組織は誰の物か?(李啓充)
連載
2013.09.16
〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第253回
組織は誰の物か?
李 啓充 医師/作家(在ボストン)(3041号よりつづく)
黒人女性ヘンリエッタ・ラックス(31歳)が子宮頸癌で亡くなったのは1951年のことだった。しかし,彼女の癌組織はHeLa細胞として永遠の命を獲得した。ヒトから樹立された初の細胞株として,癌研究はもとより,ポリオワクチンの開発等あまたの研究に役立てられてきたのである。
HeLa細胞は,医学の進歩に多大の貢献をしただけでなく,さまざまな商業的利益をももたらした。しかし,ラックスの遺族は,組織が研究に利用されたことはもとより,長い間細胞株が存在することすら知らされなかった。ラックスの家族が,HeLa細胞のもたらす一切の商業的利益から排除された経緯は,レベッカ・スクルートの名著『不死細胞ヒーラ ヘンリエッタ・ラックスの永遠なる人生』(講談社,2011年)に詳しく紹介されたとおりである。
科学の進歩に役立てるか,プライバシーの保護が優先か
今年3月,ドイツの研究グループがHeLa細胞の全ゲノム・シークエンスを報告したことで,ラックスの家族は新たな生命倫理上の問題に巻き込まれることとなった。シークエンスには特定疾患にかかりやすい素因等の医学的情報が含まれ,家族にとっては「プライバシーの侵害」となるからだった。データをオープンにして科学の進歩に役立てるのか,それともラックス一族のプライバシー保護を優先してデータを非公開とするのか,が議論となったのである。
8月7日,HeLa細胞のゲノム情報の取り扱いをめぐって,NIH(米国立衛生研究所)とラックスの家族との間で合意が成立した。「ゲノム情報の利用は研究目的に限り,アクセスは『許可制』とする。許可するかどうかを審査する委員会に,家族のメンバー2人が加わる」ことで,「科学の進歩」と「プライバシー保護」のバランスを取ることとなったのだった。
HeLa細胞はその典型であるが,患者から得た組織に莫大な「商業的価値」が生じることは珍しくなく,患者と研究者あるいは研究施設の間で,「利益の分配」をめぐって係争が生じる事態も起こり得る。
例えば,ヘアリー・セル白血病の細胞株「Mo」について,患者ジョン・ムーアが「自分の体から取った細胞を,無断で商業利用したのはけしからん」と,デイビッド・ゴールド医師とUCLAを訴えたのは,1984年のことだった。一審は研究者・研究施設の勝訴,二審は患者の勝訴となった後,カリフォルニア州最高裁は「一度体を離れた組織はゴミと一緒。患者に所有権はない」として,患者の訴えを退けた。
また,組織の所有権をめぐって研究者と研究施設とが争った事件も起こっている。ワシントン大(以下,ワ大)のウィリアム・カタローナ医師は,受け持ち患者から採取した組織・血液検体のコレクションについて大学側が「所有権」を主張したことに嫌気が差してワ大を辞めてしまった。他大学に移った後,患者に働き掛けて,「検体はカタローナ医師にドネートしたのだから,彼の移籍先に移すよう」ワ大に要請させた。しかし,ワ大は「所有権は大学にある」として患者からの要請を拒否するとともに,カタローナ医師を2003年に訴えた。連邦地裁・控訴審とも大学側の主張に軍配を上げ,カタローナと患者の主張は認められなかったのだった。
組織を提供する患者の願いとは
上述したように,組織は一度体から離れてしまうと所有権が消失するというのが米国では法律上の原則なのであるが,「体内にある間に売る」ことで,生計の足しにした患者がテッド・スラビンだった。スラビンが,「血友病の治療を受ける間にB型肝炎に感染した」と知ったのは70年代に入ってからである。ある医師から「君の血清はHB抗体価がべらぼうに高いから,欲しがる企業や研究施設は多いよ」と教えられた後,血清1 mL当たり10ドルの値段(1回のオーダーで最大500 mLまで)をつけて売りに出したのだった。
しかし,患者としてB型肝炎の予防や治療法が開発されることを強く願っていたのは言うまでもなく,彼は,B型肝炎ウイルス発見者のバルーク・サミュエル・ブランバーグ(1976年ノーベル生理学・医学賞受賞)に対しては,自分の血清を無償で供給し続けた。「治療法を開発できるとしたらブランバーグしかいない」と見込んだからだった。
HeLa細胞が樹立された50年代初めは,インフォームド・コンセントの概念すら存在せず,患者から得た組織をどう使おうと,研究者の自由だった。しかし,スラビンの例を挙げるまでもなく,患者が研究者に検体をドネートするのは,「自分の病気の診断・治療の進歩に役立てて欲しい」と願うからにほかならない。HeLa細胞の時代は,組織を差し出す患者を「研究の対象(=被験者)」と扱っていれば事足りたのであろうが,いまの時代は,その善意と願いに敬意を払って,「研究の協力者・参加者」として遇する姿勢が求められているのではないだろうか?
(つづく)
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