医学界新聞

連載

2007.11.19

 

アメリカの医療やアカデミズムの現場を15年ぶりに再訪した筆者が,心のアンテナにひっかかる“ねじれ”や“重なり”から考察をめぐらせていきます。

ロスする

〔第1話〕
開くこと,閉じること


宮地尚子=文・写真
一橋大学大学院教授・精神科医
ケンブリッジ・ヘルス・アライアンス客員研究員


繭にこもる

 人にしろ物にしろ,変化が起きる時,閉じながら変わっていく場合と,開きながら変わっていく場合がある。

 細胞が減数分裂を起こす時,いったん細胞膜は閉じて,内外の物質交換を停止するのだと,ずっと昔教わった記憶がある。変わる時というのは,変化にほとんどのエネルギーや注意を費やさなければいけない。そのため,外からの攻撃に対しては無防備になる。外敵が来ればたちどころにやられてしまう,脆弱(ヴァルネラブル)な状態である。だから,変わる時には閉じなければいけないのだ。さなぎが蝶になる時,繭にこもらなければならないように。そんな主旨だったように思う。

 あれは私が研修医の頃,もう20年も前のことだから,もともとの話は全然違っていたかもしれない。医学概論の往年の巨匠,故・中川米造氏から教わった気もするが,私の理解が科学的に正しいかどうかわからないので(というか間違っている気がする……),ここで名前を出すのは失礼かもしれない。ただ大事なことは,その話が私にとってかなり重要なインパクトをもたらし続けたということである。

 誰とも会う気がせず引きこもり傾向にある時,ただぼうっとして何も建設的なことができない時,ただ時間を無駄にしているような気がする時,そのメッセージを思い出すと落ち着く。

 自分が誰にも連絡を取らず,誰からも連絡がないまま休日が過ぎると,世界にひとり取り残された気がして,自分なんて存在しなくてもいいんじゃないかと思ったりするものだが,そういう時も「ああ,これは明日の出会いの前の静けさなんだ」と思える。

 外からのインプットを排除して繭の中にこもる。そんな時にこそ中で何かが醸成していたり,励起状態になっていって,まもなく鮮烈な化学反応が起き,新しいものが生まれてくるかもしれない。

 もちろん何も新しいものが生まれなくても,何も変わらなくても,ぼうっとする時間を楽しめたらいいのだが,近代的教育や近代医学の洗礼を受けてきた人間にとって,そこまでの境地に至るのはなかなか難しい。特に20代,30代というのは,若さの有限性をひりひりと肌に感じつつ,前のめりになって歩きがちだから,その境地に至ろうとする努力自体がストレスになりかねない。とりあえず今,ぼうっとし続けるための言い訳が見つかればよかったのかもしれない。

医療人類学との出会い

 開きながら変わっていくというのは,それに比べてわかりやすい。誰かと出会う,どこかに出かける,新しい学校や職場に入っていく,異国に住む,これまでしたことのない体験にチャレンジしてみる。そんなとき,人は開かれている。異質なものが自分の中に入り込み,同時に自分の中から何かが出ていき,つながりが生まれ,心身を構成する要素が入れ替わり,編成を変えていく。

 私は1986年に医学部を卒業し,精神科医になったのだが,1989年の秋から3年間,アメリカに留学していた。「医療人類学」という学問を学びたくて,でも日本ではあまり発達していない分野なので,ハーバー...

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