医師が患者になるとき(李啓充)
連載
2012.03.26
〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第218回
医師が患者になるとき
李 啓充 医師/作家(在ボストン)(2969号よりつづく)
1月27日,カリフォルニア大学サンフランシスコ校医学部名誉教授リチャード・オルニーが64歳の生涯を閉じた。
オルニーはALS臨床研究の権威として知られ,1993年には,同大医学部に「ALS診療研究センター」を創設した。自ら初代センター長を務めたオルニーが2004年にその職を辞した理由は,彼自身がALSの患者となったことにあった。
これまでのアドバイスは患者となった自分に役立つのか
医学部を卒業したオルニーがALSに特別の関心を抱くようになったきっかけは,中学時代に尊敬していた教師のお嬢さんが同病で亡くなったと知ったことにあった。以後,専門医として,1000人以上のALS患者の診療に携わることになるのだが,自分自身がALSに罹患するなど夢にも思っていなかったのは言うまでもない。
症状は,当初,下肢に限定していた。たまたま画像検査で椎間板が脊髄を圧迫している所見が見つかったため手術を受けたものの,下肢の脱力は改善しなかった。ALSの可能性を考えないわけではなかったが,同僚の医師も家族も,「そんな心配をするのは,これまでALSの患者をたくさん診すぎたせいだ」と,彼の「過剰診断」を一笑に付した。
やがて,上肢にも脱力感を自覚するようになったオルニーは,自らのfinger-tap-rate を計測した。65回できるはずの「指叩き」が55回しかできなくなっていることを知ったとき,彼は自分の病がALSであることを確信したのだった。
2004年6月,オルニー(当時56歳)は,ALS診療研究センター長の職を辞し,患者として療養に専念する道を選んだ。教え子のキャシー・ローメン=ホースが彼の後を継いで二代目所長となるとともに,主治医となった。
治療が著しく困難な疾患を長年診てきた医師自身がその疾患の患者になる事態は「悪夢」のように思えるかもしれないが,オルニーにとって,「不治の病の診断を受け容れることは想像していたより難しくはなかった」という。突然ほかの誰かから「ALSだ」と告げられたら受け容れるのは難しかったかもしれないが,ALSである可能性ははじめから頭の片隅にあった上,診断を下したのは自分自身だったからではないかと,オルニーは後に述懐している。さらに,彼にとって,「自分が長年患者・家族にしてきたアドバイスが本当に役に立つのかどうか」を実際に体験できる立場に立ったことに対する興味も大きかったという。
オルニー自身は,専門医として比較的冷静に診断を受け容れることができたものの,家族が受けたショックの大きさは,ほかの患者の家族の場合と変わらなかった。当初,症状の進行が急速だったこともあり,離れて暮らしていた息子と娘が急きょ実家に戻ってきたほどだった(その後,長男は医学部に進学,長女は療法士となってALS患者の理学療法マニュアルを執筆するまでになった)。
オルニーは,患者に対して,「できなくなったことを嘆くのではなく,まだできることを存分に活用して,クオリティ・オブ・ライフを高めることに専念するように」とアドバイスし続けてきた。いざ,自分が患者になった後,そのアドバイス通りに暮らすことを心がけたのである(クオリティ・オブ・ライフを優先する立場から,人工呼吸器を使用しないことはALSの診断がつく前から決めていたが,米国ではALS患者の約9割が「人工呼吸器を使用しない」道を選択するとされている)。
ALS臨床研究の権威から,患者のロールモデルへ
自分の肉体が急速に機能を失っていくことはわかっていた。やがて襲ってくる発声機能喪失に備えて,オルニーは自分の声をせっせとコンピュータに録音し始めた。発声機能を失った後,患者にとっても家族にとっても「意思疎通ができない」ことが最大の苦痛となるのがわかっていたからである。幸い,技術が進歩し,患者が「locked-in」の状態となった後も,目の動きでコンピュータを操作,発語させることが可能となっていた。オルニーはコンピュータが「話す」声を自分の声としたかったし,一番恐れたのは,家族に対して自分の思いが伝えられなくなる事態だった。真っ先にコンピュータに録音した言葉は,ポーラ夫人への思いを伝える「I love you Paula」だったという。
患者となったオルニーが次にしたことは,退職直前に自分が立案した二重盲検臨床試験に被験者として参加することだった。ALS患者の一部に,「残された命が短いのに,なぜ,何のご利益もないプラセボを飲まされるかもしれない試験に協力しなければならないのだ」とする強い不満があるのは知っていたし,研究者として二重盲検試験がベストであると信じていただけに,率先して試験に加わったのである。6か月後,自分が服用していたのはプラセボではなく試験薬であることを知らされた。しかし,自分が飲んでいた薬剤は逆に予後を悪くすることが判明,臨床試験そのものが途中で中止された。
当初は急激に悪化した病状が,その後進行が緩やかとなり,オルニーは,診断から8年生き続けた。最後まで外出を続けるなど,患者として「生きる」ことをエンジョイし続けだけでなく,積極的にメディアの取材にも応じ社会に対するALS啓蒙活動を続けた。さらに,亡くなる直前には,医学部卒業を目前とした長男との共著で,「初期のALS進行経過と予後の関係」についての論文執筆にも勤しんだのだった。
ALSと診断された直後,ポーラ夫人は「夫の夢はALSの治療法を発見することだった。その夢を果たして患者を助けることができないまま,自分が闘ってきた病の犠牲になってしまうのか」と嘆いたという。しかし,オルニーの死後,全米のALS患者団体が,医師・研究者としての業績に加えて,勇気と冷静さとを持って病と闘い,患者の「ロールモデル」となったオルニーの功績を賞賛した。治療法を見つけるという夢は果たせなかったかもしれないが,自らがロールモデルとなることで,多くの患者を勇気づけ,助けたのは間違いないのである。
(つづく)
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