医学界新聞

連載

2007.10.08

 

生身の患者仮面の医療者
- 現代医療の統合不全症状について -

[ 第7回 厳粛なる場面(2) ]

名越康文(精神科医)


前回よりつづく

演劇性の喪失

 前回,告知や治療選択などの「厳粛なる場面」においては医療の儀礼性が大きな機能を果たすこと,そしてインフォームド・コンセントの徹底などに伴って,そうした儀礼性が失われてきたことについて述べました。

 おそらく医療人類学などがすでに指摘していることだと思いますが,かつてのわが国の医療は,いわゆる「赤ひげ」的な医療文化幻想に従って,医者が医者を演じ,患者が患者を演じることによって営まれてきました。しかし,パターナリズム批判や医療の透明性を求める声の中で,そうした形は失われてきた。儀礼性の喪失というのはつまり,医療から「演劇性」が失われたことと言い換えてもいいでしょう。

 「演じる」というのはどうも,「嘘をつく」ような,悪いイメージが持たれていますが,本来,すごくエネルギーを使う,能動的なパフォーマンスです。恋愛でも,互いに演じあう,そのエネルギーこそが恋愛を駆動します。ほんとうは怠けたいのに,あえてカッコいい男を演じる。その「あえてやる」パワーこそが,対象への愛情なんです。

 医療も同じで,なんらかのパフォーマンスをするということが,互いの関係性構築において大きな力を発揮してきた。そのことに目を向ける必要がある。もちろん,そういう医療文化の中で,患者さんに不利益が生じてきた歴史も確かにあるんだとは思いますが,それを解体した後,それに変わるパフォーマンスが登場してこなかったということは指摘しておきたい。今の医療現場では,医者と患者が仮面を外して,生身で向き合っているんです。

生身で向き合うことの恐怖心

 仮面を失い,生身で向き合うことになった医者と患者の間に何が生じるか。これは恐怖と不信感です。次の瞬間に,相手がどういう言動に出るかが予測できないということは,ものすごく不安です。お医者さんたるものは何を言うか,患者たるものがどう振る舞うか,そのパフォーマンスの振れ幅が予測できない状況というのは,「本音で語り合う」なんてかわいいもんじゃなくて,端的に恐怖の関係性なんです。

 恐怖に駆られた人間が行うのは自己防衛です。自己防衛というのはつまるところ,相手への攻撃ですね。攻撃といっても「訴訟だ」「クレームだ」といったストレートなものとは限らなくて,むしろ,相手を割り切って見るとか,先手を打つといった形を取る場合が多い。「こちらの責任は全部果たしました」と振る舞うことによって,無言のうちに「だから,このあと何が起きても全部あなたの責任で,私は無関係ですよ」というメッセージを送ろうとする。こういう「防衛的な攻撃」というのは,僕の経験上,もっとも苛烈なものとなります。

 こういう問題は,親子関係でも,教育でも起こっています。結局,演劇性を失った関係性のなかで生まれるのは対立と,非常に質の悪いパフォーマンスしかありません。おそらく,インフォームド・コンセントを推し進めた人たちは,医療から演劇性,つまりは「形式」を取り払っても,「実質」があればいいじゃないか,と考えたんでしょう。医療という実質があって,それを得られるなら形式なんてどうでもいいじゃないか。患者(消費者)が不利益を被るような形式なら,なくしてしまったほうがいい,と。しかし,その「実質」というものの大部分が,実は「形式」のなかにあったのだということが今,明らかになりつつあるんじゃないでしょうか。

 形式や文化というのはある種の制約です。制約は不自由で,害もあるのだけど...

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