医学界新聞

対談・座談会

2011.04.25

対談

科学と非科学のあいだ
質的研究をエビデンスとするために

池田清彦氏(早稲田大学国際教養学部教授)
高木廣文氏(東邦大学教授・看護学部長)


 人類の発展は"科学"の発展でもある。物理・化学における新法則の発見は科学の進歩ととらえられる一方,「科学とは何か」という本質的な問いが投げかけられることは少ない。

 医学・医療のように人間を対象とする領域では,研究を数値で現象の解明を行う「量的研究」と,主に心的な評価を扱う「質的研究」に大きく分けることがある。しかしこの両者をめぐっては,研究手法の違いや科学性の観点から研究者間で対立が生じることもあるのが実際だ。

 本対談では,多様性を重んじる「構造主義科学論」を提唱する池田清彦氏と質的研究の科学性を説く高木廣文氏が,科学の本質を議論。量的・質的の概念を越え,科学の姿をとらえなおす。


高木 私はかつて物理学的な方法論こそ"科学"だと考えていました。

池田 私も若いときは,"科学は真理を追究する営みだ"と疑いもせず思っていました。ただ,「真理とは何か」と真面目に考えると難しい(笑)。

 キリスト教的な考え方では,真理は"唯一存在するもの"なので,世界の共通法則を発見することが科学の最終目標です。確かに,物理学や化学は比較的理解しやすい原理でほぼ説明できるので,唯一の法則(=真理)があると仮定してもあまり問題はありません。

高木 ですが看護ケアのような活動では,唯一の法則を見つけることは難しいですよね。

池田 確かに複雑なシステムを考える社会科学や看護学などの研究領域では,一つの理論で説明がつく現象はまずなく,その再現性も高くありません。このような背景から,物理や化学に比べあいまいな自身の理論に自信が持てなくなった一部の社会科学者たちは,理論の"科学性"を気にし始めました。

高木 なるほど。筋道がはっきりしている自然科学の研究者は,科学性を気にすることはあまりなさそうですね。

池田 ええ。「科学的な手法で研究しなければならない」という強迫観念に駆られた社会科学者たちが次に行ったのが"数値化"です。数値で評価する量的研究となれば確かに科学的に見えます。

高木 そこで使われた手法が統計ですね。私は疫学研究に携わっていましたが,疫学も調査の結果を統計で評価します。例えば生活習慣の調査では,質問自体は「朝食をとる/とらない」といったありふれたものでも,これに点数を付け数値化していくと生活習慣の良し悪しが数字で表されます。そして検定の結果が有意というように研究者にとって都合のよい場合,"有意差あり"と鬼の首を取ったように報告しますが,確かに「死亡リスクが2倍になる」と数字で結果を表せると説得力は増します。

池田 統計は便利な手法で,量的研究を行っている研究者は統計学の科学性を金科玉条のごとく信じています。しかし統計の前提となる仮定が正しいかは,実はわからない。

高木 そのとおりです。例えば,統計学の基本的な仮定の一つに,分布の「正規性」の仮定があります。この仮定が成り立つかを確かめるために検定すると,標本数が少ない場合,少々外れ値があっても確率計算上は正規分布に従っていないとは言えない結論になりがちです。ところが,標本数が1000や2000と多い場合,かなりきっちりと正規分布に従うデータでなければ,「正規分布ではない」という結論になりやすくなります。検定の検出力と標本数の関係からこれは当たり前なのですが,私にはいつも釈然としない感じが残ります。

池田 どんなデータでも,それが本当に正規分布に乗っているかどうかは誰にもわかりません。標本数が少ない場合のそのような結論は,正規分布に従っているということとは違うわけです。ただ正規分布に従っていると仮定したほうが検定が簡単なので,普通はそこに目をつむっているわけです。このように,統計には厳密に言えば怪しい部分があります。

同一性の追究としての"科学"

高木 統計学もある仮定を基に計算しているだけにすぎないことを考えると,何でも数値化すればいいわけではないし,科学性という観点からも数値化が必ずしも妥当とは言えませんね。

池田 そうですね。私の専門は生物学のなかの生態学という分野ですが,この分野では虫の生活の評価など数値化できない現象が多くあります。

高木 しかし,言葉だけで「瞑想をすると精神的に安定する」などと表すと,いっそう厳密さがなくなり科学とは認められません。私はタイのHIV感染者を対象にインタビューを基にした研究を行ったのですが,この結果として「感染者は感染を知ったとき"死への恐れ"という概念を共通して抱く」と報告したところ,「それを調べて何がわかるのか」と言われたこともあります。

池田 私も,厳密な評価が比較的可能な分子生物学の研究者から「池田の研究は生物学らしくない」とか言われました(笑)。しかしそれを突き詰めると,物質レベルで評価できない研究は,すべてまともな研究とは認めないという話になってしまいます。

 それに世の中には量的に数値化できないことのほうがむしろ多い。多様化し,複雑化している分野に量的な研究だけで対応することはできないと私は考えたわけです。

高木 そのような発想が,「構造主義科学論」の着想につながったのですね。

池田 そうですね。構造主義科学論では,科学のパラダイムを真理に還元せず,「科学とは同一性の追究である」というシンプルな定義で,現象の同一性を見いだしそれでうまく説明できれば科学である,と考えます。

 物理や化学は,その同一性が極めて厳密だから一つの原理で全部説明できるように思えますが,個別性や偶有性が強い生物現象では「この現象はこの理論で説明できるが,それ以外の現象はわからない」という説明でも,実際役に立てばとりあえずいいわけです。

高木 その意味では「現象説明の役に立つ」ことが,科学性を考える上で非常に大事なポイントとなりますね。また,構造主義科学論で語られる「変なるものを不変の同一性で記述する」ことが科学の営みであると理解すると,科学がわかりやすくなりました。

池田 科学をそのようにとらえると,物理学・化学だけでなく高次の社会科学まで,すべて科学という範疇に収めることができます。それぞれの違いは同一性のレベルと考えれば,科学という視点で生態学者や心理学者が負い目を感じる必要はなくなりますね。

高木 構造主義科学論を知り,私は目からうろこが落ちる思いでした。先生はどのようにしてこれを思いついたのですか。

池田 理由はわかりませんが,進化理論を研究しているうちに何が正しいかよくわからなくなってきたことがきっかけです。ネオダーウィニストは,自然選択と突然変異と遺伝的浮動だけで,進化現象のすべてを完璧に説明できると主張しますが,進化の局面によってメカニズムはいろいろあります。そのプロセスごとに異なるメカニズムで説明したほうが合理的で,進化を説明する唯一の最終理論が構築できるというのは無理があると考えたわけです。つまり,ネオダーウィニズムで説明できる部分は進化のごく一部なのです。それを科学一般に敷衍したら構造主義科学論になりました。

■矛盾なく現象を説明できる理論が生き残る

高木 構造主義科学論は,科学の実際の営みをまさに表現していると思えますが,これだけでは"科学=真理を追究する営み"と考える自然科学者の納得は,まだ得られないとも感じます。

池田 一般に,完全に同一性を担保できるものは物質です。したがって,科学の厳密性を高めるためには,ミクロな現象ではできるだけ物質レベルの関係性,すなわち物理・化学法則で記述しますが,実はその法則もどこまで通用するかはわからない。人類の存在している範囲では通用しても,50億年経てば変わるかもしれない。すべて「とりあえず」の理論なのです。

 心理学の理論は数年で変わり,物理や化学の法則は不変の真理のように見えますが,それはタイムスパンの違いにすぎないとも言えます。心理学でも看護学でも,とりあえず現在役に立っている理論を認めていかないと,進歩はないわけです。

高木 そうですね。物理学も,ニュートン力学から量子力学へと発展し,今日では超弦理論などますます複雑化してきています。疑っているわけではありませんが,そういった理論はもはや目で確認することができないため,どこまで通用するか確かめようがない部分があるわけです...

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