2)。
個人だけではなく雇用者にも皆保険制度を達成するために責任を課した。50人以上の従業員がいる企業にはその従業員に医療保険を提供する義務〔雇用者に従業員への保険提供の義務(Employer mandate)〕が生じることとなり,医療保険を提供しないと雇用者に罰金が発生するようになった。
2)リスク選択
医療保険会社は,保険料と使われた医療サービスに対する還付額の差額で利益を得る。よって,保険会社はできるだけ健康上のリスクが低く,利益になる顧客にしか保険プランを売らないようにしようとする。このように利益になる健康な顧客だけをいいとこ取りすることを「リスク選択(Risk selection)」と呼ぶ。
そのため,オバマケア導入前は医療保険には厳しい加入審査(Medical underwriting)があった。この審査結果によって基礎疾患のある人や健康状態が悪い人には高額な保険料が設定され,場合によっては加入拒否されることもあった。オバマケアによって加入審査は禁止され,全ての人が健康状態にかかわらず保険に加入できるようになった〔保険発行保証(Guaranteed issue)〕。
たとえ保険に加入できるようになっても,保険会社が自由に保険料を設定できれば,不健康な人の保険料を高額にして事実上加入させないようにできる。これを防ぐ目的で,オバマケアは地域料率方式(Modified community rating)という保険料の算定方法を導入した。これにより,保険会社は保険料を決めるにあたりその地域のリスクを考慮することはできるものの,個々人の健康リスクに応じて保険料を変えることが禁止された。
さらには,高齢者の加入を妨げることがないように,高齢者の保険料を若年者の保険料の3倍以内に抑えることが義務付けられた。オバマケアが唯一許したのが喫煙による差別化である。喫煙者には保険料を50%までであれば高くしてもよいとされた。
こんなに規制を加えたら保険会社が倒産してしまうのではないかと思う読者もいるかもしれない。それを防ぐ仕組みもある。それらは頭文字をとって3 Rと呼ばれる。
・リスク補正(Risk adjustment)
健康な加入者の多い医療保険プラン(低リスクプラン)から,不健康な加入者の多いプラン(高リスクプラン)へ保険料の再分配を行う。年齢,性別,基礎疾患などが計算式に含まれる。この仕組みは恒久的になる予定。
・再保険制度(Reinsurance)
高額な医療費がかかる加入者がいると拠出基金(Contribution funds)から保険会社に対して補助金が出る。オバマケア導入によって急激に保険料が上昇することを防ぐ目的で,2014~2016年の期間限定で導入。
・リスク回廊プログラム(Risk corridor)
医療保険プランの利益や損失が一定の範囲に収まるように国が調整する。2014~2016年の期間限定で導入。
この3 Rは保険会社間で勝ち組と負け組を作らないような制度設計となっている。加入者はどの保険プランにも自由に入れるようになった代わりに,保険プラン間で保険料の再分配が行われるため,保険会社は健康な人をえり好みする必要性が少なくなる。オバマケアは,民間医療保険をうまく生かしながら,規制を介して日本のような社会保険制度に近いシステムの達成をめざす制度であるととらえることもできる。
オバマケアが医療経済学の知見を取り入れ,いかに2つの「選択」に対処したかを説明した。オバマケアは既存の市場を破壊することなく皆保険制度を達成しようとしているため,極めて複雑な制度になっている。先進国ではすでに何らかのインフラが存在している場合が多く,ゼロから作り上げることができることはまれである。例えば,英国のように医療費を税金で全てカバーし,全ての病院を国営にするような大改革を日本で行うのは現実的ではない。そういった点で,米国のように既存の市場や制度を生かし,医療経済学の理論やエビデンスを取り入れて巧みにコントロールする「次世代型の医療改革」は,日本にとっても示唆に富むものなのではないだろうか。
(つづく)
註:ASPEは保健福祉省長官の政策立案のアドバイザーであり,医療政策の調整,法整備,戦略的計画の立案,政策研究,政策評価,経済分析を担当する(公式ウェブサイトより)。
◆参考文献
1)Cutler DM, et al. Paying for health insurance:The trade-off between competition and adverse selection. The Quarterly Journal of Economics. 1998;113(2):433-66.
2)N Engl J Med. 2012[PMID:22809363]
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