「アンジェリーナ効果」は日本にも波及するのか?(李啓充)
連載
2013.06.17
〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第247回
「アンジェリーナ効果」は日本にも波及するのか?
李 啓充 医師/作家(在ボストン)(3029号よりつづく)
前回のあらすじ:2013年4月15日,米最高裁で,乳癌・卵巣癌関連遺伝子BRCA1/2の特許をめぐって「ヒト遺伝子を特許の対象とすべきかどうか」についての審理が行われた。
前回・前々回と,乳癌・卵巣癌の発症リスクに影響するBRCA 1/2遺伝子の特許訴訟をめぐる話題について紹介したばかりだが,5月14日,映画俳優アンジェリーナ・ジョリー(38歳)がニューヨークタイムズ紙に寄稿,BRCA1遺伝子検査が陽性であったために予防的両側乳房切除術を受けていた事実を公表した。
ジョリーによると,遺伝子検査を受けた理由は,家族歴が陽性(母親が卵巣癌で死亡)であったためだった。「判明した遺伝子変異の下で乳癌を発症するリスクは87%」とする説明を受けて,予防的乳房切除に踏み切る「選択」をしたという。
「癌を予防するために健常な乳房を切除する」という決断そのものが十分に「勇敢」であったことはいまさら言うまでもないが,ジョリーの場合,さらに,切除術を受けた事実を「公表する」という選択をした勇敢さに,全米の賞賛が集まっている。公表しなかった場合,後になって,不愉快なゴシップやスキャンダルに巻き込まれる可能性もあっただけに,「遺伝子検査陽性・乳房切除」という,極めて「プライベート」な情報をあえて公表する道を選択したであろうことは容易に推察される。「私人」として,医療・健康にかかわる困難な選択に直面しなければならなかっただけでも大変だったろうに,「公人」として,パブリック・リレーションにかかわる決断をもしなければならなかったのだから,その立場には同情を禁じ得ない。
日本における保険適応の壁
しかし,ジョリーが,その極めてプライベートな決断と体験とを公表したおかげで,癌診療における遺伝子検査の意義について大きな啓蒙効果があったことは否定し得ない。米国の場合,有名人の健康上の問題や医療上の決断が,一般に大きな影響を与えるのは今回のジョリーのケースに始まったことではない。特に,乳癌については,1974年に,大統領夫人としてホワイトハウスの住人になったばかりのベティ・フォードが「乳癌の診断および手術」についてオープンに公開した前例は有名であり,乳癌に対する意識が飛躍的に高まるきっかけとなった(註1)。
今後,「アンジェリーナ効果」で,米国にとどまらず,世界中でBRCA 1/2遺伝子検査を受けたり,予防的乳房切除術を受けたりする女性が増えると予想されている(註2)。しかし,「アンジェリーナ効果」が日本にも波及するかどうかを考えたとき,私は首をかしげざるを得ない。というのも,米国では,ほとんどの医療保険が,高リスク患者に対するBRCA 1/2遺伝子検査・予防的乳房切除手術だけでなく,切除後の乳房再建手術に対する保険適応を認めているのと違って,日本ではこれらに対する保険適応が認められていない現実があるからである。アンジェリーナ効果の波及は,検査・手術を自費で受けることのできる女性にとどまると予想せざるを得ないのである。
乳癌・卵巣癌患者に「心優しい」のは日米どちらか
米国の場合,例えば,BRCA1/2遺伝子検査については,ほとんどの保険が,(1)卵巣癌の既往,(2)乳癌発症年齢,(3)乳癌・卵巣癌家族歴,(4)膵癌の既往・家族歴等でリスクの高さを判定した上で,保険給付を認めている(註3)。また,予防的乳房切除術についても,(1)若年乳癌発症,(2)BRCA1/2等の遺伝子検査陽性,(3)乳癌・卵巣癌の濃厚な家族歴,(4)胸部放射線治療の既往等で適応を絞った上で,保険給付を認めている。
さらに,乳房再建術についていうと,1998年に制定された「女性の健康・癌についての権利法」で,「乳房切除後の再建手術について保険給付を認めなければならない」と定めている。「癌で失った乳房の再建を求めることは女性の権利」とする認識の下に,法律で保険給付を義務付けているのである。
このコラムでは,ややもすると米国の医療保険制度の「冷たさ」を強調しがちであるが,こと乳癌・卵巣癌に限ると,全体的には冷たい制度を運営している米国のほうが,「皆保険制」を自慢するどこかの国よりも,はるかに「心優しい」体制を用意して女性に提供しているのである。多くのメディアがジョリーの勇敢さを賞賛したことは日米で共通であったものの,日本の場合,「ジョリーは勇敢だ,偉い!」のレベルにとどまる報道がほとんどで,その制度の「冷たさ」を指摘・批判したものは皆無だったので,あえて言及した次第である。
(つづく)
註1:ベティ・フォードは,後に,アルコールおよび鎮痛剤依存症を克服した事実を公表しただけでなく,依存症治療施設として世界的に有名となる「ベティ・フォード・センター」を設立した。
註2:その一方で,「根拠のない恐怖感」に基づいた,適応のない遺伝子検査や予防手術を希望する女性が増えることも予想され,「負のアンジェリーナ効果」が起こることも心配されている。
註3:2010年に制定された医療制度改革法(通称「オバマケア」)では,「高リスク患者に対するBRCA 1/2遺伝子検査・カウンセリングへの保険給付」が義務付けられた。
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