医学界新聞

連載

2011.01.17

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第189回

アウトブレイク(5)

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2909号よりつづく

前回までのあらすじ:種痘登場前,天然痘に対する「予防」は人痘接種であった。


 「免疫学の父」と呼ばれるエドワード・ジェンナー(1749-1823年)が「牛痘」による天然痘予防を初めて試みたのは1796年。モンタギューが「人痘」法を英国に紹介してから75年後のことだった。

「免疫学の父」ジェンナーの実験

 ジェンナーが「牛痘感染が天然痘に対する免疫能を付与する」という仮説を思いついたきっかけは,「乳搾りの女性に美人が多いのは天然痘に感染しないから」という農村地帯の「言い伝え」を知ったことにあった。牛痘は,いわば天然痘の「ウシ」バージョン。乳搾りの女性が天然痘に感染しにくい理由は,仕事柄,牛痘感染の頻度が高いことにあると推測したのである。

 しかも,牛痘がヒトに感染した場合に起こる症状は天然痘感染とは比べものにならないほど軽微であった。もし牛痘が天然痘に対する免疫能を付与するのであれば人痘接種よりもはるかに安全な予防法になるはずだ,とジェンナーは考えたのだった。

 実は,牛痘の皮膚病変から得られた浸出液を接種することで天然痘感染を予防する試みは,ジェンナー以前にも行われていた。しかし,ジェンナーが偉かったのは,単に牛痘接種を予防法として試みただけでなく,その有効性を「実験」で科学的に証明したことにあった。

 ジェンナーが牛痘接種という歴史的「人体実験」に取りかかったのは1796年5月14日。実験台となったのは8歳の少年,ジェイムズ・フィップス(使用人の息子だったという)だったが,ジェンナーは人体実験に先だって,牛痘感染歴のある患者に人痘を接種しても天然痘の症状が発現しないことを確認していた。牛痘接種から6週後の7月1日,フィップスに人痘が接種されたが,天然痘の症状は一切出現しなかった。ジェンナーの仮説通り,牛痘接種が天然痘に対する免疫能を付与することが証明されたのだった。

 2年後の1798年,ジェンナーは牛痘接種実験の症例数を拡大,その安全性と有効性を確認した(被験者の中には,11か月になる自身の息子も含まれていた)。計23例での「実験」結果をパンフレットにして出版,人痘接種よりも安全な天然痘予防法(ジェンナーは「天然痘ワクチン」と命名した)があることを世に知らしめたのだった()。

 単に安全性において勝っただけでなく,牛痘法は人痘法に比べてはるかに安価であったし,利便性においても優れていた。例えば,人痘法では接種を受けた患者が新たな「感染源」となるため接種後2-3週の隔離を必要としたことと異なり,牛痘法では一切隔離の必要はなかった。また,牛痘に感染したウシの皮膚病変,あるいは,ワクチン接種後に現れるヒト皮膚病変の浸出液がワクチンの「供給源」となるため,ワクチンをウシやヒトで「継代」することも容易だった。

急速に普及した天然痘ワクチン

 実験結果の発表後,ジェンナーの天然痘ワクチンは驚くべき早さで世界中に普及したが,その際,各国の王族が熱心な支持者となった。天然痘ウイルスは患者の貴賤を選ばなかったし,家族を天然痘で亡くした体験を持つのは,王族も一般人と変わらなかったからである。ロシアでは皇太后マリア・フョードロヴナがプロシアからのワクチン輸入を手配,最初に接種を受ける子供(孤児)の名は「ワクチノフ」とすべし,と決めたほどだった。

 一方,スペインは,世界中に有する広大な植民地に天然痘ワクチンを供給する必要に迫られた。「活き」のいいワクチンをどうやって新大陸やアジアに供給するのか? 国王チャールズ4世の諮問を受けた医師たちが知恵を絞って考え出した作戦は,船に孤児を乗せ,ワクチン接種を受けた孤児の皮膚病変浸出液を次の孤児に接種することでワクチンを継代するというものだった。

 孤児22人を載せたマリア・ピタ号がラ・コルフィアの港から出航したのは,1803年11月30日のことだった。22人の孤児たちの年齢は8-10歳。天然痘感染歴,ワクチン接種歴がない子どもたちが選ばれたのは言うまでもない。新世界への航海を強制された子どもたちの世話係にイサベル・デ・ゼンダラ・イ・ゴメスが,ただ一人の女性として乗船したが,彼女は自分の息子も継代用「子ども部隊」の一員に加えた。一行の指揮を執ったフランシスコ・ザビエル・デ・バルミス神父は,ゼンダラ・イ・ゴメスが,航海中,心優しく子どもたちの世話をしたことを,その日誌で何度も賞賛した。

 新世界に到着した後,ワクチン供給部隊は南米隊とフィリピン隊の二つのグループに分かれた。フィリピン隊のデ・バルミスは1804年6月25日メキシコに上陸,陸路メキシコを横断する途上,各所でワクチン供給を続けた。1805年2月フィリピンに向け出航した際には,継代用にメキシコで新たに「調達」された孤児25人が加わっていた。ゼンダラ・イ・ゴメスの任務はメキシコ到着で終わっていたはずだったのだが,彼女は,孤児たちの世話をするために,自ら志願してフィリピンへの航海に加わった。

 マニラに到着したのは1805年4月15日。その後,デ・バルミスはマカオ,広東(現広州)にもワクチンを供給した後,1806年7月スペインに戻った。人痘法がヨーロッパに紹介されてからジェンナーがフィップスに牛痘を接種するまで4分の3世紀の時を待たなければならなかったのとは対照的に,天然痘ワクチンは,登場してからわずか10年余りの間に世界を一周したのだった。

この項つづく

:「ワクチン(vaccine)」の名はラテン語の「牛(vacca)」に由来する(ちなみに牛痘の学名はvariolae vaccinae)。

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