医学界新聞

連載

2007.09.10

 

生身の患者仮面の医療者
- 現代医療の統合不全症状について -

[ 第6回 厳粛なる場面(1) ]

名越康文(精神科医)


前回よりつづく

 医師をめざす皆さんの中には,今の医療に対して言語化しづらい閉塞感を感じている人は少なくないと思います。第2,3回で僕は,近代医療が死というものをどこか棚上げして営まれてきたことに対する個人的な違和感について述べました。ここではもう少し,具体的な問題に踏み込んでみたいと思います。

脳死と移植医療の関係を誰も口にしない

 昨年から今年にかけて,病気腎の移植の問題が話題になりましたが,そこで交わされた議論の「歯切れの悪さ」に驚いた方も多かったんじゃないでしょうか。移植医療,特に脳死臓器移植については近年さまざまなレベルで議論が交わされてきましたが,僕はすっきりと納得する議論を目にすることができていません。

 専門外の僕から見ると,どう見たって脳死判定議論は臓器移植医療ありき,と見える。つまり,質の高い移植医療を行うためには,より新鮮なドナーが必要であるという要請があり,それに合わせて脳死うんぬんが議論されるようになったとしか思えない。「脳死は人の死か否か」という問いが発せられた動機が移植医療であることは,いつの間にか暗黙の前提のようになっていて,それが表立って議論されることはない。

 これはすごく21世紀的な現象だと思います。その問題に対して,誰もが触れたくない,責任を取りたくない,という感覚がある。例えば僕の知人にも,将来的に移植医療の適応になりそうな持病を抱えている人がいます。彼は個人的な思想としては移植医療や脳死判定に疑義を持っているのだけど,いざ自分がその適応になったら,という思いがあるから見解を述べることがためらわれる。

 究極的には皆,彼と同じように,どこかで当事者性を感じているから,本質的なところについては,カマトトであろうとする。その結果,背景の考え方をはっきりと明示しないまま,脳死判定の基準や手順,ルールだけが決められてきたというのがことの経緯じゃないかと思います。

 このことを別に問題だと思わない人もいるでしょう。しかし,「思想はどうあれ,移植医療の待機患者は待ったなしの状況なのだし,本人の意思を十分に確認したうえでの臓器のやりとりがルール化されたのは歓迎すべきこと。嫌な人は移植を受けなければいいだけの話だ」という人は,「それを選ぶ自分」が変化しうる存在だということを忘れているんじゃないかと思います。

 僕は,個人的に移植はできるだけ受けたくないと思っていますが,実際にそういう選択を突きつけられたときに,どういう判断をするかはまったくわからないと思っています。

 生死がかかった選択を突きつけられたとき,僕が今「自分」だと思っている自分とはまったく違う人間になるだろう,という予感がある。極限状況に陥ったときの自分が,何を,どういう基準で選ぶ人間に変わってしまうのか。今の自分には想像もつきません。

 であれば,せめてそういう生死のかかった選択については,覚悟して受け入れられるだけの「物語」を与えてほしいと僕は思うのです。

 極端にいえば,「脳死臓器移植というのは,死にいく人の“命”を奪い,これから生きる人に与える医療なのだ」といったドライなものでもいい。とにかく,ルールとかシステム以前の,その土台となる思想,あるいは文化的決め事がないと,そのあたりの重荷を全部当事者に背負わせることになってしまう。それは本当に,きついですよね。

「厳粛なる場面」での選択

 私は臓器移植を受ける患者さんはもちろん,移植医療を推進する方を批判しようという気もありません。私が臓器移植の問題を引き合いに出して述べたかったのは,生死のかかった場面での選択,決断とはどのようなもので,医療者はそれをどうサポートできるのか,という問題についてなのです。

 移植を受けるか否かの決断を迫られる,あるいは重い病名を告げられる,治療を選ばなければならない……こうした場面を迎えることで,人間は大きく変化します。

 その変化がどの方向に行くかは,本人にも,周囲にも,まったく予想がつかないものです。今,自分が感じている「自分像」が180度変わってしまっても不思議はない。そういうまったく予測がつかない不安定で,危険な瞬間を,ここでは「厳粛なる場面」と呼ぶことにします。

 医療者であれば,誰しも「厳粛なる場面」に同席することになります。そもそも,病院という場所は,患者にとって,一歩足を踏み入れた瞬間から少なからず自己変容を迫られる空間ですよね。どうしたって「診られる自分,検査される自分」への変容を受け入れざるを得ない。重病の告知や,重大な治療選択となれば,なおさらその場面は厳粛なものとなっていくでしょう。

 我々のアイデンティティが変容してしまう「厳粛なる場面」は,当然のことながら医療以外にもたくさんあります。会社で新しい役に任命される,学校に入学する,転勤する,そういった社会的な役割の変化の瞬間には,程度の差はあれ,人の存在は不安定になります。

 そして,われわれの文化は,そういう不安定な「厳粛なる場面」を,共同体の中で見守るための儀礼を育ててきました。入学式,卒業式,結婚式……あらゆる儀礼は,そういう不安定で,危険な瞬間を見守るために機能してきたわけです。

「厳粛なる場面」とインフォームド・コンセント

 では,医療における「厳粛なる場面」は,どのような儀礼によって見守られてきたのか。

 そういう目でわれわれの臨床を眺めてみると,この数十年,そうした儀礼性が医療現場からどんどん失われてきたことがわかります。そして,そういった医療の儀礼性を解体する役割をある種,担って来たのがインフォームド・コンセントやEBMといった思想・ツールであったのだと思うのです。

 かつての儀礼性に富んだ医療に弊害があったこと,そしてインフォームド・コンセントやEBMがそれらを改善すべく登場し,成果を挙げてきたことを僕は否定しません。

 しかし,これらのツールが,医療における「厳粛なる場面」で有効な機能を果たしうるかという点について,僕は大きな疑問を持っています。

 特に,インフォームド・コンセントは,必然的に「厳粛なる場面」で執り行われるわけですから,そこには患者の不安定さを見守る儀礼性がどうしても必要だと思うのですが,どうもそういう機能は持っていないようです。

 もちろん,それぞれの先生が行っていらっしゃる実践内容はさまざまなので一概にはいえませんが,少なくとも「情報を提供し,患者に選択権を与える」ということで「厳粛なる場面」を乗り切ろうというのは,甘い考えだし,危険だと思います。

 情報を受け取った患者さんがある選択肢を選ぶ,あるいは選択を変える。これらは,どこまでいっても「外面」の変化です。しかし,重い病の告知を受けた患者さんの「内面」は,そういう「外面」とは無関係に激しく揺れ動いています。

 そういう内面と外面の大きなズレが「厳粛なる場面」では生じざるを得ない。そうすると,「情報を提供し,患者さんが納得して,治療法を選ぶ」というポイントをゴールに設定するインフォームド・コンセントの理念は,ずいぶん能天気だと感じざるを得ません。なぜなら,患者さんの表面的な選択からは見えにくい内面のブレこそが,臨床家が直面するもっとも大きな問題だからです。

 極端な話,精神科の場合は,病名を告げた途端に患者さんが窓から飛び降りる,ということだって起きかねない。「厳粛なる場面」において,人の「内面」は,その人の全人生をかけて動いています。そういう場面において,書面で患者の同意を得るというシステムは,それを徹底すればするほど,責任逃れとしてしか機能しないように思います。

 少なくとも僕らが生きているこの日本社会においては,インフォームド・コンセントは「言った・言わない」の訴訟レベルの機能を果たすばかりで,「厳粛なる場面」における患者の不安定性を守る儀礼性を,医療から奪っていったのではないかと思います。

この項続く

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