べてるの家の「非」援助論
そのままでいいと思えるための25章

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「幻覚&妄想大会」「偏見・差別歓迎集会」という珍妙なイベント。「諦めが肝心」「安心してサボれる会社づくり」という脱力系キャッチフレーズ群。それでいて年商1億円,年間見学者1800人--医療福祉領域を超えて圧倒的な注目を浴びる<べてるの家>の,右肩下がりの援助論。

*「ケアをひらく」は株式会社医学書院の登録商標です。
シリーズ シリーズ ケアをひらく
浦河べてるの家
発行 2002年06月判型:A5頁:264
ISBN 978-4-260-33210-1
定価 2,200円 (本体2,000円+税)

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●『シリーズ ケアをひらく』が第73回毎日出版文化賞(企画部門)受賞!
第73回毎日出版文化賞(主催:毎日新聞社)が2019年11月3日に発表となり、『シリーズ ケアをひらく』が「企画部門」に選出されました。同賞は1947年に創設され、毎年優れた著作物や出版活動を顕彰するもので、「文学・芸術部門」「人文・社会部門」「自然科学部門」「企画部門」の4部門ごとに選出されます。同賞の詳細情報はこちら(毎日新聞社ウェブサイトへ)

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序にかえて-「浦河で生きる」ということ
I <べてるの家>ってこんなところ
 第1章 今日も、明日も、あさっても
 第2章 べてるの家の歩みから
II 苦労をとりもどす
 第3章 地域のためにできること
 第4章 苦労をとりもどす
 第5章 偏見・差別大歓迎
 第6章 利益のないところを大切に
 第7章 安心してサボれる会社づくり
 第8章 人を活かす
 第9章 所得倍増計画≪プロジェクトB≫
 第10章 過疎も捨てたもんじゃない
III 病気を生きる
 第11章 三度の飯よりミーティング
 第12章 幻聴から「幻聴さん」へ
 第13章 自分で付けよう自分の病名
 第14章 諦めが肝心
 第15章 言葉を得るということ
 第16章 昇る生き方から降りる生き方へ
 第17章 当事者研究はおもしろい
 第18章 そのまんまがいいみたい
 第19章 べてるに来れば病気が出る
 第20章 リハビリテーションからコミュニケーションへ
IV 関係という力
 第21章 弱さを絆に
 第22章 それで「順調!」
 第23章 べてるの家の「無責任体制」
 第24章 「場」の力を信じること
 第25章 公私混同大歓迎
V インタビュー
 1 社会復帰ってなんですか?
 2 病気ってなんですか?

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強い衝撃。専門家として深く考えさせられた
書評者:鈴木 二郎(国際医療福祉大教授・山王分院/精神医学)

現在,世界や日本各地で,さまざまな形の精神障害者や家族の社会復帰,リハビリテーション,ノーマライゼーションあるいは共生の活動が行なわれている。しかし「浦河べてるの家」は,おそらくまったく他に例を見ないユニークな集まりと活動といえるのではないか。

 本書は,そのべてるの家から出版された2冊目の本である。1冊目は,1992年に発行された『べてるの家の本-和解の時代』(べてるの家の本制作委員会)で,初版3,000部があっという間に売れ,1995年には第5刷が出版されている。その年からビデオ『ベリー・オーディナリー・ピープル』の撮影を開始し,2002年には自主企画ビデオシリーズ『精神分裂病を生きる』全10巻が発行されている。

あっという間に引き込まれて……
 『べてるの家の「非」援助論』というタイトルは,一見硬くギョッとするが,読みはじめると各章のイラストと写真も実に楽しく,あっという間に引き込まれてしまう。

 短時間ではあったが,私がべてるの家を訪ね,少数の仲間と共に過ごし,一夜飲んだ時に感じた楽しさと同質である。だが,この本はそれだけではない。精神疾患,精神障害というものを当事者側から明るくしかし鋭く抉り出し,どのようにリハビリテーションをするかでなく,「人としてのコミュニケーションの歪みこそが,この社会におけるいわゆる精神障害者と健常者のバリアになっている」ことを的確に示しているのである。

いくらでも話したくなり,書きたくなる
 内容は,副題にある「そのままでいいと思えるための25章」に巧みに表現されている。大別して5部に分けられ,全部で25章とインタビュー,巻末にはべてるの家周辺の地図,歴史,組織図までがつけられている。本書も第1冊目同様まえがきに始まって,各章を当事者,協力者,そして主としてソーシャルワーカーの向谷地氏がそれぞれ執筆している。ただ家族の姿はない。

 先にあげた第1冊目がべてるの家の沿革や,各人の関わりの経緯を述べたいわば「初期の生の歴史」といえるのに対し,2冊目の本書は,当事者の生の言葉と活動,関係を通じて,“私”を再定義する研究によってさらにべてるの家全体が,混乱のまま発展していることを示している。

 とにかく,どの章もすべて紹介したくなり,その話についていくらでも書きたくなる。「べてるの家に来ると皆よく話すようになる」という通り,私にもその病気が出たようである。しかし紙幅の制限で,いくつかのタイトルだけあげるにとどめる。意味は本書を読んでいただきたい。

 「べてるはいつも問題だらけ」,「安心してサボれる会社づくり」,「発作で売ります」,「昆布も売ります。病気も売ります」,「三度の飯よりミーティング」,「幻聴から『幻聴さん』へ」,「言葉を得るということ」,「昇る生き方から降りる生き方へ」,「弱さを絆に」,「それで順調!」,「場の力を信じること」,「幻聴&妄想大会」などなど。

“常識を突き抜けた”活動を支える専門家たち 
 実は,私は専門家として本書の書評を依頼されたのであるが,べてるの家との何度かの接点でその度に強い衝撃を受け,笑いとともに深く考えさせられている。浦河の街の人にべてるの家について訊ねると,「ああ,普通ですよ」と答える。10年前は,そうではなかったであろう。べてるの家という“場”が,自分たちの弱さを言葉にした人たちによってでき上がり,浦河の街に生き,街の人たちと生きている。

 当事者や関係している人びとの苦悩は,実は想像を絶するものであろう。しかし,それを包む暖かさは,向谷地氏の巧まざるユーモアと,精神科医の川村氏の当事者への信頼を基にした姿勢によるものであろうし,本当の意味の「共生」を可能にしていると思える。この2人が,真の専門家としての洞察と見識によって,「どんぐりの会」以来の教会の住居から当事者の話し合いを重ね,これまでの常識を突き抜けた集まりと活動を支えてこられたと思う。

 べてるの家が今後とも問題だらけで継続することを希望し,多くの医師がべてるの家を訪ねることを勧めたい。

《べてるの家の活動と思想のキーワード》
弱さ-豊かさ-言葉-ユーモア-絆-場-地域-お互い-自立


「右肩下がり」にあふれ出る言葉たち
書評者:石田 昌宏(日本看護連盟常任幹事)

 企業の本質は,「ゴーイング・コンサーン(going concern:継続事業体,永久事業体)」である。大学院にいたころに私はそう習った。
 企業は顧客,関連会社,取引先との相互関係なくしては存在しえない。また労働者を継続して雇用し,長期的な耐用年数を持つ設備投資を反復している。これらのことは,企業が将来も継続して存在することが認知されているから安心して行なわれるのである。なくなることがわかっている企業に人は就職しないし,銀行もお金を貸さないし,取引先も早く遠ざかろうとする。もし前提として企業に継続性がないとすれば市場システムが崩壊する,という理論だ。
 確かに右肩上がりに成長していく世界観の下では,ゴーイング・コンサーンは成り立つだろう。しかし今日の日本経済ではないが,生産人口の減少,消費の限界という言葉が代表するような右肩下がりの環境下では,企業は永久に継続するという前提は成り立たたず,経営学はゴーイング・コンサーンに代わる新しい概念を見つけなければならない。そう,右肩下がりの生き方を。

なぜこんな事業体が年商1億なのか?
 『べてるの家の「非」援助論』を読みすすめると,言葉が生き生きとあふれていることに驚いた。
 《「諦めること」……それをべてるでは生き方の高等技術としてとても大切にしています》
 《「安心してサボれる会社づくり」が僕たちの会社の理念です》
――どうみても浦河べてるの家は,ゴーイング・コンサーンを無視している会社だ。経済学的に見れば“本質がない企業”となる。それなのになぜか,こんな事業体が北海道の浦河という町で年商1億円をあげ,町の経済を牽引している。

なぜ再発をくり返しても「順調」なのか?
 《べてるの良いところは……ぐちゃぐちゃなところ! 人間関係がドロドロしているところ!》
 《記念すべき最初の集いのタイトルは「偏見・差別大歓迎! けっして糾弾いたしません」》
 《看護婦さんは患者さんが退院する時にこういいます,「予定どおり再発するかもしれないね」と。そして,「再発しても順調だよ」と》
 私は精神障害者の社会復帰・社会参加をめざした活動をしていたことがあるが,こんな言葉は過去の私の中にはなかった。リハビリテーションといえば,ドロドロはすっきりさせ,偏見差別はなくし,再発は予防する,だったはずだ。
 それなのに,なぜべてるの住民たちは順調に暮らしているのだ? 全国各地で講演をしているのだ?

「弱さ」を認めた時「語り」が生まれる
 読み終えて納得した。べてるの家の中はぐちゃぐちゃだ。ではどうしてぐちゃぐちゃかというと,メンバーが自分自身のことを「語る」かららしい。語るエネルギーがべてるの家をかたち創っている。
 そして,語ることが許されているのは,「降りる生き方を認め」,「ありのままを肯定し」,「弱さを大切に」する場を意識して用意しているからだ。
 このぐちゃぐちゃの中に,新しい本質が隠されていると思う。混沌から秩序が生まれるように,ぐちゃぐちゃの意味を言葉で表現した時に,その本質は人々の前に姿を見せる。この本はそんな意欲的なチャレンジの成果だ。医療福祉関係者だけではもったいない。企業社会のあり方に行き詰った人にもぜひ読んでほしい。


なんとも痛快!「非援助」という思想の心地よさ
書評者:山崎 章郎(聖ヨハネ会桜町病院部長・ホスピス科)

一般病院からホスピスへの転身
 終末期医療に深い関心を抱くようになって,あしかけ20年が経とうとしている。また,具体的なホスピスの場に身を置くようになって12年目を迎えようとしている。
 一般病院で終末期医療に取り組んでいたころには,山のような問題と立ちはだかる壁の前で,当初は果敢にチャレンジしたがやがて無力感と苛立ちの中で働くようになっていた。ホスピスに転身してからは大変なことも少なくなかったが,個人的には解放感と充実感の中で仲間たちと仕事に取り組むことができていた。

緩和ケア病棟への危惧
 だが,近年わが国に急速に増加しつつある癌末期患者を主なケアの対象とした緩和ケア病棟を目の当たりにし,その増加を一方では一般病棟で十分なケアを受けることのできない癌末期患者のために歓迎しつつも,もう一方ではホスピスケアの本質が矮小化されてしまう危惧を感じるようになった。
 なぜならホスピスケアは,従来の医療の呪縛(専門性を盾にした上下関係,権威主義など)から解放されたところで展開されていくものと考えていたのに,実情は緩和ケア病棟という形でどんどん従来のままの医療の中に組み込まれてしまっているからである。つまり,これまでの医療がもちつづけてきた諸問題が十分な解決や反省もなされないままに,医療保険の対象となる新病棟が旧来の土壤の上に次々と誕生しているだけのように見えてしかたがないからである。
 古い土壤の上に本来的なホスピスケアが花開くとは思えない。ここ数年間は自分たちのホスピスケアも含め,これでいいのかという思いが強くなってきていた。

かくも魅力的な「べてるの家」はいかにして生まれたか
 この本に出会ったのは,こんな思いの時である。
 なんとも痛快な本である。精神障害者といわれる人たちがソーシャルワーカーや医師や地域の人々と共に,さまざまなトラブルを重ねながらも日高昆布の直販という商売を通して,浦河という北海道の小さな町の中に,自立的に生きる場を確立していく物語である。
 本書の語り部ともいえる向谷地氏の視点や思考は,現場に身を置かないかぎり出てこないものだ。そしてまた,たとえ現場に身を置いたとしても,その目線が治療者や専門家の目線であるかぎり,かくも魅力的な精神障害者と地域の共生の場である「べてるの家」は誕生しないだろう。つまり,本人が心から納得できる治療経過や結果ではなく,専門家や治療者が満足する成果の下では,「こうはならない」ということである。
 そのことを,本書に登場する個性豊かな人々が自らの体験を通して証言している。専門家といわれる人々はいったい今まで何を見,何をしてきたのかと問われてもしかたがない(これはわが国の多くの分野において言えることだが)。

誘う患者,身を委ねる専門家
 そしてその専門家たちが,ここでは患者たちから,専門家としての立場や威厳を保つための肩肘なんて張らずに等身大で一緒に生きていこうよ,と誘われているのである。
 ソーシャルワーカーの向谷地氏も精神科の医師である川村氏も,もちろんさまざまな困難はあるのだろうけれども,その誘いに心地良さそうに応え,その中に身を委ねているように見える。まさに共生しているのである。どう援助し,どう援助されるのかという視点だけでは見えてこない事の本質が本書を通して見えてくる。
 「非」援助論とは,まさに言い得て妙なるタイトルといえる。「援助」と名のつくすべての行為や思考を,あるいはそれに類似した言葉である「介護」「看護」「支援」などが表すものを,この「非」援助論を通して検証しなおす必要があるだろう。
 ここにはあらまほしきコミュニティの原点が,そして私がめざすべきホスピスケアの原点があるように思える。

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