医学界新聞

連載

2007.12.24

 

アメリカの医療やアカデミズムの現場を15年ぶりに再訪した筆者が,心のアンテナにひっかかる“ねじれ”や“重なり”から考察をめぐらせていきます。

ロスする

〔第2話〕
競争と幸せ


宮地尚子=文・写真
一橋大学大学院教授・精神科医
ケンブリッジ・ヘルス・アライアンス客員研究員


前回

 ハーバード大学医学部やブリガムなど関連病院の集まっているあたりを,ロングウッド・メディカル・エリアという。その付近を歩くたびに,「うーん。ここは世界から優れた頭脳が集まり,競い合っている場所なんだなあ」と思う。すれ違う人がみんな超天才にみえる。白亜の大理石の建物が囲む医学部の大きな中庭の正面に立つと,自分が1ミリくらいのとても小さな存在になったような気がする。以前お世話になったことのある教授に会いに行こうと思っても,勇気をふりしぼらないと,建物の中に入っていけないような,そんな威圧感がある。実際にはセキュリティが厳しいので,必要なのは勇気ではなく,写真付きの身分証明書だけなのだが。

 駆り立てられる雰囲気。「のほほんとしていたら,生き残れませんよ」と言われているようで,焦燥感に突き動かされる感じに,自分までなってくる。

社会に活かされない研究成果

 たしかに,それぞれの建物の中では熾烈な競争が行われている。現在教授になっているのは,競争に勝ち残ったごく少数の人たちだ。噂によれば,競争のために,隣の研究室の培養物を盗んだり,同僚の研究データを壊すなどの出来事はしょっちゅうらしく,なかにはポスドクなどのポジションを得るために,教授などボスに向かって身体をはる人もいるという。けれどもボスになったらなったで,研究助成金の獲得に走りまわり,論文を一つでも多く書くなどの努力が際限なく続く。常に業績が評価され,それがテニュア(終身雇用権)の確保やサラリーに響くのだから無理もない。

 熾烈な競争。そこで勝ち残る。アメリカンドリーム。チャンスは平等。まあ,そうやって駆り立てられ,がんばる人がいるおかげで,医学が発展し,これまで治らなかった病気が治るようになるのだから,それはそれでいいことなのだろう。恩恵を受けていることに感謝すべきなのかもしれない。

 でも,世界のトップの頭脳がこれだけ集まっても,することって競争しかないのかなあ,と少しすねて考えてみたりもする。

 アメリカにいると,やはり研究の層が厚いなあ,とつくづく思う。研究者の数も日本とは桁違いだし,学ぶべき学術知識もまだまだ多い。ただ,これだけ素晴らしい研究成果が山積みされているのに,それが社会にほとんど活かされていないという印象もある。

 たとえば肥満。アメリカに来るたびに人々が太り続けていることに気づく。なまじ顔は細長い人が多いので,視線を少し下げないとわからないのだが。健康にいいからとグリーンティーが流行っているが,それには砂糖が加えられている。ノンファットのミルクを選びながら,食べ物はヘビーだし量も多い。サラダもドレッシングを食べているようなところがある。子どもの学校のカフェテリアに売っているランチも栄養バランスがひどく悪い。

 医療もそうだ。豊富な医学研究資金が魅力だという在米歴の長いある日本人は,「アメリカ政府は医療に威信をかけていますからね」という。でも医学的知識は高水準だとしても,それを国民に配分するシステムはできていない。健康保険のために,イヤでたまらない職場を辞めずにいるという人に何人か会った。職を失い,病気になったら,もう終わりである。

走るラビット,へとへとの凡人

 こんなに賢い人がたくさん集まっているのに,どうして,世の中はよくならないんだろう。もっと幸せな社会にならないんだろう。そもそも,ここにいる人たちだって,あんまり幸せそうにみえないぞ。まあ,別に幸せになりたくないなら,それでもいいんだけど。でもほんとは幸せになりたいのにそうじゃないとしたら,いったい頭脳の高さは何の役に立つんだろう。そんなことをつらつら考えてみる。

 知性と幸せは結びつかない,ってことか。それとも,人々の幸せになりたいという気持ちを実現させるような仕組みに社会がなっていないということか。それとも人間の多くは,実は心の底から幸せになりたいとは思っていないということか。

 退屈に耐えられないという人はいるだろう。他のやつとは違うんだということを見せつけたい差異化の欲望もあるだろう。勝つことの快感。自分だけが選ばれたり,高く評価されることの喜び。負けることに対する屈辱感や恥の意識。競争となるととつぜん燃えだすタイプの人もいる。本当はいやだけど,将来自分がしたいことをするためには,まず競争に勝つしかないと割り切る人もいるだろう。でも結局,競争が延々と続くとしたらどうなのだろう。

 ほんとに実力がある人は,競争に勝とうと思ってやってるんじゃなくて,やりたいことを自分のスピードに合わせてやっていたら,いつのまにか勝っているのかもしれない。そしてその人たちが期せずしてマラソンのラビットの役割を果たしてしまう。バイタリティにあふれ,最後まで脱落しないラビット。中には刺激を受けて,実力以上の記録をあげる選手も出てくるだろう。でも凡人はへとへとになり,無理をして身体をこわすか,挫折感に一生さいなまれることになりそうだ。

「研究の原動力は飢餓感」

 たしかにボストンにいると,「上には上がいるもんだ」と思ってしまうような高エネルギーの人に会うことは時々ある。先日気まぐれに行ってみた会では,MITで活躍しているある日本人教授が,クリエイティブで画像も豊富な,「才気煥発」という言葉がぴったりの発表をしていた。でも質疑応答では「研究は厳しくて苦しくてたまらない」とか,質問をした若者に「考えが甘い」とか,「研究の原動力は飢餓感だ」とか,根性論っぽい話をし始めるので,なんだかそのギャップに驚かされてもしまった。ただ「あまりに苦しくて,それが喜びになるときが研究にはある」と語る表情は生き生きしていたし,「我々がみんな死んだあとの西暦2200年に生きる人間に役立つような研究を心がけている」という言葉には素直に感動してしまった。

 感化されやすい私は,「そうか,そこまで未来志向になればいいのね,今の社会の不幸なんかに拘泥せず,ずっと先の世代に希望をつなげばいいのだわ」と,自分のスケールの小ささと悲観主義を反省したのだった。

 おそらく彼にとっての「飢餓感」とは,競争によって駆り立てられるものではなくて,自分の中にある好奇心とか創造性といった駆動力がむりやりせき止められたときに感じる種類のものなのだろう。

 ニンジンを目の前にぶら下げられたウマのようには生きていたくないよなと思うけれども,走りたいという本能をもった自分の脳というウマをうまく乗りこなし,疾走していくのは爽快な気分に違いないし,見ていても気持ちいい。ただ,周りをあんまり巻き込まないでほしいよね,と思ったりもするが。

次回へつづく


宮地尚子
1986年京都府立医大卒。専門は文化精神医学。著書に『トラウマの医療人類学』(みすず書房,2005年)など。

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