医学界新聞

対談・座談会

2007.10.22

 

【対談】

ヘンダーソンからの贈り物
いつ,どこであっても蘇る看護の魅力

川島 みどり氏(日本赤十字看護大学学部長/看護学教授)
小玉 香津子氏(聖母大学看護学部長/看護学教授)


 ヴァージニア・ヘンダーソン(1897-1996年)――『看護の基本となるもの』やICNの看護の定義とともに,ナースであればその名を知らない人はいないはず。しかし,保健医療を取り巻く環境が激しく変貌する今日では「さすがに古くなった……」と考えている方も少なくないのではないでしょうか。ヘンダーソンの言葉には,仕事に追われ忘れてしまいがちな“看護の魅力”が現在も変わらず溢れています。

 今回,『ヴァージニア・ヘンダーソン選集』の刊行を機に,ヘンダーソンをいち早く日本の看護界に紹介してこられた小玉香津子氏と,ナースの資質の向上と看護学の発展に臨床・教育両面から力を尽くしてこられた川島みどり氏をお迎えし,ヘンダーソンの「看護」について話し合っていただきました。


看護独自の機能を発揮し,活躍する場をつくっていく

川島 私がはじめてヘンダーソンに触れたのは,外来のいちナースの時でした。とにかく習ったことが実践できないジレンマが積み重なり落ち込んでいる時に,『看護の基本となるもの』(日本看護協会出版会)が出版され,その中に実践のまさに珠玉の言葉が溢れていて,「すごい!」と思ったことを覚えています。

小玉 『看護の基本となるもの』のいちばんの見所は“ばらばらの看護行為を体系づけたこと”だったのではないでしょうか。それまでは,ナースを含めほとんどの医療者が看護に独自の機能があることを認識していなかったと思います。1961年の秋,翻訳した『看護の基本となるもの』を周りの医師に見ていただいた際,「看護って,こういう考え方をするのか」「やっぱり“看護”というものがあるんだな」という反応がありました。

川島 昔,看護は「誰にでもできることで,わざわざ有資格者がしなくてもいいレベル」としか理解されなかった。一つひとつの行為に意味があると認識される契機が,1948年(昭和23年)に制定された保健婦助産婦看護婦法(現在,保健師助産師看護師法)でしたが,その中の二大看護業務のうちの療養上の世話が,看護独自の機能であると気づいたのは,かなり後,60年代半ばに入って,ヘンダーソンの“看護の基本となるもの”が紹介されてからのことでした。

小玉 基本的欲求に基づく生活行動援助,つまりその人が自分の健康にプラスになるように生活行動をするのを助ける,という看護の独自の機能には,診療の補助行為も取り込むことができます。ただ,診療の補助行為を生活行動援助と区別するほうが扱いやすいというか教えやすいというか,とにかくわかりやすいのかもしれません。例えば,「輸液の調整・管理」は“適切に飲食する”という生活行動の,「包帯する」は“環境の危険因子を避ける”や“肢位を定める・移動する”という生活行動の,それぞれ援助です。ヘンダーソンは“医師の補助”とは言っていません。医師の診断・治療がもっとも効果をあげるようにナースは患者の生活行動を助けるのです。

川島 ヘンダーソンの看護の視点・考え方はすばらしいと今も思っています。ですが,日本の看護界で広まっていく中で,本来の視点・考え方と違った形で伝わった部分があります。例えば教育現場では,基本的ニードを個々に考えさせた時期がありましたよね。本当なら排泄の援助から身体の清潔,さらにコミュニケーションへというように有機的に,全体を統合する方向でヘンダーソンは述べているのですが,このような理解に辿り着くまでに,少し遠回りしてしまったと思います。

小玉 その回り道する中で,ロイやオレムなどいわゆる看護理論がでてきました。それらのほうが看護は人間をどう見るかが明解で,アセスメントツールとしての形も整っていましたから,ナースの関心がそちらへ流れてしまった。新しい理論,つまり看護の概念枠組みが出されるたびに看護を見る見方を変えてしまう方もいましたね。

川島 そして「ヘンダーソンは古いのよ。あの人は理論家じゃなくて実践家よ」と,オレムやロイといった理論家を実践家より一段高く見なして言われたことがあります。しかし,「看護を高く評価し,その価値を証拠をもって証明しなければならないのは,看護実践家たちである」とのヘンダーソンの一言が表すように,すごく大きな課題を実践家は与えられていると思うのです。今後,ナースが行う生活行動の援助によって治療効果がより増すことを,一般の人たちが認識するようになれば,より高いレベルの看護を求める社会的ニーズが高まっていくと思います。その時,実践家は今まで以上に力を発揮する場ができるのでしょう。

小玉 ナースの行っていることが看護なのだと思いがちなナースたちに,ヘンダーソンは「独自の機能を発揮してはじめて,看護は世の中をよい方向へ変えていく力になる」と言っています。ナイチンゲールの晩年のDeeds,not words,不言実行というと単純になってしまいますが,「知っているだけではだめ,行ってこそ」に通ずると思います。

川島 いまのように,生活行動の援助がだんだん希薄になり,されなくなったら,看護が進むべき方向とは反対の方向に引っ張られてしまいます。これからはいままで以上に,社会の人たちに看護に対するニーズを,ナース自身がつくっていかなければいけないのでしょう。ですが,一般の方たちの意識との隔たりは大きいです。

小玉 多くの場合人々は,いま直面している切羽つまった状況の原因を取り除くこと,痛みの原因を取り除くことを求めますから,看護あってこその医療の効果はなかなかわかりにくいでしょうね。

川島 そうなのです。でも,看護を展開する場をつくるのはナースでなければいけない,とヘンダーソンは書いています。私は,いま倫理の講義も担当しているのですが,看護倫理というのは,日頃自分たちがあたり前と思ってやっていることを振り返ってみて,それが,患者さんや,患者さんの家族をどれだけ苦しめているかという視点に立って検討して見直すこと。それが,倫理の基本だというふうに言っています。ヘンダーソンの書いてあるものをいろいろ読んでいくと,最後にはそこに行きつくのだと感じています。本来されていなければいけないことが,満たされていないことがあまりにも多いでしょう。皆,我慢している。

小玉 私も倫理に関しては,ナースの倫理観の程度の測定だとか,そういうことばかりが膨らんでくるのが,実に妙だと思っています(笑)。ですから一歩引いて見ていますし,川島先生のおっしゃるとおりだと思います。

科学技術に流されないために看護本来の姿を胸に抱く

川島 今回キーワードとして取り出したいものは,「ハイテクノロジー時代にあって看護とは」です。現代は,ナースはやりたいと思っている看護ができない,とジレンマに感じてしまうほど,科学技術の波に流されているのではないか。「このままだと,看護はなくなってしまう」という危機感を,私は持っています。

小玉 病棟には端末が溢れ,看護診断分類や標準看護計画が使われているため,患者さんに向き合って,いまこの方に必要なことは何か……と考えなくてもよいのが現状だと思います。一人ひとりの,特に入院患者さんの幸福度が上がるには,やはり「この方には,いま,どういう手を差し伸べる必要があるだろうか」と考えるナースがいることが,いちばん効果的なのですが……。

 診断や効率などで頭をいっぱいにする前に,ナース本来の働きは何かということを,一度立ち止まって考える時だと思います。学生時代には「看護学概論」などで「看護とは何か」という古くて新しい問いを考えますが,実際にナースとして現場で働き出すと考える時間を持てない。それでも,ナースとして一生懸命成長しようとしている人たちは,ふと,「卒業した頃の私に戻れるだろうか」と思うようです。卒業生からその言葉どおりのことが書かれたハガキをもらい,「ええ,戻れますとも。あなたがそう思っている限り」と返事を書きながらべそをかきました。教えてきたこと,一緒に考えてきたこと,実習で大事にしてきたことと現場との大きなズレを知って,です。

川島 入院を体験されたナースの方たちとお話をした時,「とにかく看護が変わった,自分たちが期待していたケアを受けられなかった」と皆が口にしました。何が変わったのかといいますと,ナースが体に手を触れなくなったということです。膝が痛いと訴えていても,膝を触ってくれたナースは一人もいなかったと……。なぜそうなってしまったのでしょうかと。

 原因の一つにコンピュータがあると考えています。なぜなら,看護業務をするためにはコンピュータがOKしなければできないようになってしまったからです。そのためにナースは皆,ナースステーションでコンピュータの操作に集中してしまい,患者さんが廊下を通っても,ドアのところへ行っても,誰も患者さんを見ない。それがあたり前の状況では,新人のナースたちがまず先にコンピュータの操作を覚えることに集中するという悪循環ができあがっています。

小玉 自分がベッドサイドで掴んだことよりも,コンピュータが出した答えのほうを信じるようになってしまっている。でもそうじゃないんだ,ということを,ヘンダーソンの看護に戻って捉えていただき,本来の看護を...

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