医学界新聞

連載

2011.01.31

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第190回

アウトブレイク(6)

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2912号よりつづく

前回までのあらすじ:1798年以後,ジェンナーの天然痘ワクチンは急速に世界中に普及した。


予防接種義務化の動きと反対運動の強まり

 19世紀初め,ジェンナーの天然痘ワクチンの効果が認識されるようになるとともに,ワクチン接種を法律で義務付ける国が出現した。ババリア(1807年),デンマーク(1810年),ノルウェー(1811年),スウェーデン(1816年)などである。しかし,フランスやオーストリアのように義務化に腰の重い国もあるなど,その対応は国によって分かれた。

 ヨーロッパ諸国を中心に急速に普及が進む中,英国では天然痘ワクチン接種に反対する気運も強まった。「神(=自然)のすることに人間が干渉すべきでない」とする主張は人痘に対しても行われた主張であるが,『人口論』で有名なマルサスは,「天然痘は『自然』が行う効果的な人口調節手段である」として,人口調節効果を損なうワクチン接種に反対した(註1)。

 さらに,反対論者は天然痘ワクチンの有効性・安全性についても疑義を呈したが,その疑義は必ずしも的外れではなかった。例えば有効性についてジェンナーは「ワクチンは自然感染と同様に終生免疫を付与する」と信じ込んだのであるが,免疫効果を持続するためには再接種が必要であることは当初認識されていなかった。子どもの感染がほとんどであった18世紀までと異なり,ジェンナー以後,感染者の主流は子ども時代のワクチン接種の効果が薄れた大人となるなど,流行のパターンが変化したほどだったのである。

 一方,天然痘ワクチンは細菌学や滅菌法についての知識がまったく存在しなかった時代に使われた「生物製剤」であったため,被接種者に梅毒・破傷風などの感染を引き起こし,安全性についても大きな欠陥を有した。

パンデミック

 かくして,天然痘ワクチンをめぐっては,義務化の動きが強まる一方で,接種そのものに反対する運動も強まったのであるが,義務化の動きを一気に加速させるきっかけとなったのが,1870-75年にヨーロッパを席巻,死者50万人を出したパンデミックだった。

 パンデミックのきっかけとなったのは,1870年7月に始まった普仏戦争。軍隊では限定された空間内での集団生活を強いられる上,(難民も含めた)感染者が広大な地域を移動するため,戦争時に伝染病が爆発的に流行する現象は珍しくない。普仏戦争勃発時,フランスではすでに天然痘の流行が始まっていた上,プロシア軍が捕虜としたフランス軍兵士を自国に連れ去って収容したため,天然痘感染はフランスからプロシア,そして周辺国へと拡大することとなった。

 以下,このときのパンデミックの凄まじさを戦争当事国の天然痘死者数で見るが,フランスでは1866年の593人が,流行が始まった1869年に4169人と増加した後,普仏戦争の1870-71年には6万-9万人(見積もり)へと激増した。また,プロシアにおける死者数は,1870年の4200人から,1871年5万9839人,1872年6万5109人と急増,両国とも一般市民に甚大な被害が及んだのは共通だった。

 対照的に,軍隊内における感染を比較したとき,普仏二国の違いは激烈だった。兵士数100万人の仏軍で感染者12万5000人(見積もり),死者2万3470人に達した一方で,兵士数80万人のプロシア軍は,感染者8463人,死亡者459人と,天然痘の被害は「桁違い」に小さかった。なぜ両軍にこうも大きな違いが出たかというと,プロシア軍では,1834年以降,兵士に対して入隊時およびその後は7年ごとの天然痘ワクチン接種を義務付けていたからだった。しかし,兵士への再接種を義務づけていたプロシアでも,一般国民へのワクチン接種は義務付けていなかったため,市民の感染・死者はフランスと同規模だったのである。

 ちなみに,1870-75年のパンデミックでは,ワクチン接種を義務付けていた国と義務付けていなかった国とで死亡率は3倍ほど違ったといわれているが,歴史的に見ると,大規模な流行が発生するたびに,予防接種義務化の動きが強まる傾向が存在する。このときのパンデミックでも例外ではなく,例えば英国では1871年にワクチン法を改正,ワクチン接種拒否者に対する罰則規定が盛り込まれた。一方,ドイツ(註2)では1874年にワクチン法を制定,小児に対して,2歳までの初回接種および12歳での再接種を義務付けたのだった。

この項つづく

註1:『人口論』の初版が出版されたのは,ジェンナーの『牛痘の原因および効能に関する研究』の初版が出版されたのと同じ1798年。その後,マルサスの主張は「ワクチンは『適者生存』の原則を損ない,『不適者』の生存を助長する」とする優生思想の主張へと姿を変えた。 
註2:普仏戦争中,プロシアの宰相ビスマルクの主導の下,ドイツ統一が達成された。

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