医療専門家でありながら、脳性マヒ者としての自分の身体の声を拾っている (『けんこう通信』より)
書評者:小佐野 彰(脳性マヒ当事者・NPO法人「自立の家」代表)
今回は、2009年12月に出版された『リハビリの夜』(熊谷晋一郎著、医学書院)を紹介します。この本は紛れもなく労作で、著者の障害当事者として「健常者の動きを習得すること」を課題とされたリハビリテーションを受け続け、ついに「健常者の動きを習得することができなかった」体験を振り返り、私たち読者にモノや他者との関係を通して世界とのつながりを考えさせる物語です。全編にわたって鋭い洞察と機知に富む内容となっています。なにせ、私が仕事以外に真面目に読んだ小説以外の数少ない作品なので、記念すべき名著といえます。そこで本の内容に触れる前に、著者の紹介と私との出会いについて若干告白するところから始めたいと思います。
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熊谷晋一郎さんは脳性マヒ者(痙直型)で、電動車イスを使用しながら小児科医として臨床現場で活躍しています。それとともに東京大学先端科学技術研究センターの特任講師として「バリアフリー」や「リハビリテーション」や「全身に障害のある人の二次障害」等の課題に取り組んでいます。そんな紹介をするといかにもエリート然とした厳めしい姿が思い浮かぶかもしれませんが、私が言うと失礼にあたりますが、見方によってはとても愛くるしい顔をしていて、子ども好きで妙に人懐っこいムードを醸し出す不思議な人です。それでいて冴えた論理的な面と哲学的な思考を併せ持ち、現在の私にとっては敬愛する友人の一人なのですが、最初からこのような親しみを感じる関係になれたわけではありませんでした。
私が熊谷さんと初めてお会いしたのは、今から約13年前にさかのぼります。当時、彼は東京大学に入学され、マスコミ等から脚光を浴びる存在でした。私は、縁あって同大学の学生サークルに出入りしていた関係で彼の存在は知っていましたが、私が勝手に抱いていた「障害者エリート」のイメージのために、はっきり言って好感が持てる対象ではありませんでした。それが様々ないきさつを経て彼も私が関係していた学生サークルに入ることになり、その後そのサークル主催の花火大会にともに参加することになりました。そして私が生まれて初めて見る打ち上げ花火に熱中していると、いつの間にか彼がニコニコしながら一升瓶を抱え「一緒に飲みましょう」と言いながら隣にいたのです。そこでつい釣り込まれて一緒に飲むことになり、私の彼に対するイメージが「面白い奴」に変わりました。彼の笑顔はとても印象的なものでした。
それから彼が私の家にちょくちょく遊びに来るようになり、サークルの合宿や飲み会等の様々な場面を一緒に体験しました。その頃、私は彼と会って一緒に飲むたびに「電動車イスに乗っている姿と、床に降りて寝たきりの姿のどちらが本当のお前なんだ? どうやってその二つの姿をつなげていくんだ?」という問答を吹っかけていました。その度に彼から冗談とも本気ともつかずに「またいじめる」と言われたのを思い出します。私としては勿論「彼をいじめる」ためにそんな問答を吹っかけていたわけではなく、私自身が若い頃から「分裂した自分の頭と身体」をつなげるためにもがいてきた体験を振り返り、一緒に仲間として考えていけたらと思っていました。
社会や周囲の人々にとって「ただ黙って車イスに座っている姿」は、一般的な障害のある人のイメージとして受け入れやすいものだと思います。また、本人にとっても周囲に受け入れてもらえるという意味で、安心して自己受容できる姿でもあります。もちろんそれで自らの障害からくる周囲との異質性が消えるわけではありませんが、私の中には幼い頃から「激しい緊張や不随意運動を隠しておけさえすれば、健常者に近づくために懸命な努力を重ねる『障害者エリート』として周囲に受けいれられることで他の重い障害のある人から一線を画す存在になれる」という哀しい意識がありました。しかし、そんな自分がひとたび車イスから降りれば、激しい不随意運動とともにむき出しの障害者存在になってしまうという現実の中で、私はいつも自分の頭と身体の分裂感(喪失感)にもがいてきました。
そんな私と似た部分を彼の置かれた状況に感じていたのかもしれません。そして私の勝手な思い込みなのですが、今回の『リハビリの夜』という本の内容は、熊谷さんからの私への答えだと感じています。
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前置きはさておき、書籍紹介としての本筋に戻りたいと思います。先ず何よりも『リハビリの夜』の内容の凄いところは、医療専門家でありながら最初から最後まで自分の脳性マヒ者としての身体の声を拾い続けようとしたところにあります。「痛いのは困る。気持ちいいのがいい」という身体の声を羅針盤に「リハビリテーション論」や「障害当事者論」を越え、読者に世界とのつながりを考えさせる壮大な物語です。彼は医療専門家の立場から「脳科学」等の成果を縦横無尽に例として引きながら、あくまでも障害当事者の視点を大切に「健常者の動きを習得すること」を課題とされたリハビリテーション(支配/被支配の関係あるいは「まなざし/まなざされる関係」)を受け続けた結果、自らの身体の動きが何者にも拾われずに瓦解していく過程を冷静に分析していきます。
著者は、理学療法士が身体をほぐすためにリハビリを施す時にその人の手が緊張した体幹や手足に触れることで「ほどきつつ拾い合う関係」が築かれ、安心感とともに緊張が抜けていく状況を「折りたたみナイフ現象」として説明していますが、それは脳性マヒ者であれば、リハビリテーション以外の場面でも体験しているのではないでしょうか?
例えば採血やレントゲン撮影をされる時に、動くまいと思うことで余計に緊張してしまう手足に看護師が手を触れることで、すーっと身体の力が抜けていく不思議な状態。著者はそれを「官能」という言葉で表現しています。けれども同じリハビリでも、理学療法士によって意識的に「健常者の動きを習得すること」が課題とされた場合は、気持ちよさに代わって「痛み」と「恐怖」を強く感じてしまい、焦りと敗北感の中で自分の動きがどんどん「健常者の動きを習得すること」から離れてしまう。そのようなリハビリテーションの過程で、理学療法士と著者との関係が支配/被支配の関係あるいは「まなざし/まなざされる関係」に変質してしまう様を切なく描いています。
著者はそのようなリハビリテーションに対する絶望感の中で、地域での自分なりの生活を実現していく過程を通し、脳性マヒ者としての自らの動きを見つめ直し、自分が生きる上で必要とする床やトイレ、電動車イスを始めとするモノや介助者(他者)に身を預け「官能」を感じながら「協同関係」あるいは「ほどきつつ拾い合う関係」を築いていくことに未来の可能性を見出していきます。ですから『リハビリの夜』は読者に世界とのつながりを考えさせるとともに、彼自身の自立に向けた物語であると言えます。
また、著者は物語の後半でリハビリテーションのみに視点を注ぐのではなく、人間にとっての「自由」についても考察します。「健常者と同様に自分で動けるようになることが自由なのか?」ということを突き詰めた結果、モノや他者とつながり、「ほどきつつ拾い合う関係」を持つことこそが、人間としての自由であるということに行きつきます。そしてその「ほどきつつ拾い合う関係」が介助をする/されるという立場を介すことで、容易に「支配/被支配の関係」や「加害/被害の関係」に代わりうる現実も冷静に見つめていきます。
さらに、最終章で他者との関係に生じる「隙間」の大切さについて述べています。例えば、介助者との関係を通して自分の意志や行動を実現したいがために相手を身体化しようと思っても、介助者が独立した他者であるためにどうしようもなく生じてしまう「隙間」こそが、お互いの関係を豊かにしていくことにつながるという洞察はまさに圧巻といえます。障害のあるなしに関わらず、人生はいったん固定化してしまった「ほどきつつ拾い合う関係(支配/被支配の関係に変わりうる)」を敢えてほどき、結び直していくことを通して営まれるという指摘は真実であり、障害のある人の運動における「当事者主権」を越える重要な問題提議だと思います。
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最後に、私は著者が提起する「共同体的自己決定」とでも表現する様な考え方には共感しますし、自分もひとりの脳性マヒ者としてそのような生活や生き方を目指してきました。しかし『リハビリの夜』を読む中で、敢えて問い直したい課題を感じました。それは「ほどきつつ拾い合う関係」が成立する前提条件とは何かという問題です。
残念ながら障害のある人が「支配/被支配の関係」あるいは「まなざし/まなざされる関係」に置かれているのは、リハビリテーションの場面だけではありません。障害のある人は健常者の日常生活や社会関係に適応しきれず、障害が重いほど絶えず介助を必要とすることで、ものを考えたり行動しようとするといつも「周囲から問われたり、頑張りという見返りを求められてしまう存在」になりがちです。そのために他者との関係の中でまるで「裁きを受けているような感覚」を持ってしまう場合があると思います。
その心の傷をどうすれば拭い去ることが出来るのか? これが重要な課題だと思うのです。
もちろん当たり前ですが、日常生活や社会関係の中で障害のある人が一方的な被害者というわけではありません。例えば介助という場面を考えても、自らの障害を武器に障害のある人の方が介助者に対して支配的な関係になることがあり得ると思います。しかし、そういうことを踏まえてもなお健常者の優位性が保たれる社会構造があると思います。
私も他人ごとではありませんが、健常者と障害のある人の社会経験の差異が問題にされたり、健常者が「介助の大変さ」を語ったりした時に、素直に受け止める余裕がなくて「おびえて逃げてしまう」多くの障害当事者の心のありよう(本音)をどう開いていけるかが、重要なのではないでしょうか。私は「ほどきつつ拾い合う関係」を深めていくためには、健常者と障害のある人がお互いの本音や体験を素直に語り合える条件が必要だと思いますし、当面はそのお互いの語りを蓄積していくしかないと考えています。「共同体的自己決定」は素敵な関係だと思いつつ、そんなことを考えてしまいました。
『リハビリの夜』は、私にもそのようなことを考えさせる素晴らしい本なので、是非とも皆さんお読み下さい。
(障害者医療問題全国ネットワーク発行『けんこう通信』第25号より転載)