医学界新聞

連載

2007.06.11

 

生身の患者仮面の医療者
- 現代医療の統合不全症状について -

[ 第3回 身体科からの忌避 ]

名越康文(精神科医)


前回よりつづく

 医学部に入ってすぐ,10年近く封印していた「パンドラの箱」が開いてしまった僕は,再び「死ぬ運命にある人間が生まれてくるのはなぜか」という答えのない問いにとらわれるようになりました。

 医学部に入った後ですから,この問いを抱えたまま生きていくのはきついですよね。もちろん,そんな問いに対して本質的に答えられる人に出会うわけもありません。学校では身体疾患の治療を主に学ぶわけですが,そこで「どうせいつかは死んじゃうんだし」と考えてしまうと,医療は成立しない。

 医学では,日常としての「健康」があって,非日常としての「病」がある,という捉え方が基本です。しかし,僕らがもっとも避け得ない摂理は死なんですよね。それを感じてしまうと,健康も病も,いずれも不断に「死」へと向かう,非日常の連続だとしか思えなくなる。

 もちろん一方で「そうはいっても,病気になったら困る」ということは理解できるんですが,どうしても切実な実感が伴わない。死が避けられないのであれば,病も避けられない。病や死が避けられないと考えると,どうしても「病と闘う」「命を救う」という医学の基本的なコンセプトにコミットできなかったんです。

 とはいえ在学しているのは医学部であり,そこでは「いかにして命を救うか」ということをやっている。その葛藤の折り合いをつけることができず,僕は2回留年してしまいます。

メメント・モリ

 前回お話ししたように,僕は10歳くらいから死の感覚を抱き続けてきました。何を見ても,何を感じても,「死の感覚」からスタートしてしまう。でもこれって,よく考えたら変ですよね。人間は原理的に死を知らない。僕だって死んだことはありません。論理的にいえば「死んでない」のが人間なんですよ。しかし,僕の中には,死というものの喪失感や絶望感,あるいはほんのかすかな安堵感が確かにある。

 それを「空想だ」とか「身近な人の死から連想しているだけでしょう?」と切って捨てるのは簡単です。しかし,本人としては想像なのか体験なのか,判然としないくらい実感がある。そして,間違いないのは,そういう感覚を持ってしまった人間は,どうしても現代医療が掲げる「人の命を救う」というテーゼに留保なく賛同することができない,ということです。

 例えば「脳死判定」というものがある。これは一見「死」を定義しているようですが,実は「死とは何か」という問いにはまるで答えていない。逆に,「本質的な死とは何か」についてはとりあえず留保したうえで,「臓器移植」という目的との整合性をいかにとるかという問題意識から「死」を規定しているわけです。「脳死判定」とはそういうことだと僕は理解しています。「人の死に向き合う」のではなく,「別の人の命を救う」というテーゼのもと,取り組まれたものなんですね。

 もちろん,臓器移植によってたくさんの尊い命が救われるということに対して,僕は否定や反論をする気はありません。しかし,自分自身や家族の命を救うための臓器移植,といった個人的な事情を超えた,「医学的」あるいは「客観的」な脳死判定,あるいは臓器移植是非論というものに対して,僕はどうしても信頼がおけなかったし,そういう感覚は,学生の頃も今も,あまり変わっていないんです。

揺らぐ現代医療のアイデンティティ

 学生時代から今に至るまで,僕には「命を救う」というテーゼの意味がよくわからない。「命を救う」というテーゼが間違っているというわけではなく,文字通り,「わからない」。こういう感覚は,もしかしたら読者の中にも共有できる方がいらっしゃるかもしれない。死を身近に感じ,「命を救う」というテーマにどこか空々しさを覚えてしまうという感覚は,必ずしも僕個人の資質だけに還元できるものではないと思っています。

 実際,「人の命を救う」というコンセプトそのものへの疑義が,近年ほうぼうでクローズアップされるようになってきました。救えない人がたくさんいる,ということもわかってきたし,救命そのものにも,それこそ臓器移植や,いわゆる「延命治療」について,さまざまな倫理的問題があることもわかってきた。ある意味,現代医療,科学的医療がここまで進歩したおかげで,「命を救う」というコンセプトが持つ本質的な問題点が,誰の目にも明らかになってきたという面があるように思います。

「死を想う」医師として

 ただ,少なくとも僕が抱いていた「わからなさ」を共有できる空気は,当時の医学部にはほとんど存在しませんでしたし,今でも少数派ではないかと思います。

 医療界の中にいながら,死を見つめること,あるいは「救命」の意義を疑問視することが難しいのは,死=敗北という図式が,医療に刻み込まれてしまっているからではないかと思います。「医療界」を一人の人間の人格として見た場合,彼=医療界がいちばんアイデンティティクライシスに陥るのは,やはり「死」なんですね。そしてその構造は,今も基本的には変わっていない。たぶん医学部の学生の大半にとって,「人の命を救うこと」は掛け値なく「正しい」こととして常識に登録されているでしょう。

 でも,もしも本当に,人の命を救うことが是であり,死=敗北であるならば,すべての人生は敗北である,ということになります。もし死に対して徹底抗戦すべきであるなら,すべての人間は一生をかけて負ける,ということになる。「人生」を「医療」に置き換えても,究極的には同じことが言えるでしょう。

 これは生半可なジレンマではありません。「その人らしく,生き生きとした人生をサポート」みたいなコピーを目にすることがありますが,極端な話,「生き生きとした死」なんてものは存在しない。そういう,解決不能かつ,個々の人間存在にとって深刻なジレンマを理解したうえでの医療であり,救命でなければ,医学の根本がものすごく不透明になってしまうと僕は思います。

 この話を「形而上的に過ぎる」と批判される方もおられるかもしれません。しかし,僕にとっては「死」こそが,生身の強い実感のあるものなんです。そして何より注意すべきことは,「死を問うてはいけない」空気感が,当の医療界には間違いなく強力に存在する,ということです。そういう空気の中で,このジレンマとどう向き合うか。そのことは,その人の医者としてのあり方を,大きく左右するように思います。

次回へつづく

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