パンドラの箱
連載
2007.05.14
生身の患者と仮面の医療者 - 現代医療の統合不全症状について - [ 第2回 パンドラの箱 ]名越康文(精神科医) |
(前回よりつづく)
初めて「答えがないのに問わざるを得ない問い」を抱えたのは,僕の場合,小学校4年の頃にさかのぼります。
僕の父親は医者になりたかったのですが,親が浪人することを許さなかったので医者の道を断念した,という過去を持っていました。
また,母親も7代続いた医者の家系の長女で,本人も医者になりたいという意志を持っていたようなんですが,時代が時代で女医への偏見もあり,断念しました。
要するに両親ともに,ある種,医学に対する怨念と言っていいような思いを持っていたわけです。結果,僕は幼い頃から両親の「医者になれ」という強い思いを受けて育ちました。こういう親の怨念や圧力を受けて育った人は,実は医学生に多いんじゃないかと思います。
海底大戦争
さて,そんな家に育った僕が,小学校4年生の時からとらわれるようになった「答えがない問い」とは,こともあろうに,「死ぬ運命にある人間が生まれてくるのはなぜか」というものでした。きっかけは,『海底大戦争』(註)という映画です。千葉真一さんが主演でした。海の底に,海底都市がつくられていて,そこには身体がウロコだらけで足ひれのついたおぞましい海底人がおり,地球征服をたくらんでいる。その陰謀に,千葉真一さん扮するジャーナリストが気づき,最終的には地球人が海底人をやっつける,というストーリーです。
何でそんな映画にそこまで影響を受けたのか,と思われるかもしれませんが,僕にとって大きかったのは,「海底人とは,実は地上で誘拐され改造人間にされてしまった人間だった」という設定でした。正義の名のもと,もともとは人間だった人たちが怪物としてバタバタ殺されていく。そのことが,あまりにも鮮烈だった。「あの人たちは,なぜ死ななければならなかったんだ」と,恐ろしくて恐ろしくて,仕方ありませんでした。
映画を見るちょうど1年前に父方の祖父を亡くしていたことも影響したかもしれません。強くて,揺るぎないように思えた父親が,祖父の死に泣き崩れているのを見て,一人の人間が死ぬということの重大さが刷り込まれていました。そういう,いろんな死に関する体験の積み重ねが,この映画を契機に噴出したのかもしれません。
究極の問い
なんで人間は死ぬのか。死ぬのであれば,なぜ生まれてくるのか。この強靭な問いに対して答えられる人は,おそらくこの世にいません。それこそスピリチュアルカウンセラーに言われたって,納得できないと思います(笑)。「生きることは修業です」とか言われても,なぜ修行しなきゃいけないのかわからないし,答えになっていない。もちろん,僕ら医者も答えを持っていない。これはおそらく回答不能の問いなんです。映画を観てから1週間ほど,眠れなくなりました。毎日毎日,ボロボロ泣いて,親が心配して「なんで泣いてるんや?」と聞いてくると,「なんで人間は死ぬの?」と問い返す。もちろん,親も答えられない。とにかく人間は死ぬ,だったら何で生きるんだ,という疑問で恐慌状態だったわけです。
さらに,そうやって押し問答を続けているうちに,子どもなりに,周りの大人に聞いても満足いく答えは返ってきそうにないということが理解できてきます。「これは,自分で考えなければいけない問題だ」ということがわかる。でも,考えても答えが出るわけがない。夜になって目を瞑ったら,真っ暗な闇=死の中へと,自分が落下していくような気がして,恐ろしくて眠れない,そういう状態が続きました。
パンドラの箱に封じ込める
そういう半ば発作的な状況が数週間続いたと思うんですが,結局,僕の場合,国語の時間に習った「パンドラの箱」の話を,自分なりに都合よく使ってその問いを封じ込めることになりました。「パンドラが箱を開けると,すべての人間のさまざまな煩悩が世界中に広がっていきました」というお話を聞いて,幼い僕は「しめた!」と思ったんですね。「パンドラの箱」のお話の本筋とは別に,「人の思いを封じ込める箱」という概念が,僕にとってはとても魅力的だった。「そういう箱に,自分の今いだいている恐ろしい思いを封じ込められるはずだ」と考えたんですね。死に対する恐怖,あるいは生に対する疑問を封じ込めよう,「箱に入れたぞ」と信じるようにしました。不思議なもので,その日からはぐっすり眠れるようになった。これで自分は生きていけると思いました。
しかし,一度そういう「問い」を抱えてしまった人間は,そこから完全に自由になることはできません。いつかはそれに直面しなくてはならない。再びパンドラの箱が開いたのは,それから10年ほど経った,大学1年生の時でした。
再び,箱が開く
「パンドラの箱」に封印してから,僕は中学・高校――それはそれで,自分に合わない学校だったのでいろいろと嫌なことはあったんですが――を経て,何とか医学部に入学するところまでたどりつきました。ところが,受験勉強が終わって気が抜けたのか,僕は最初の試験で,10のうち3つくらいを落としてしまったんです。それで「これはいかん」と思って,ようやく必死になって勉強をして,追試を受けた。その追試結果を確認するために,学校の掲示板まで行った時のことです近畿大学の医学部って,駅から坂をずっと登っていったところにあるんですが,掲示板を確認しに坂を登っている時,妙な違和感があったんです。「あれ? 今,追試の結果にドキドキしてるけれど,もし全部通っていたとしても,決して自分は安心しないんじゃないか」という予感があった。
実際に掲示板を見ると,3つとも受かっていた。しかし案の定,その掲示を見て少しホッとした次の瞬間,とほうもないむなしさが襲ってきました。夏なのに,珍しく風がものすごく強い日で,その風が心の中にスーっと通ってきたような,何ともいえない気持ちでしたね。帰り道,坂道をとぼとぼくだりながら,「ああ,パンドラの箱が開いたんだ」って,つぶやいたことを覚えています。
(次回へつづく)
註)『海底大戦争』
1966年に公開された,東映制作の特撮SF映画。監督:佐藤肇,主演:千葉真一。
名越康文
1960年生まれ。近大医学部卒後,大阪府立中宮病院精神科主任を経て,99年,名越クリニックを開業。専門は思春期精神医学。精神科医というフィールドを越え,テレビ・雑誌・ラジオ等のメディアで活躍中。独自の視点からの映画・漫画評論にも定評がある。
この記事の連載
生身の患者と仮面の医療者(終了)
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