医学界新聞


『「脳コワさん」支援ガイド』を読む

寄稿 上田 敏

2020.08.24

「脳コワさん」とは耳慣れない言葉であるが,「こわれた人」の略で,もともとは著者の奥さんの造語だという。

『「脳コワさん」支援ガイド』(医学書院)の著者である鈴木大介氏は「社会派」のルポライターで,『家のない少女たち――10代家出少女18人の壮絶な性と生』(宝島SUGOI文庫,2010年),『最貧困女子』(幻冬舎新書,2014年),『老人喰い――高齢者を狙う詐欺の正体』(ちくま新書,2015年)など,「社会的弱者」を守る著書を若くして10冊近く出していた。しかし,過労のためか2015年に41歳で右脳の脳梗塞を発症。幸い麻痺は軽く,すぐに歩行でき,左手の麻痺も間もなく回復したが,左半側空間無視をはじめとする多彩な高次脳機能障害に大いに苦しむことになる。

その中で氏が「ハッ」と気付いたのは「自分のこの苦しみは,ルポの対象だった家出少年や貧困女子などに多かった発達障害の苦しみと同質のものではないか!」ということであった。

入院の初期から長く続いた,左側の世界が存在しない(あるいは,変なものがありそうで怖くて見られない)という感じ(半側空間無視)。右側にある何かに視線が吸い寄せられ,そこから目が離せなくなること(注意障害,特に「注意の分割」の困難か?)。考えがまとまらず,整理して話すことができず,また忘れやすく,話している途中に何を話すのだったかが頭から抜けてしまう。人の話も長くなると前に聞いたことを忘れてしまい,訳がわからなくなる(同じく読み書きも困難)などの症状(記憶障害,特に短期記憶の障害+α)。そして,少し努力すると襲ってくる猛烈な睡魔(易疲労性)にもようやく慣れて退院の日を迎えた。

しかし外の世界に出てみると,そこはすさまじい騒音と,目がくらむばかりの光と,行き交う人々がみんな自分めがけて押し寄せてくるような圧迫感の世界であり,立ちすくみ,しゃがみ込んでしまい,「病院というのがいかに保護された空間だったのか!」を痛感することになる(注意障害と感情コントロール障害だろうか?)。

このような高次脳機能障害者の「内的世界」の開示はわれわれ医療・介護・福祉等の援助職にとって非常に貴重なもので,これまでの「謎」の多くを解き明かしてくれる。

これを見ていた奥さんに「ようやく私の気持ちがわかったか!」と言われて彼は「ハッ」とする。実は奥さんは生来の発達障害で,注意障害その他のさまざまな高次脳機能障害をもっていた。そのような「脳コワさんである私の気持ちがやっとわかったか」だったのである。

著者の「ライター魂」はすさまじく,発病の12日後(!)に新潮社の担当編集者に誤字・脱字,誤変換だらけのメールを送って「なんとかこの当事者感覚を文字に残したい」とお願いしたという。そうして1年後には『脳が壊れた』(新潮新書,2016年)を出し,その1年半後には立て続けに『されど愛しきお妻様――「大人の発達障害」の妻と「脳が壊れた」僕の18年間』(講談社,2018年)と『脳は回復する――高次脳機能障害からの脱出』(新潮新書,2018年)の2冊,さらに昨年末には初めての小説『里奈の物語』(文藝春秋,2019年)まで出した。そして今年5月の本書の刊行に至ったのである。

若い時からの「得意技」が「書くこと」であり,今回は対象が(小説は別として)いくら「自分」という「知り尽くした」ものであったとしても,さまざまな高次脳機能障害の症状に悩みながら,その症状を抱えた自分のことをリアルに描いていくというのは非常に困難なことだったと思われ,著者の根性に讃嘆の他はない。

しかし,角度を変えて考えると,「5年間に5冊」というハイペースの執筆は,ご本人が自覚していたかどうかは別として,鈴木氏の高次脳機能障害に対するもっとも有効なリハビリテーション(機能回復訓練)だったと言ってもよいのではあるまいか?

過敏な脳,疲れやすい脳を「壊れる」寸前まで酷使して,時には「ちょっと休もう」と思って横になったら何時間も「爆睡」してしまい,真夜中に目覚めて執筆を再開したり等々(評者の想像)……。若いからこそできたことだが,壊れかかった,しかし「若い脳」が酷使に耐えて,その刺激によって目覚ましい回復を見せたのではないか……と考えてみたくもなるのである。

「今でも記憶面や感覚過敏などで多少の障害が残ってしまっていますが」(本書p.5)という程度に,発病直後とは雲泥の差のところまで回復した著者であり,ルポライターとしての念願の復帰もそう遠くはないのでは? と希望的観測をしてみたくもなる。

さて,本書はプロローグ2部と全5章からなる。

プロローグ1「脳コワさんってなんだろう」では,発症直後の「信じられないほど当たり前のことができなくなってしま」った自分,「四六時中胸の中が『感情でいっぱい』」で「きれいな景色や音楽の旋律などにいちいち『号泣』」する私を紹介しつつ,これは「あの人たちと同じだ!」と気付き,「見過ごされる当事者たち」がいかに多いか,に驚く。

プロローグ2「脳コワさん支援の難しさ」では,「4つの壁」があるとして,①「聞き取りの壁」:援助職側が当事者の訴えを聞き取ることの難しさ,②「受容の壁」():当事者が,自分の不自由がどんな障害から起きているのかを理解することの難しさ,③「言語化の壁」:当事者がその苦しみを「言語化」して援助職に訴えることの難しさ,④「自己開示の壁」:家族や職場など身近な人々に配慮をお願いすることの難しさを挙げ,「今こそ当事者と援助職が協力するとき」だと訴える。

このようにプロローグで提起した課題を,続く第1~5章で丁寧に答えていくことになるが,すでに本稿予定の分量に近づいたので,あとは本書を読んでいただくことにして,タイトルだけを紹介することにしたい。

【全5章の構成】

  • 第1章 病名は違えど困りごとは同じ
  • 第2章 「楽」になるまでの8つのステージ
  • 第3章 「4つの壁」に援助職ができること
  • 第4章 脳コワさんの生きる世界
  • 第5章 全援助職に望む支援姿勢

これに加えて,多数のコラム,「グラフィックレコーディング」と呼ばれる豊富なイラストレーション(多くは見開きで)が含まれ,非常に多彩な本である。

リハビリテーション医学の最新にして最後の課題と評者が考える高次脳機能障害について,当事者がこれだけ整理して書いた本書は,リハビリテーション医学への大きな学問的・技術的貢献であると考える。

本書は支援者にとっても新しい発見に満ちた,「高次脳機能障害当事者の内的世界への招待」である。リハビリテーション,看護,介護,福祉の関係者にぜひ読んでいただきたい書籍である。


:この「受容」は,リハビリテーション医学で普通にいう「障害の受容」のことではなく,障害名・症状名の「認識・理解」のことである。本書ではあと数か所「受容」が出てくるが,いずれも同様である。

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日本障害者リハビリテーション協会顧問/元東京大学教授

1956年東大医学部卒。同大病院冲中内科で内科・神経内科を研修。64年米ニューヨーク大リハビリテーション医学研究所に1年間留学。84年に東大教授,リハビリテーション部部長に就任。92年に定年退官後は帝京大教授,帝京平成大教授を務める。86~87年日本リハビリテーション医学会会長,97~99年国際リハビリテーション医学会会長を歴任した。

『リハビリテーションの思想――人間復権の医療を求めて(第2版増補版)』『科学としてのリハビリテーション医学』『リハビリテーションの歩み――その源流とこれから』(いずれも医学書院)など著書多数。
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