医療者に対する抜き打ち薬物検査強制論(李啓充)
連載
2013.09.30
〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第254回
医療者に対する抜き打ち薬物検査強制論
李 啓充 医師/作家(在ボストン)(3043号よりつづく)
8月5日,大リーグ機構は,禁止薬物を使用した件で,アレックス・ロドリゲスに対し211試合,ネルソン・クルーズら12選手に対し50試合の出場停止処分を科した。今でこそ薬物使用に厳しい姿勢を示している大リーグであるが,罰則を伴う抜き打ち薬物検査を導入したのは2004年と,他のスポーツと比較して著しく遅かった。導入が遅れた理由は,選手会が「プライバシーの侵害」と,長年強く反対し続けたことにあったが,その反対を覆したのは,「薬物使用を黙認するのはけしからん」とする世論の圧力だった。特に,連邦議会が機構・選手会関係者を証人喚問,「検査体制もなっていないし,罰則も軽すぎる」とつるし上げたことの効果は大きかった。
薬物乱用に対する世論の圧力は医療者にも
以上,野球の例を挙げたが,米国では,スポーツ以外の領域でも抜き打ち薬物検査が行われることが珍しくない。とはいっても,スポーツで問題となる薬物がいわゆる「機能増強剤」であるのとは異なり,スポーツ以外の領域で問題となる薬物はアルコール・麻薬等のいわゆる「中毒性(依存性)薬物」である。例えば1991年に成立した「公共交通機関従業員検査法」に基づいて運転士・操縦士等を対象として抜き打ち薬物検査を実施しているのであるが,薬物でハイになった状態での運転・操縦を看過した場合,多くの人命が損なわれる危険があることを考慮するからにほかならない。
「人命をあずかる職種に対して抜き打ち薬物検査を強制する」原則が社会に受け入れられているのであるが,最近,米国で「医師・看護師も人の命をあずかる職種なのだから,彼らに対しても薬物検査を強制せよ」とする議論が起こっている。
例えば,カリフォルニア州では「医療者に対する薬物検査強制」を,2013年11月の州民投票にかける運動が起こっている。この運動の先頭に立っているのが,元インターネット企業重役のボブ・パックである。10年前に息子(10歳)と娘(7歳)の2人の命を,「薬物の影響下にある運転(driving under influence)」のせいで失ったことが運動にかかわるきっかけだったが,最新の世論調査によると,85%の州民が医療者に対する強制検査を支持しているという。
さらに,今年5月には,JAMA誌に,「すべての病院が医師に対する抜き打ち薬物検査を実施せよ」とする論説が医療界から寄稿されて注目された(註1)。論説を執筆したのはジョンズ・ホプキンス大の医師たちだったが,「患者にはimpaired physicians(薬物等の影響で能力が損なわれた医師)から守られる権利がある」として,強制検査の実施を主張したのだった。
医師・看護師等医療者の間でどれだけ嗜好性薬物の乱用がまん延しているのか,あるいは,抜き打ち検査が薬物乱用を防止する効果があるのかについて調べた研究は多くない。しかし,データは乏しいものの,医療者の間における薬物乱用の率は,社会一般の乱用率と大差がないと推測されている。
抜き打ちによる薬物使用防止の効果は
また,抜き打ち検査の効果について調べた研究としては,マサチューセッツ・ジェネラル・ホスピタル(MGH)麻酔科が2008年に発表したものが知られている(註2)。MGHは,1846年に世界最初の「公開」エーテル麻酔手術が行われたことで知られるように,その麻酔科はあまたの先駆的業績を残してきた。薬物乱用防止のための抜き打ち検査も世界に先駆けて実施したのであるが,実は,麻酔科は,嗜好性薬物に対するアクセスが比較的容易であることもあって,薬物乱用率が他科よりも高いと推測されている。MGH麻酔科が抜き打ち検査実施に踏み切った理由は,「教育・指導と薬物管理体制強化だけでは,レジデントの間に薬物使用者が出ることを防止できなかった」とする反省にあった。抜き打ち検査導入前には毎年1-2%の割合で薬物使用者が出現していたのであるが,導入後使用者発生はゼロとなり,防止効果があることが示唆されたのだった。
以上,今回は,医療者を対象とした抜き打ち薬物検査強制をめぐる議論について紹介したが,この領域は,今後の方針・施策を決定するに当たって参考とすべきデータや証拠が著しく乏しい。データや証拠が乏しいだけに,方針・施策の決定に当たって大きな影響を与えるのは世論の動向である。現時点において「医療は人の命をあずかる職種。公共交通機関でもやっているのだから,薬物検査は実施して当然」とする意見が大勢を占めているだけに,抜き打ち検査の強制は免れないのではないだろうか? 「検査強制は犯罪人扱いと一緒でプライバシーの侵害」とする反論が通じないのは,大リーグ選手会の例でも明らかなのだから……。
(つづく)
註1:Pham JC, et al. Identification of physician impairment. JAMA. 2013 ; 309(20): 2101-2.
註2:Fitzsimons MG, et al. Random drug testing to reduce the incidence of addiction in anesthesia residents : preliminary results from one program. Anesth Analg. 2008 ; 107(2): 630-5.
いま話題の記事
-
医学界新聞プラス
[第1回]心エコーレポートの見方をざっくり教えてください
『循環器病棟の業務が全然わからないので、うし先生に聞いてみた。』より連載 2024.04.26
-
PT(プロトロンビン時間)―APTT(活性化部分トロンボプラスチン時間)(佐守友博)
連載 2011.10.10
-
事例で学ぶくすりの落とし穴
[第7回] 薬物血中濃度モニタリングのタイミング連載 2021.01.25
-
寄稿 2016.03.07
-
連載 2010.09.06
最新の記事
-
医学界新聞プラス
[第3回]腰部脊柱管狭窄症_保存的リハビリテーション
『保存から術後まで 脊椎疾患のリハビリテーション[Web動画付]』より連載 2024.10.07
-
取材記事 2024.10.04
-
医学界新聞プラス
[第2回]自施設に合ったSNSを選ぼう(前編)
SNSで差をつけろ! 医療機関のための「新」広報戦略連載 2024.10.04
-
医学界新聞プラス
[第2回]腰部脊柱管狭窄症_治療の概要
『保存から術後まで 脊椎疾患のリハビリテーション[Web動画付]』より連載 2024.09.30
-
取材記事 2024.09.27
開く
医学書院IDの登録設定により、
更新通知をメールで受け取れます。