医学界新聞

連載

2008.03.17



アメリカの医療やアカデミズムの現場を15年ぶりに再訪した筆者が,心のアンテナにひっかかる“ねじれ”や“重なり”から考察をめぐらせていきます。

ロスする

〔第5話〕
宿命論と因果論


宮地尚子=文・写真
一橋大学大学院教授・精神科医
ケンブリッジ・ヘルス・アライアンス客員研究員


前回

 今,ペルーにいる。南半球なので真夏だが,気温がさほど上がらず気持ちいい。強がってみても寒いのはやはり苦手なので,厳冬のニューイングランドから抜け出せたのはうれしい。空港から外に出て湿気を帯びた風に包まれる。縮こまっていた筋肉がゆるみ,身体全体に血液が伸びやかにいきわたる瞬間の感覚は最高だ。

 分厚いコートを脱ぎ,重ね着していたセーターやシャツも脱ぎ,半袖のTシャツになって,迎えの車に乗り込む。運転手はタニグチさん。年は30代前半だろうか。名前は日系だがスペイン語しか話さず,顔もメスティーソの顔立ちである。でもいつも静かに微笑んでいて,どこか仏様のようなおもむきがある。空港の迎えの人の波の中から彼の顔を見つけると,ほっとする。

 宿は前にも泊まったホテル・セニョリアール。中庭を囲んだ小さめのヨーロッパ風のホテルで,3つ星だから贅沢ではないが,とても落ち着く。最初はアメリカ系列の大きなホテルに泊まっていたが,近くのディスコがうるさかったこともあり,別のホテルを探してもらったら行き当たった。中庭には芝生の周りに火炎樹などが植わっていて,いつも鳥の鳴く声が響いている。庭の右片隅の木の根元には壷がおかれてあって,なんだか沖縄のウタキのような雰囲気まである。

ペルーにおける暴力被害者ケア

 ペルーにはJICA(国際協力機構)のプロジェクトの専門家アドバイザーとして派遣された。2週間弱の滞在である。今回が3回目の派遣で,最初の2回は2年半前だった。その時は日本からの出張だったので,季節が逆になるだけでなく,朝夕も逆になり,時差ぼけに苦しめられた。けれども今回はニューヨークからなのでそれもなく,比較しようがないほど身体が楽である。鉛のような眠気と身体のだるさに襲われながらの午後の会議ほど,人生から排除したいものはない。

 プロジェクトは,「ペルー国人権侵害および暴力被害住民への包括的ヘルスケア強化プロジェクト」という3年間のもので,細かいことは省くが,暴力によってトラウマを受けた被害者へのケアをできる保健専門家の人材養成がメインの内容だった。国際協力において,精神保健の分野はまだまだ新しい。災害時の緊急支援の中での心のケアには注目が集まりつつあるし,実施もされ始めているようだが,このプロジェクトはもっと長期的な効果をねらったものだった。今回はそのプロジェクトのしめくくりの時期に当たり,国際セミナーの開催や最終報告書の作成準備などが行われた。

 前回の派遣の時はまだプロジェクトが始まったばかりで,状況がとても混乱していた。保健省や地方自治体,大学や研究所など,いろんな機関が関与していて,それぞれの政治的思惑も絡んでいるようで,プロジェクトが滞りなく進むのか,本当に効果をもたらすようなプロジェクトになるのか,とても心配な状態だった。

 私も専門家としていくつかの提言をしたのだが,その中には原案を大きく変更するような内容も含まれていて,その後どうなったか,とても気になっていた。もちろん節目節目ごとに報告は受けているが,現地に行ってみないと実際のところはわからない。

 国際セミナーで見覚えのある関係者にたくさん会い,成果を聞かせてもらっているうちに,私はとても嬉しくなった。着実に計画が実行されていただけでなく,そこから関係者や参加者がたくさんのことを学び,自分たちの工夫やひらめきを加えて,さらに新たな活動を計画するところまで至っていたからだ。暴力被害者ケアを大学カリキュラムに取り入れる責任者だった医学部...

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