医学界新聞

寄稿

2015.04.06



【寄稿】

私とともに在る人と
『漢方水先案内――医学の東へ』を読んで

上橋 菜穂子(作家・文化人類学者)


 読み始めたとたん強烈にひき込まれて,貪るように読んでしまう本というのがあるものですが,津田篤太郎先生の『漢方水先案内――医学の東へ』(医学書院)は,私にとっては,まさにそういう一冊でした。

生死については蚊帳の外

 病と免疫が見せてくれるものに,私は最近,心惹かれています。このふたつは,人の身体というもの,そして,生命というものの有り様をくっきりと見せてくれますし,「私」とは何かということや,生き物の多様なつながり,生命に満ちたこの星の有り様まで見せてくれるからです。

 素人にもわかりやすく書かれている「病と免疫」関連の本を読むうちに,つくづく不思議なことだと感じるようになったのは,最も大切なはずの己の生き死にについて,私たちはいつも「蚊帳の外」に置かれているのだなあ,ということでした。

 生き物はみな,己の身体に生かされ,己の身体に殺されますが,己の身の内側で起きていることの詳細を,自らの目で見ることはできません。

 この身の内で何が起きているのか。それを「見る」ために,人は実にさまざまな方法を生み出してきましたが,たとえ最先端のバイオイメージング技術で生きている状態での体内の現象を画像化しても,まだ,知りえぬこと,見えぬことは,たくさんある……。

 生成流転し続ける生命の有り様,己の生死を司っているものを捉えようと,人は,科学で,医学で,哲学で,宗教で,あるいは詩や物語で,さまざまな試みをしてきたし,いまも,これからも,その試みは連綿と続けられていくのでしょう。病を軸に万華鏡を回転させれば,生き物と世界の見え方は変わっていきます。

「理解」から零れ落ちるもの

 私は『鹿の王』という物語を書く中で,西洋医学的な思考と技術の基礎をもつ医術師と,そういう医学とは全く異なる思考と技術をもつ祭司医とを描きました。

 西洋医学的医術師は,この世のすべてを隈なく分析し,病と人の身体のすべてを解明していけば,やがては,すべての病気を治すことができると思っている。一方,祭司医は,病の原因については単純に「身に穢(けが)れが入ったから」という一点のみで考え,良く生き,満足して死ぬという「魂が満たされること」を重視し,魂を救うことが癒やすことであると考えるのですが,そういう異なる志向性をもった医術を描きながら,ぼんやりと心の中にあったのは,西洋医学と東洋医学の違いについてでした。

 このふたつの医学は「病を治療する」という一点では一致しているけれど,根の部分が,かなり大きく異なっているのかもしれない,と感じていたのです。そのぼんやりとした思いを,すっきりと解き明かし,目の前に置いてくれたのが,『漢方水先案内』でした。

 特に,「理解」という一点から西洋医学と東洋医学を対置させた部分は見事でした。

 「理解」は「分ける」ことを前提にしています。分けていくことにより,ある種の規則性や共通性が浮かび上がって初めて構成や構造が「分かる」と考えるわけです。

 分析し,規則性,共通性を探り,そこから構成や構造を見いだす。例外のない普遍をめざす科学的思考においては,「対象を理解する」ことが,まずは,なんらかの行動を起こすための大前提になります。 ...

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