米国肝移植ルールの公正さをめぐって(4)ミッキー・マントル 父子物語(李 啓充)
連載
2009.11.30
〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第164回
米国肝移植ルールの公正さをめぐって(4)
ミッキー・マントル 父子物語
李 啓充 医師/作家(在ボストン)(2855号よりつづく)
前回までのあらすじ:濃厚な家族歴故に「自分もホジキン病で40までに死ぬ」と信じ込んだミッキー・マントルは,放蕩の限りを尽くした。
マントルによると,酒を飲み始めたのは19歳。父をホジキン病で失った悲しみを紛らせるためだったという。「強かった」こともあり,酒量はもともと多かったのだが,マントルの飲酒癖は引退後さらに悪化した。
「野球しか知らない」人生を送ってきたマントルにとって,アルコールは,引退後の退屈と寂しさを紛らせる最も容易な手段だったのである。やがて,特製メニュー「チャンピオンの朝食」で一日を始めるようになったが,「チャンピオンの朝食」とは,ブランデーをベースとした特製カクテルのことだった。
さらに,70年代後半以降,スポーツ・メモラビリア・ビジネスが興隆,マントルの酒量をさらに増やすこととなった。サイン会やパーティに出席し,人々と飲食することが「仕事」となったからである。
息子たちを「飲み友達」に
マントルには四人の息子がいたが,「父親不在」の家庭で育った子供たちにとって,マントルは「よその家の人」と変わらなかった。一方,自分は父親から野球の英才教育を受けたというのに,マントルは,息子たちのキャッチボールの相手すらしたことがなかった。父親らしいことをしてこなかったマントルにとって,引退後,一緒に過ごす時間ができた後も,子供たちとの向き合い方はぎこちないものにならざるを得なかった。ぎこちなさを解消する一番簡単な方法は「一緒に飲むこと」,マントルは,自分の息子たちを「飲み友達」にしてしまったのだった。
この間,マントルは自伝の中で「酒好き」であることは公表してきたものの,自分のアルコール依存症については「デナイアル(denial)」し続けた。「いつでもその気になったらやめられる」と信じていたし,深刻な問題を抱えているとは,心底思っていなかったのである。
しかし,記憶障害・全身倦怠等の身体症状が現れるに及んで,さすがのマントルもデナイアルを続けることが難しくなった。それだけでなく,自分が「飲み友達」化した息子たちがアルコール依存症で苦しみ,治療を求める姿を見せつけられるに至って,「自分が深刻な問題を抱えている」ことを認めざるを得なくなったのだった。
「自分の飲酒癖がなければ子供たちがアルコール依存症になることもなかった」。デナイアルをし続けることができなくなっただけでなく,マントルは,自分を責めるようになった。そして,四人の息子たちの中でも,マントルが一番大きな「責め」を負ったのは,三男のビリーに対してだった。ビリーは,19歳のときにホジキン病(!)と診断された後,寛解と再発を繰り返したが,やがて,治療の苦しさから逃れるために「薬剤」に走るようになっていた。
カウンセラーからの宿題
警察ざたや薬剤リハビリ施設への入退所の繰り返しなど,ビリーが起こすトラブルへの対処はすべて妻に任せたきり,マントルは問題と正面から対峙することを避け続けた。「自分が早くに父親らしいことをしていたら,ビリーの薬剤依存症がここまでひどくなることはなかったのではないか」。マントルは,自らのデナイアルのせいでビリーの依存症を重くしてしまったことを悔いたのだった。
「アルコール依存症に立ち向かわなければならない」。一念発起したマントルは,依存症治療で有名なベティ・フォード・センター(以下,ベティ・フォード)に入所した。しかし,いざ,入所はしたものの,ベティ・フォードの治療方針に疑問を抱くようになったマントルは,すぐに「脱出」することを考えるようになった。
脱出を考えていたマントルが心変わりし,真剣に依存症と立ち向かう覚悟を固めるきっかけとなったのは,カウンセラーから「父親への手紙を書く」という宿題を与えられたことだった。「父親がいまの自分の姿を見たら,がっかりして悲しむに違いない」。マントルは,手紙を書いている間中,涙が止まらなかったという。さらに,「自分が父親にしてもらったのと同じように子供たちに接していたら,彼らがアルコールや薬剤依存症になることはなかった」と,心の底から悔やんだのだった。
ベティ・フォードを退所した直後,マントルは,アルコール依存症であることを社会に公表した。自分が依存症であると「認める」ことが治療の第一歩であったし,自分を慕うファンに対し,「自分のようになってはいけない」と「ロールモデル」の役を務める義務があると考えたからだった。
ベティ・フォードを出てから数週後,薬剤依存症のリハビリ施設に入所していたビリーがわずか36歳の若さで亡くなった。「自分が父親らしいことをしてやれなかったせいだ」。マントルは自らを責め苛んだ。
飲酒癖が始まったのは42年前に父親に死なれたことがきっかけだったが,マントルは,ビリーに先立たれた悲しみを酒で紛らせることはしなかった。しらふで悲しみと立ち向かい,責めを負う道を選んだからだった。
皮肉なことに,ビリーの死はマントルが依存症と立ち向かう勇気を強める結果となった。「ビリーが死んだ悲しみにしらふで耐えられたのだから,もう酒の誘惑に負けるはずがない」。ベティ・フォードを退所後亡くなるまで,マントルは一滴も酒を口にしなかったのだった。
(この項つづく)
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