医学界新聞


「病室と金魚」

連載

2007.12.10

 

生身の患者仮面の医療者
- 現代医療の統合不全症状について -

[ 第9回 涙と金魚(1) 「病室と金魚」 ]

名越康文(精神科医)


前回よりつづく

 精神科で研修を受ける前に,半年間大阪府内の公立病院で一般科の研修を受けました。救急対応を含め,精神科で必要な内科・外科のスキルを身につけましょう,という趣旨ですね。そこでの話は失敗だらけでちょっと恥ずかしいんですが,僕にとっては大きな事件だったので,なるべく細かくお話ししようと思います。

 その半年間の研修の内訳は消化器内科で4か月,脳外科で2か月,さらにその間,週に1回の救急当直がありました。消化器内科は気分的にしんどかったんだけど,脳外科はすごく水が合って,愉しい職場でした。朝7時から早くて22時,遅ければ深夜の1-2時くらいまで働いていましたが,あまり辛いとは思わなかった。いい先輩に恵まれていたんですね。

 その脳外科研修で,だいたい1か月がたとうかという時期に,20歳過ぎくらいの女性が入院してきました。色白で,きれいな人。小さな会社の事務員をされてる方だったんですが,頭痛と,軽い片麻痺みたいな症状での入院で,指導医の先生から「年齢も近いし,名越先生,担当してみますか」といわれ,担当することになった患者さんです。

 診断の結果,その方はかなり悪い状態だとわかりました。CTを撮ると脳幹部に悪性のアストロサイトーマと思われる腫瘍がありました。研修医の僕が写真を見ただけでも「ああ,これは全部は取れない」とわかってしまうくらい,深い部位にあった。脳外の先生同士でいろいろ議論になった結果,最終的には「手術をすれば何か月かは延命できるから,早めに手術しよう」という方向になりました。

 担当となった僕は毎日毎日,検査や点滴で彼女のベッドを訪れていたんですが,彼女はすごく,我慢強いというか,人間的に強い人でした。僕はほんとにどんくさくてね。点滴入れるときなんかでも,失敗ばっかりで,よく看護主任さんに助けを求めてました。でも,何回やり直しても彼女は文句ひとついわない。表情も変えない。明らかに,僕に対して気をつかってくれているんだなあということがわかった。患者さんに勇気づけられているような感じがあって,恥ずかしいと同時にだんだんと敬意がわいてきたんですよ。「この子はいったいどういう人生を歩んできたんだろう」って。

 ベッドサイドに行くたびに,気を紛らわせてあげようといろんな話をするんだけど,1週間もたつと当然話題は尽きてきますよね。しかも,CTを見て僕自身が「助からないかも……」と思ってしまってからは,余計に話ができなくなっていきました。

 「どうしたもんか」と気分が重くなっていた,ちょうど入院1週間から2週間くらいの時期だと思うんですが,点滴用のフックに金魚のぬいぐるみがかかっていることに気がつきました。小さな,縁日やなんかで見るやつですね。妹さんがよく見えていたので,彼女がお見舞いに置いていったものでしょう。また2,3日すると,同じようなもので,熱帯魚みたいなやつがかかっていました。結局数日のうちに,金魚やら熱帯魚やらフグやらで,彼女のベッドの上の点滴フックが埋まってしまった。

 話題がなくなって困っていた僕は,その金魚に話しかけるようになりました。「今日は,いい天気やったねぇ」とか,ちょっとした冗談を金魚に言う。そうすると彼女も少し笑ってくれる。そういう病状ですから,明るい話題もしにくかったんですが,金魚を介することで,口にしやすくなりました。

 入院3週目くらいに,いよいよオペとなりました。開頭のために頭を剃るわけですが,そのために患者さんと,僕と,スーパーバイザーの先生の3人でシャワー室に行った。まずバリカンで髪を刈ったあと,カミソリで剃るときになって,指導医の先生が,「わかるな」って言うわけです。「あとは君がやってあげて」。そう言い残して,彼はシャワールームから出ていきました。

 指導医の先生は,僕が自分なりにがんばって,その子のお世話をしてきたということを,見ててくれたんでしょうね。大手術でしたし,そこで亡くなるかもしれない。助かっても,そう長くはないかもしれない。そういうことを考えて,最後,ふたりっきりにさせてくれたんだと思います。

 剃り終わって「終わりましたよ」と声をかけると,彼女は動かない。どうしたかな? と思って彼女の横顔をのぞくと,それまで一度も痛いともいわず,顔もゆがめたこともなかった彼女が,目からひと筋,涙を流していた。それはもう,一生忘れられないです。

 6時間以上かかった手術は,成功でした。脳外科部長が執刀医でしたが,先生もすごく緊張していたのがこちらからわかるくらい,緊迫した手術でしたね。ただ,手術は成功したんだけど,麻痺が少し残りました。もともとあった片麻痺が少し進行することによって,少しの延命を得た,という感じだったかと思います。

 術後,彼女を待っていたのはリハビリです。毎朝,彼女を車椅子に座らせてリハビリ室まで連れて行くのは僕の役でした。麻痺がある手,足を動かすんですが,痛かったし,不安だったと思いますよ。でも,そのときも一度も嫌がらない,泣かない,不満な顔すらしない。奇跡かと思えるくらい,忍耐強い人でした。

この項つづく

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