失業者残酷物語
連載
2009.01.19
〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第143回
失業者残酷物語
李 啓充 医師/作家(在ボストン)失業と同時に無保険となる米国民の悲痛な運命
2008年12月5日,米労働省は,非農業部門の就業者人口が同年10月から11月の間に53万3千人減少,失業率も6.5%から6.7%に増加したと発表した。さらに,現在の不況が始まったとされる2007年12月からの1年間では,失業者数で270万人,失業率で1.7%増加したとし,不況の長期・大型化に伴って雇用情勢が深刻化している実態を浮き彫りとした。
米国民にとって,職を失うことの打撃は,収入が途絶えることだけにとどまらない。勤務先を通じて加入していた医療保険をも失うことになるので,本人あるいは家族がもともと病気であったり,新たに病気になったりした場合,莫大な医療費負担がのしかかってくる運命が待っているのである。
現在,米国における無保険者の数は4570万人(2007年,米国勢調査庁調べ),失業者の急増が無保険者をも急増させることは不可避である。しかも,失職者本人だけでなく,家族も無保険となる可能性が高いことを考えると,今後,失業者の増加を上回る勢いで無保険者が増えると予想しなければならないのである。
米国の場合,失業者が自動的に無保険となる事態を防止するために,勤めていた企業の医療保険を一定期間(通常18か月)維持できるようにする制度が用意されている。この制度は法律の名をとってCOBRA(註1)と呼ばれているが,実際に利用する失業者は少ない。というのも,失業後は,在職中の雇用主負担分も自己負担となるので,支払額が数倍に跳ね上がるからである(註2)。
在職中の医療費までが負債に
解雇を通告された労働者にとって,「無保険になる」事態がどれだけ深刻であるか,以下,実例で説明しよう(註3)。
オハイオ州アッシュランド市のアーチウェイ&マザース・クッキー・カンパニー(以下,アーチウェイ社)が全従業員673人に解雇を通知したのは,2008年10月3日のことだった。その際「医療保険は,破産申請を申し立てる10月6日に失効する」ことも明らかにされた。
3日後に医療保険が使えなくなると知って,医療の必要度が高い従業員の間にパニックが広がったのは言うまでもない。失職者にCOBRAという制度が用意されていることは前述したが,アーチウェイ社の場合,倒産と同時に医療保険そのものが消失するため,「緊急避難」的にCOBRAを利用することも不可能だった。
第二子の出産予定日を間近に控えていたスターラ・ダーリン(27歳)も,パニックに陥った従業員の一人だった。第一子のときの経験で出産にかかる費用がどれだけ高いかは知っていたし,失業後,出産費用を自弁することが不可能なのは明らかだった。「保険が使える間に子供を産みたい」(註4)と病院に駆け込んだダーリンは,助産師に頼み込んで薬で分娩を誘発してもらうと,帝王切開で第二子を出産した。
ダーリンは「間に合った」とほっとしたが,事態はダーリンが考えていたほど甘くはなかった。というのも,アーチウェイ社の医療保険は自己運営(self-insured)の保険資金がとっくに底をついていたために,過去にさかのぼって支払いが滞っていたからだった。ダーリンが「保険が払ってくれる」と信じ込んでいたのとは裏腹に,肝心の保険のほうは,事実上機能しなくなっていたのである。しかも,通常の膣分娩であったなら数千ドルで済んでいただろうに,「保険が使える間に」と,あわてふためいて帝王切開を受けたせいで,はるかに高い2万ドルの借金を抱える羽目になったのだった。
ダーリンの「駆け込み」出産は「自業自得」であったかもしれないが,保険が機能していないとは知らずに医療を受けたがために,さかのぼって医療費を請求された従業員の場合,「本人は何も悪いことはしていない」だけに,事態は悲惨である。例えば,ウェンディ・カーター(41歳)の場合,9月半ばに受けた子宮摘出術の費用,1万5千ドルの支払いを迫られているが,自己負担分の保険料を毎月納め続けてきたというのに保険が使えなかったのだから,まるで「詐欺」にあったようなものである。ただ病気になるだけでも大変なのに,失業した上,高額の借金まで抱える羽目に陥ったのだから,文字どおり「踏んだり蹴ったり」の目に遭っていると言ってよいだろう。
日本では,「医療についても公を減らして民を増やせ」と大声で主張する人がいまだに後を絶たないが,「民」で医療保険を運営している米国では,失業した途端に無保険となるだけでは済まず,在職中に受けた医療のタイミングによっては,失業と同時に莫大な医療費負債を抱えるという,凄惨な状況が現出しているのである。
(つづく)
註1:Consolidated Omnibus Budget Reconciliation Actの略。1986年に制定された。
註2:米労働省によると,家族加入の場合,保険料の本人負担率は,私企業で29%,官・公庁で27%(ともに平均)とされている。資本主義の本家米国でさえも,医療保険の本人負担は日本(通常50%)よりもはるかに小さいことに注意されたい。
註3:事例は,2008年12月6日付Wall Street Journal,および2008年12月7日付New York Timesに拠った。
註4:米国では,出産にも医療保険が適用される。
いま話題の記事
-
医学界新聞プラス
[第1回]心エコーレポートの見方をざっくり教えてください
『循環器病棟の業務が全然わからないので、うし先生に聞いてみた。』より連載 2024.04.26
-
PT(プロトロンビン時間)―APTT(活性化部分トロンボプラスチン時間)(佐守友博)
連載 2011.10.10
-
事例で学ぶくすりの落とし穴
[第7回] 薬物血中濃度モニタリングのタイミング連載 2021.01.25
-
寄稿 2016.03.07
-
連載 2010.09.06
最新の記事
-
医学界新聞プラス
[第2回]自施設に合ったSNSを選ぼう(前編)
SNSで差をつけろ! 医療機関のための「新」広報戦略連載 2024.10.04
-
取材記事 2024.10.04
-
医学界新聞プラス
[第2回]腰部脊柱管狭窄症_治療の概要
『保存から術後まで 脊椎疾患のリハビリテーション[Web動画付]』より連載 2024.09.30
-
取材記事 2024.09.27
-
医学界新聞プラス
[第2回]どのような場面でGen AIや最新ツールを活用できるのか
面倒なタスクは任せてしまえ! Gen AI時代のタイパ・コスパ論文執筆術連載 2024.09.27
開く
医学書院IDの登録設定により、
更新通知をメールで受け取れます。