医学界新聞

連載

2007.09.17

 

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第112回

殺人犯?
それともヒーロー?(2)

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2746号よりつづく

〈前回までのあらすじ:2006年7月,ルイジアナ州総検事局は,患者4人を「殺した」容疑で,医師1人と看護師2人を逮捕した。ハリケーン・カトリーナによる大被害後,孤立した病院に踏みとどまって献身的に患者のケアに当たった医療者たちが殺人罪で逮捕されたことに,同州医療界は猛反発した〉

 アナ・ポウ医師ら3人を逮捕した際,州総検事チャールズ・フォティは,記者会見で自信満々に逮捕理由を説明したが,確固たる物証もない事件だった(註1)だけに,当初から「逮捕に踏み切ったのはフォティの勇み足」とする批判は強かった。しかも,「殺人」の事実があったと強く主張したにもかかわらず,何故殺したのか(動機)については一切説明できず,「勇み足」と批判されたのも当然だった。

司直の事後介入に重大な疑義を表明

 はたして逮捕から1年あまりが経過した2007年7月24日,オーリンズ郡大陪審は,ポウ医師の「不起訴」を決定した(註2)。しかし,ポウ医師にとっては不起訴決定で法的問題がすべて解決したわけではなかった。というのも,「被害者」とされた患者の遺族が損害賠償請求を求める民事訴訟を起こしていたからであり,まだ「憂うつ」な境遇から完全に抜け出したわけではなかったからだった。

 不起訴の結果を受けて,アメリカ医師会(AMA)は,大陪審の決定を歓迎する声明を発表した。「……AMAは,ハリケーン・カトリーナ後の混乱下,ポウ医師はじめ多くの医師・医療者が,献身的に患者のケアに当たったことを称賛するとともに,彼らの存在こそが,暗黒に覆われたニューオーリンズに明るい光を投げかけたと信じるものである」としたうえで,「患者のケアに関して医師が下した決定,特に,災害後などで人手や物資が著しく制限された状況で下された医師の決定について,これを『犯罪』として処理しようとする動きについては,大いなる懸念を抱かざるをえない」と,医師が臨床の現場で下した判断の是非について,司直が事後に介入して犯罪として処理することに重大な疑義を表明したのだった。

類似の事件は日本の医療現場にも?

 ニューオーリンズのポウ医師は,カトリーナという大嵐の直後,勇敢にも現場に踏みとどまったがために殺人罪で逮捕されるという仕打ちを受けたが,いま,医療「崩壊」が進む日本の医療現場でも類似の事件が起こっているように思えてならない。私がこんなことを危惧するのも,長年の医療費抑制策の弊害で,日本の医療にも,カトリーナ後のニューオーリンズのように,「人手や物資(日本の場合は特に人手)が著しく制限された状況」が広がりつつあるからである。

 しかも,長年の医療費抑制策という「足かせ」にもかかわらず,まがりなりにも日本の医療が成り立ってきたのは,実は,医療者の「過重労働」が支えてきたからだというのに,いま,ついに,「人手が著しく制限された状況」に耐えきれなくなった勤務医たちの「エクソダス」が始まっているのだから状況は深刻である。こういった状況の下,勇敢にも,なお現場に残り続ける医師たちを待つものが,さらに厳しい「人手の制限」であることは論を待たず,エクソダス→状況のさらなる悪化→エクソダス→……という悪性サイクルが回り出しているのだから,暗澹とせざるを得ない。

4000年前と変わらない発想

 特に,日本の診療科の中でも医師不足が一番深刻といわれているのが産科であるが,バックアップ体制が十全とはいえない地方病院の産科で一人科長を担当するような状況は,カトリーナ後のニューオーリンズに踏みとどまるのと変わらないほど,勇敢かつ献身的な行為と言っても言い過ぎではないだろう。いま,東北地方のある病院で一人科長をしていた産科医師が,術中死亡例の刑事責任を問われて公判中というが,ポウ医師と同じく,過酷な状況にもかかわらず勇敢に踏みとどまって献身的に働いたが故に犯罪に問われることになったのだから,これほど,日本の医療者の「士気」を損なう仕打ちもないだろう。日本の司直担当者に,(法律についても医療についても素人である)オーリンズ郡大陪審の陪審員ほどの理性と常識が備わっていたならば,起訴はもとより,逮捕にもいたるはずのなかった事例ではなかったろうか。

 「手術で患者が死んだら医師の両手を切り落とせ」と定めたのは,紀元前18世紀に制定されたハムラビ法典だった。「手術で患者が死んだら医師の刑事責任を問え」という発想は,4000年前のバビロン王朝と何も変わらないのだが……。

この項おわり

註1:たとえば,「被害者」4人の法医解剖を担当した州検死官は,死因を殺人と断定することができず,「不詳」とせざるを得なかった。
註2:大陪審での審理は原則として非公開であり,不起訴理由の説明も行われない。なお,ポウ医師とともに逮捕された看護師2人は,大陪審の決定に先立って検察との司法取引に応じ,「不起訴」が決定していた。

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