医学界新聞

連載

2016.12.19



The Genecialist Manifesto
ジェネシャリスト宣言

「ジェネラリストか,スペシャリストか」。二元論を乗り越え,“ジェネシャリスト”という新概念を提唱する。

【第42回】
世界史と日本史――ジェネラルとスペシャル

岩田 健太郎(神戸大学大学院教授・感染症治療学/神戸大学医学部附属病院感染症内科)


前回からつづく

 恥ずかしながら,世界史の講義を取ったことがなく,本当に情けないくらい世界の歴史を知らなかった。日本史も非常に不真面目にしか勉強しておらず,こちらについても恐ろしく無知だった。昔,ぼくはノモンハン事件と日露戦争を取り違えたことがあった。そのくらい無知だったわけで,そのデタラメっぷりがよくわかるだろう。

 しかし,最近わかってきた。歴史の勉強は非常に役に立つ。なぜなら,過去を学ぶことで未来を予測できるようになるからだ。

 別にそんなに大げさな予測ではない。例えば,「新薬は発売されてしばらく経ってから,第III相試験までに発見されなかった思わぬ副作用が見つかることが多い」のは一般法則として過去から学ぶことができ,そしてこの一般法則は将来新発売される薬にもアプライできる。Trovafloxacin(日本未発売), ガチフロキサシン(ガチフロ®)の経口薬,テリスロマイシン(ケテック®)など,世に出てから大きな問題が露見して撤退する薬は少なくない。

 だからぼくは発売されたばかりの薬には,「その薬にしかないプロパティ」が「どうしても必要」なとき以外は手を出さない。そして,「どうしても必要」なシチュエーションはめったにない。だからぼくは,新薬にはほとんど手を出さない。

 HIVに対する治療薬,ドルテグラビル(テビケイ®)が2014年に発売されたとき,日本でもアメリカでも,この直径約9.1 mmと小さい薬に飛びついた。多くの患者には「この薬にしかないプロパティ」が必須ではなかったのだが,“飲みやすい”とか“耐性が出にくい”みたいな理由で,どんどん既存薬から切り替えられた。ぼくのところには担当MRが連日やってきて,「こんな新しいデータがある」とか「こんな非劣性試験がある」とぼくを説得しようとした。

 でも,ぼくはこの薬について「わかっていること」ではなく,「まだわかっていないこと」を根拠に手を出していなかった。だから彼の説得をほとんど無意味に感じていたが,そのことは彼には理解してもらえなかったようだ。

 発売してから1年もたつと,この薬は精神・神経系に副作用を生じることがわかってきた。ぼくの元に来たある患者は,あれやこれやのさまざまな不定愁訴を持っていたが,テビケイ®を止めて既存の抗HIV薬(ほとんど副作用について知り尽くされている,「歴史の重み」のある薬)に替えたら,そういった諸症状はゼロになった。テビケイ®の添付文書が改訂され,精神・神経系の副作用に記載が増えたのは,2016年6月のことだ。

 この未来予測に,特別な知性は必要ない。ただ,医薬品の歴史をちょっと丁寧に振り返ってみればすぐわかることだ。しかし,その「ちょっと振り返る」ことがなされていないために,日本ではどの領域においても,新薬が発売されると,信じられないくらい爆発的に良く売れる。

 まあ,そんなわけでぼくは割と真剣に世界史や日本史を勉強するようになった。その結果,『日本の科学技術』(原書房)というシリーズに日本の感染症対策の歴史をまとめる機会を得たし,『サルバルサン戦記』(光文社)という秦佐八郎の伝記を書くこともできた。またこのようなアウトプットを通じて,さらに歴史を勉強することができた。

 とはいえ,歴史の大事さについては気付くのが遅過ぎたとも思っている。繰り返すが,若いころに世界史と日本史を真面目に勉強してこなかったことについては,自らの不明を恥じ入るばかりである。

 ところで,日本史は世界史に比べると扱っている領域が極めて狭い。世界史はアジア,ヨーロッパ,アフリカ,アメリカ大陸その他諸々の地域を扱い,その範囲はちっぽけな日本列島の歴史よりもずっとずっと広い。

 そういう意味では世界史はジェネラル,日本史はスペシャルという見方もできなくはない。しかし,通常「日本史」という領域を“スペシャル”な領域ととらえる人は少ないだろう。歴史の“スペシャリスト”はもっと狭い範囲の専門家のことを言い,例えばそれは「戦国時代の専門家」かもしれないし,「関が原の戦いの専門家」かもしれないし,「関が原の戦いにおける真田昌幸の動向の専門家」かもしれないし,「関が原の戦いにおける真田昌幸の部下の忍の動向の専門家」かもしれない。

 こうして考えてみると,“ジェネラル”か“スペシャル”かという分類は極めて恣意的である。世界史と日本史では,明らかにその守備範囲の広さに違いがあるが,守備範囲の違いをもってジェネラルとスペシャルには分けられない。ジェネラルとスペシャルの分水嶺は,歴史学領域のどこにも見いだすことができないのではなかろうか。

 実は医学医療の領域においても,ジェネラルとスペシャルの区別は難しい。このことは繰り返し書いているが,今回の「世界史」と「日本史」が非常にわかりやすい例で,(ぼくにとっては)腑に落ちたので再度ここに取り上げた。

 同様のロジックを使うといろいろ見えてくるものがある。例えば「ホスピタリスト」はジェネラリストか? という疑問も,実はあまり意味のない疑問だとわかる。ぼくはこれまでに「在宅をやらないと真のジェネラリストじゃない」とか「やっぱり小児も診られないと」とか「妊婦健診や分娩ができないと」とか「外傷,熱傷もできなきゃ」とかいう主張をいろいろな人から聞いてきたが,いずれもまったく意味がない。そのロジックは「エジプトを抜きに,歴史を語るな」とか「百年戦争を扱わずに,何が歴史だ」というのと大同小異である。よく言われる「継続性」とか「包括性」,その他のキーワードにも,実は意味がない。

 意味のないことが悪いのではない。「意味がないと気付くこと」が大事なのだ。それは自分たちの“とらわれ”から己の身を解放することだからだ。

 いかにカッティングエッジな歴史領域を専門にしていても,歴史全体のパースペクティブを学んでいることの意味は大きいと思う。歴史はしばしば反復の連続であり,洋の東西を問わず同じ話が繰り返されるからだ。その反復構造の一般化は,新薬に副作用が見つかっていく過程にも違った世界を見せてくれると,門外漢はそのように感じるのである。

 要は「ジェネラル」と「スペシャル」の意味のない二元論を超越した“ジェネシャリっていいですよね”といういつものオチである。

つづく

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