医学界新聞

連載

2009.03.09

名郷直樹の研修センター長日記

62R
(最終回)

遺書

名郷直樹  地域医療振興協会 地域医療研修センター長
東京北社会保険病院 臨床研修センター長


前回2817号

□月×●日

 いつか,その日が来ることは,間違いない。ただ,いつかはわからない。1分後かもしれないし,5分後かもしれない。1年後かも,5年後かも,10年後ということもある。20年後ということもないではない。ひょっとすると30年後かもしれない。

 しかし,いつかわからないなんて,あいまいなことを言わない方法もある。その日は,なんとなれば自分で決めることができるからだ。それはとても魅力的なやり方のようにも思える。そんなやり方のどこが魅力的なのかわからない。多くの人にとっては,多分そうだろう。

 唐突だけど,死刑囚のことを考えてみる。死刑囚は,いつ刑が執行されるのか知らされない。それは不安だ。それも刑のひとつか。しかし,死刑がいつ執行されるかわからない死刑囚,というのは,実はわれわれ自身のことではないか。いつその日を迎えるのかわからない。その日がわからないという点では,誰しも死刑囚と同じである。自分の処刑の日くらい,自分で決めさせてくれよ,俺は死刑囚じゃないんだから,そういう理屈である,魅力的というのは。

 そう言えば,70歳の誕生日をその日と決めて,その日までに全財産を使い果たすように,老後の生き方を計画していく,という老人を主人公とした小説があった。結末は,主人公自身がボケてきたのか,現実なのかわからないが,わけがわからない話になって,自らその日に,というのとは違う結末だったと思う。そんな遠い先のことを決めたって,結局のところ死刑囚と同じく,いつ処刑されるかわからなくなってしまうということか。自らを処刑する日は,ボケない元気なうちに設定する必要がある。そう考えると,もうどんどんそっちに考えが向かっていって,いっそのこと,まだボケていない今をその日ということにしてしまおうか,ということにもなりかねない。自分でその日を決めるというのが,さらに魅力的な考えに思えてくる。

 その日を自分で決めたいという背後には,生存者の罪悪感というのもある。本当は私のほうが先に処刑されるべきではなかったか。そんなことは,誰かが死ぬたびに思うことだ。それもまた,その日を自ら決めるという方向へ自分を引っ張っていく。

 そんな魅力的なやり方に対し,多くの人がそうしないのはなぜか。いつ処刑されるかわからない死刑囚のごとく,不安に駆られながら,生き続けるのはなぜか。

 

 ひとつ目の答えは簡単だ。何をしようが,結局死んでしまうということを,どんな人だってわかっているからだ。自分自身は処刑日を知らされない死刑囚であると,どこかで納得するのはそれほど難しいことじゃない。そう納得できてしまえば,その日をあせって決めてしまわないために,これはかなり優れた対処法だ。

 

 二つ目は,多分その逆である。生き続ける,つまり処刑を拒絶し,なんとか逃れようとする。そう思うのは,処刑を先延ばしにすると思われる,いくつかの方法が提示されているからだ。例えば,早期発見,早期治療。あるいは健康増進のための生活習慣の改善。いわゆる医療が果たす役割,そう言ってしまってもいいかもしれない。だからややこしいことが起きる。処刑日不明の死刑囚という立場を受け入れようとする一方で,その日を受け入れず,抵抗して,先延ばししようと努力する。生き続けるために,受け入れながら拒絶する,まったく難儀なことだ。

 しかし,「先延ばしにする」ということはどういうことなのか。人生は一度しか生きることができない。だとすると,先延ばしできたかどうかなんて,実はよくわからない。あるいは,どこかで終わりが来るわけで,その日を迎えたとたんに,もっと先延ばしできたはずだ,そういう後悔の中で,終わりを迎えるが関の山だ。そんなことになるくらいなら,明日は処刑されると,毎日自分に言い聞かせて生きたほうがよほどましかもしれない。

 そうだとすれば,ますます先延ばしなんかするもんじゃない,ということである。しかし,そうは言っても,やっぱり先延ばしを図るのである。なぜか。実際はそうそう処刑されないからだ。となると,処刑のことなんか,全然考えずに生きることが,一番いい。しかし,そうすると今度は死なないつもりになってくる。実際,人は医療事故以外では死なないというような錯覚が,当たり前の世の中である。堂々巡り。これで生き続けるのは相当辛いことのように思える。

 さらに,もうひとつは,死後のことを考えてである。自分では先延ばししたいとは思わないのだが,死んでから,地獄に落ちるのはかなわない,というようなことがある。本当にそんなことがあるかどうかは知らないが,そう思う人もいる。しかし,最も一般的なものは,自分自身の死後に残された者たちへの思いのほうだろう。これもまた,生き続けることを阻もうとする生存者の罪悪感の対極にある。自分自身も,誰かを残して去るものであると同時に,誰かから残されたものである。

 

 あきらめる,あきらめない,その二つの間で揺れながら,先に逝くのは本来自分であるべきではないかと思いつつ,またその逆に,残された者たちを想像し,結局のところ,放っておけば生き続けているので,生きている。

 

 日々患者と向き合って,あるいは研修医と向き合って,何が言いたいか。そういうことが言いたいのである。生きていいのか,悪いのか,それすらわからない。でも,生きたい,ということは共通している。死にたいといっても,それも生きたいということに他ならない。

 これが遺書であると言ったら,みんな驚くだろうか。

 遺書というのはどういうものか。国語辞典によれば,「死後のために書き残す文書や手紙。書き置き。遺言状」とある。ものを書く人はすべて死ぬ。すべての文書は,死後に誰かの目に触れるという可能性がある限り,死後のためにという面がある。つまり多くの文書は,遺書であり,遺言状だ。また,そんなややこしいことを言わなくても,これを書きながら死んでしまったり,書いた直後に死んでいる可能性だって,常に残されている。それは,自分の意思にかかわらずという意味においても,自分の意志で決められるという意味においても。

 

 そして,ここで,終わり。いや,ここが,始まり。

(了)


本連載はフィクションであり,実在する人物,団体,施設とは関係がありません。

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