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HOME週刊医学界新聞 > 第3353号 2020年01月06日



第3353号 2020年1月6日


【特別寄稿】

ケアはいかにしてひらかれたのか
第73回毎日出版文化賞受賞
シリーズ ケアをひらく 創刊20周年に寄せて

松本 卓也(京都大学大学院人間・環境学研究科准教授)


「科学性」「専門性」「主体性」といったことばだけでは語りきれない地点から《ケア》の世界を探ります――。野心的な宣言とともに創刊された《シリーズ ケアをひらく》は今年,創刊20周年を迎える。本シリーズが《ケア》の世界に刻んだ軌跡を,気鋭のラカン派精神病理学者として現代思想界にインパクトを与え続けている松本卓也氏がたどる。


個別性から生み出される普遍性

 《シリーズ ケアをひらく》が医療(特に精神医療)や看護,さらには福祉の領域においてひとつの時代を画するものであることは間違いない。それは,このシリーズにおいて執筆した著者たちのそれぞれが非常に興味深い議論を展開しているのみならず,それぞれの著作が個別の現場に内在しながら現場を変革していくためのヒントを提供してくれるからである。

 本シリーズの読者層は,シリーズ開始当初こそ医療関係者が主であったと思われるが,現在はより一般的な層にまで広がっているようである。実際,國分功一郎の中動態の世界が,哲学の本でありながらさまざまな領域において大きなヒントを与えていることからもわかるように,たとえ自分の現場とは異なる領域について書かれた本であっても,自分の現場に適用することができるような高い応用可能性を備えているのが本シリーズの特徴であり,その一冊一冊に現場を変革するためのヒントがちりばめられているから,というのがその理由であろう。言い換えれば,本シリーズは,個々の現場という個別性から出発して,どの現場にも応用できるような普遍性を持っているのである。では,いかにして本シリーズはそのような普遍性を手にすることができたのだろうか?

中動態の世界
意志と責任の考古学

著◎國分 功一郎
2017年04月発行

 すぐに思いつくのは,本シリーズのほとんどが,臨床を扱いながらも,なんらかの(広義の)哲学ないし人間学を展開しているという点である。もちろん,専門的な哲学書のような難解な議論が展開されているわけではない。しかし,個々の著作をひもとけば,そこに人間存在を別の視点からとらえ直すための枠組みやそのヒントが提示されていることがすぐさま了解されるだろう。本シリーズのリハビリの夜発達障害当事者研究の著者である熊谷晋一郎が,哲学の言葉は難解であるというよりも,ある種の障害を持った人々にとってはむしろ極めて具体的な「使い勝手の良い」言葉であると述べているように,個々の哲学的ないし人間学的思考は,実は障害のリアリティを理解したり説明したりするためにはもっとも「腑に落ちる」,ある意味では「わかりやすい」とすら評し得る言葉でもあり,それ故に著者だけの占有物ではあり得ない応用可能性を獲得し得るのである。

リハビリの夜
著◎熊谷 晋一郎
2009年12月発行
発達障害当事者研究
ゆっくりていねいにつながりたい

著◎綾屋 紗月/熊谷 晋一郎
2008年09月発行

政治的な磁場が生み出した「当事者研究」

 また――筆者にとってはこちらのほうが重要であるが――本シリーズにおいていっけん目立たないような形で一貫していると考えられるのは,ある特殊な歴史的布置のなかでの政治性であるように思われる。そして,結論から述べるなら,この政治性こそ,本シリーズを個別でありながら普遍的なものにしていると私は考えている。

 ここでは議論をわかりやすくするために,筆者の専門である精神医学・精神医療に話題を限定しよう。「精神医学と政治」というテーマから,すぐに思い浮かぶのは1950年代から60年代にかけて隆盛を極めた反精神医学のことであるだろう。反精神医学は,既存の精神医学を人々に「狂気」というレッテルを貼るものとみなし,「狂気」とみなされた人々を隔離・監禁するシステムとして精神科病院をとらえ,そこからの解放の道を思想と運動の両面において模索するものであった。このような動向とそこから影響を受けた潮流は,同時代のフランスにおいては1968年に勃発した五月革命,日本においては全共闘運動や東大医学部紛争などと同じうねりのなかで精神医療改革運動として展開され,そこでは権威主義的になりがちな医局制度や精神医学・精神医療のシステムそれ自体への根底的な批判も行われていた。

 そのような革命的時代の「その後」に生まれてきたのが,「ポスト68年5月」の新しい社会運動である。反精神医学やそれと同時代の革命運動が,国家や医療システムに代表されるような大きな社会構造と戦っていたのに対して,それ以後の「ポスト68年5月」の世代は,よりローカルな,より個別的な戦いを繰り広げていった。障害者運動やウーマンリブがその一例である。これらの新しい運動は,何らかの革命的な大義(例えば「共産主義」)のために戦うのではなく,「障害者」や「女性」が自分たちの水平的なグループを作ることから始め,そのグループのなかで自分たちの経験をお互いに共有し合い,そこから自分たちの個別のニーズを見いだすことによって「当事者」となり,お互いをエンパワメントしていくなかで社会に働き掛けていくという戦略をとった。かつての革命的な運動が,大義を重視するあまり個別の問題を扱うには不向きであったのに対して,障害者運動やウーマンリブのような個別のマイノリティのグループは,まさにそれぞれの現場での個別的な問題から出発し,そこから社会とかかわる新しい回路をひらこうとしたのである(このような動向を後に「当事者主権」という言葉で整理したのが上野千鶴子と中西正司の2003年の著作『当事者主権』であり,この二人は本シリーズの中でもニーズ中心の福祉社会へという好著を残している)。

ニーズ中心の福祉社会へ
当事者主権の次世代福祉戦略

編◎上野 千鶴子/中西 正司
2008年10月発行

 《シリーズ ケアをひらく》は,このような政治的な磁場の中にある。実際,本シリーズ初期の名著べてるの家の「非」援助論が主題とする,北海道浦河町の「べてるの家」からしてこのような政治的な背景を持っていることは意外に注目されていないように思われる。べてるの家の設立にかかわったソーシャルワーカーの向谷地生良は,全共闘運動の担い手となるには少々遅過ぎた世代(1955年生まれ)であるが,学生時代には難病患者の自立生活運動にかかわっていた人物であり,病院という場所において専門家集団がつくりだす権力関係に対して非常に敏感な人物でもあった。権力関係やヒエラルキーは,まさにかつての革命的時代においても問題となったものであるが,ポスト全共闘世代である向谷地は,もちろんかつてのやり方とは全く異なる方法をとった。それは,専門家と当事者はお互いに対等であり,当事者たちが自分の言葉を手に入れるためには,共同性や相互性こそが重要であるという考えに貫かれたものであった。

べてるの家の「非」援助論
そのままでいいと思えるための25章

著◎浦河べてるの家
2002年06月発行

 ここから「当事者研究」が生まれてくる。周知の通り,当事者研究は,これまで「観察者である医師が主体となり,客体である患者の病気を研究する」という権力構造のなかで行われていた研究を脱構築し,「患者が自分自身の病気を自分自身で研究する」ものであった。しかも,この変化は,権力構造を転覆することを試みる(医学的権力と闘う)ことよりも,むしろ当事者同士の横のつながりを重視し,そこからそれぞれの当事者の特異性が析出してくることに主眼があり,既存の医学に対してはそれを「半分借りる」といった態度をとる(それ故,べてるの家の人々は自分たちを「反精神医学」ではなく「半精神医学」という言葉で形容している)。医学的権力に対するこのような態度は,日本独自のものではなく,フランスではラ・ボルド病院に代表される制度論的精神療法の流れにも同様の特徴を指摘することができるであろう(彼らもまた,脱施設化や地域医療は重要であるにせよ,「精神科病院があることがそれ自体問題である」という反精神医学的な態度はとらず,むしろヒエラルキーをつくりがちな病院の内部の医療環境を絶えず治療していくことをめざしたのである)。本シリーズに田村尚子によるラ・ボルド病院の写真集であるソローニュの森があることは,このような関連性を裏付けてもいるだろう。

ソローニュの森
著◎田村 尚子
2012年08月発行

「翌日の医者」中井久夫から『居るのはつらいよ』まで

 少々専門的になるが,フランスにおけるこのような流れの起源にジャック・ラカンやフランソワ・トスケルがいたとすれば,日本においてその位置にいたと考えられるのは,本シリーズにもこんなとき私はどうしてきたかを残した中井久夫であろう。「中井久夫における政治」というテーマはまた稿を改めて集中的に論じなければならないにせよ,少なくとも彼がヒエラルキー的な医局講座制度に対する苛烈な批判(『日本の医者』)と,革命的態度に対する違和感(これは,「うしろめたく思いながら診察したらよくなる患者もよくならんのではないか」という彼の言葉に代表される)を併せ持つ医師であったことは間違いなく,中井のそのような政治性は彼の臨床や理論とも無関係ではあり得ない。実際,彼は,大義のための革命よりも,その「後処理」に目をやった。彼は精神科病院改革のための運動の前線に駆り出された患者たちがその翌日に悪化することに気付き,その患者たちにとっての「翌日の医者」であることを己の使命とするようになったのである。中井の名を有名にした彼の寛解過程論にしても,彼以外の精神科医たちがみなそろって統合失調症の発病過程ばかりを論じ,発病過程という激烈な嵐が過ぎ去った「その後」を論じてこなかった,という問題意識から出発するものであったが,これは「その後(翌日)」への注目が彼の思想と臨床を貫いていることの証左でもある。

こんなとき私はどうしてきたか
著◎中井 久夫
2007年05月発行

 この方向性を依存症へと応用すれば,本シリーズにおける上岡陽江と大嶋栄子のその後の不自由になることは言うまでもない。依存症患者の多くは,虐待や暴力などの衝撃的な出来事や事件を経験しているが,当事者にとって重要なのはその出来事や事件そのものであるだけでなく,それが起こった後の「その後」の生活をどのように生き延びていくかということでもあるからである。

その後の不自由
「嵐」のあとを生きる人たち

著◎上岡 陽江/大嶋 栄子
2010年09月発行

 その中井久夫は,かつて本紙(第2433号)上でカルテと看護記録を対比し,カルテには何も起きていないときのことは何も書かれていないが,看護記録はそうではなく,「ふつう」の生活のことが書かれてあると述べていた。そして彼は,いっけん派手で重要そうにみえる前者よりも,後者の「ふつうさ」のほうに価値があることに賭けるのだと言った。このような態度は,特異症状よりも非特異的な症状に注目した彼の症状論や,「医者が治せる患者は少ない。しかし看護できない患者はいない」という彼の治療論を貫いているものでもある。

 このような考えのいわば子孫にあたるのが,本シリーズにおける東畑開人の居るのはつらいよであろう。東畑は,見せ場のある「セラピー」(例えば心理療法)と,これといった見せ場がなく,いっけん日常的な「ふつうさ」の連続でしかないように見える「ケア」(例えばデイケア)とを対比しながら,その「ケア」のなかで一体どのようなことが起こっているのかを緻密に描き出すことに成功している。そして彼は,「ふつう」のケアが,治療や経営に襲いかかる「効率」や「生産性」のロジックによっていかにしてデイケアのグループが平準化され,息苦しくなるのかを示すことによって,「ふつう」のケアの現場を豊かなものへと変革するための端緒を見いだそうとしているのである。

居るのはつらいよ
ケアとセラピーについての覚書

著◎東畑 開人
2019年02月発行

 このことは,精神障害患者を平準化・画一化するものとして批判されることもある生活技能訓練(SST)を向谷地が「これは使える」と高く評価したこととも関係しているだろう。つまり,いっけん平準化のための道具でしかないとみえるものでも,使いようによっては,むしろケアを豊かなものにするために活用し得ると考えるのである(もちろん,そのためには「過酷な」と言ってもよいような日々の実践が必要なことは言うまでもない)。

集団(グループ)に「つながる」ことの価値

 そのことと関連して最後に指摘しておきたいのは,「大義のための革命」よりも「その後」を,「ヒエラルキーの解体」よりも「いかに日常の実践のなかでヒエラルキーを作らないか」を,「セラピー」ではなく「ケア」を重視する本シリーズの議論が,いずれも他者たちとのあいだにつくられる集団(グループ)を重視していることである。実際,当事者研究や依存症の自助グループ,さらにはデイケアは,集団(グループ)の存在を前提としており,困りごとを抱えた人がその集団に「つながる」ことに極めて高い価値を与えている。このことは,哲学的にも重要である。というのも,マルティン・ハイデガーが『存在と時間』において,他者たちとの横のつながりに埋没する人間像を「世人(ダス・マン)」と呼んで以来,個人が行う一人きりでの果敢な決断や「自己決定」といったものに至上の価値が置かれる一方で,他者たちとのつながりが哲学においても臨床においても等閑視されてきたきらいがあるからである。

 その点で,村上靖彦が本シリーズに書いた在宅無限大は,本文には哲学者の名前は目立たないけれども,ハイデガー的な価値観に再考を迫るものであると言える。村上は,在宅での死の看取りに携わる訪問看護師の語りを丁寧に聞き取ることのなかから,現代における死の定義を再考し,ハイデガーが述べたように人は孤独のなかでたった一人きりで死ぬのではなく,むしろ他者との対人関係のなかでこそ本来的な死を迎えるのであり,その意味で死とは共同的なものなのだということを明らかにしている。國分功一郎の『中動態の世界』にしても,やはり「意志」や「責任」といった,これまで至上の価値が置かれていた概念の起源を問い直し,それに対するオルタナティヴをひらこうとするものであり,最近國分が取り組んでいる「類似的他者」の議論(『ドゥルーズの21世紀』所収)にも見てとれるように,他者とのつながりを重視する方向へと哲学をひらくものであると言えるだろう。

在宅無限大
訪問看護師がみた生と死

著◎村上 靖彦
2018年12月発行

「静かな革命」は終わらない

 このように,本シリーズの新しさは,これまで光を当てられてこなかったさまざまな領域を照らし出し,個々のローカルな現場に内在しつつ,その現場を変革する実践を取り出していることであり,さらにそれが医療や看護や福祉のみならず,政治や哲学にも応用可能な普遍性を持っていることに見定められるだろう。

 もちろん,このような傾向は本シリーズだけによってひらかれたものではなく,紙幅が許すならその他のいくつかの書籍についても言及すべきであろう。しかし,まずはこのような個々の現場の変革,いわば「静かな革命」を引き起こすポテンシャルを持つ著作を次々と世に出してきたこのシリーズの20年を祝いたい。そして,また個々の現場からの新たな報告を楽しみに待ちたいと思う。


まつもと・たくや氏
2008年高知医大(現・高知大)卒。15年自治医大大学院医学研究科博士課程修了。博士(医学)。16年より現職。臨床に携わりながら精神病理学とラカン派精神分析を中心に研究を行う。著書に『創造と狂気の歴史――プラトンからドゥルーズまで』(講談社),『症例でわかる精神病理学』(誠信書房),『心の病気ってなんだろう?(中学生の質問箱)』(平凡社)など。