医学界新聞

連載

2008.12.08

アメリカの医療やアカデミズムの現場を15年ぶりに再訪した筆者が,心のアンテナにひっかかる“ねじれ”や“重なり”から考察をめぐらせていきます。

ロスする

〔第14話〕
人生の軌跡


宮地尚子=文・写真
一橋大学大学院教授・精神科医


前回

 空を見上げる。はあ~,とため息をつく。米国から戻ってきて,東京には空しかない,と思う。都心のビル街は人工物ばかり。唯一の自然といえば,空だけだ。その空も,狭い。いや,狭くても,空だけはあると言えばいいのか。

 米国では,しょっちゅう空を眺めていた。高い建物が少ないせいか,目の前に空が大きく広がっている。雲がダイナミックに動き,太陽の光の筋さえ見通せそうだ。

 雲一つない青空なら,飛行機雲。むこうでは飛行機雲を見ることが多かった気がする。空が開けているからなのか,空路の近くにたまたま住んでいたのか,それとも飛行機の数が単純に多いのか。

 当たり前のことだが,飛行機雲はたいてい真っ直ぐだ。緩やかな弧を描いていることはあっても,ジグザグとか直角ターンはない。曲芸飛行はもちろん別として。

 人生の軌跡はどうなんだろう,と思う。ジグザグに見えても,長い目で見れば案外スムーズな直線なのか,それともぐるぐる渦巻きみたいに,ひとところでさまよい続けるのか,はたまた,子どもの書きなぐる落書きのように,でたらめの,でも実は深い論理を持つかもしれない描線なのか。

Y字路と十字路

 人生には,大きな決断を迫られる「岐路」というものがある。右の道か左の道か,どちらを選ぶかで,その後の人生の明暗が分かれそうな十字路だ。人のアドバイスに従うのか,コインを投げて決めるのか,自分の勘を信じるのか。いずれにしてもうまくいかなければ,後々悔やむことになる。想定外の障害物が現れて,まっすぐ進むことを断念せざるをえないときもある。それでも人生は続く。しばらくそこに立ちつくし,やがて気を取り直して,別の方向へ道を歩き始める。人間,そういうときのことはよく覚えているものなので,そうした十字路を節目節目として,人生が決まっていくように思いがちである。

 けれども,本当にそうなのだろうか。人生とは案外,毎日のささいな選択,それ自体はどちらを選んでも大差がないような選択の積み重ねによって,軌道が延び,方向性が決まっていくものなのではないだろうか。つまり人生とは,十字路ではなく,Y字路の連続によって形作られていくものではないのか。

 そんなことを初めて思ったのは,数年前に横尾忠則の展覧会を見に行った時のことだ。彼は自分のイニシャルYにあやかってか,たくさんのY字路の絵を描いている。Yの交わるところの建物とその両側に通る道。それだけのモチーフの絵が,いくつも並ぶ。道の先は見えない。

 絵を見ていて,ああ,迷いそうだと思う。

 私は神戸とか京都といった,主要な道が碁盤の目に並ぶ街にばかり長く住んでいたので,Y字路や,微妙に曲がった道の多い街に行くと,すぐに迷ってしまう。海外を旅していても,歴史的な旧市街というのは,たいていそんな街だ。地図を見て,最短の経路を歩いているつもりなのに,なぜか目的地と大きくはずれ,まったく反対側に行ってしまったり,同じ場所に何度も戻ってしまうこともある。コンパスを(今なら携帯ナビですね)常時持ち歩いていたらいいのだけれど,そんな用心深い性格では,もちろんない。

分かれ道か,また交わるのか

 Y字路がおもしろいのは,どちらを選んでも変わりがないはずなのに,長く歩き続けるうちに,確実に違う方向に向かって離れていってしまうところである。ふと気がつくと,目的予定地と現在の到着地点との隔たりに驚いてしまう。最初にほんの少し軌道修正すればよかったのだが,...

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