新年号特集 認知症と共に生きる
認知症基本法の意義と今後への期待
寄稿 栗田駿一郎
2024.01.01 週刊医学界新聞(通常号):第3547号より
2023年6月14日,参議院本会議において「共生社会の実現を推進するための認知症基本法案」(以下,認知症基本法)は起立採決され,全会一致をもって「可決・成立」となった。私も仕事の傍ら,参議院のインターネット中継を通じて,その瞬間を見守っていた。関係者間での議論が始まって,足かけ8年。晴れて,一つの区切りを迎えた。
認知症基本法ができるまで
国会での議論は,古屋範子衆議院議員(公明党)が,2015年3月12日の衆議院予算委員会において,安倍晋三首相(当時)に対し「府省を横断した認知症のための基本法をつくるべきではないか」と質問したことに始まる(表)。その後,各党で認知症基本法案の構想が練られ始めたほか,18年には国会内で超党派の議員勉強会も始まった。翌年には政府による認知症施策推進大綱と時を同じくして,認知症基本法案(旧)が自民党・公明党の有志議員による議員立法として提出された。しかし議論は進まず,21年に廃案となった。一方で,同年には超党派議員による「共生社会の実現に向けた認知症施策推進議員連盟」が発足。22年の参議院選挙以降,本格的に議論が進められ,認知症の本人,家族等のケアラー,研究者,医療介護関係者などのヒアリングを通じて法案の取りまとめが行われた。23年5月に議連総会において了承され,超党派の合意による議員立法として国会へ提出,今回の成立に至った。
法律は三十七の条文および附則から構成される。冒頭では法律の目的や定義,基本理念を掲げ([対談・座談会]認知症と共により良く生きていくの図を参照),国や地方公共団体,事業者や国民の責務を規定する。さらには,国および都道府県・市町村が策定する計画について明記されている。そして,12の基本的施策が列挙されている。そして内閣総理大臣を本部長とする認知症施策推進本部や,認知症の人や家族も参画する認知症施策推進関係者会議の詳細が記載されている。
認知症基本法が認知症政策にもたらす意義
「基本法」と名の付く法律はこれまでも多く制定されており,その数は現在50を超える。基本法に明確な要件はなく,これまでの研究ではいくつかの類型が示されてきたが,総じて「特定の政策分野の方向性を示す役割を持つもの」と理解されている。保健医療分野では,がん対策基本法を筆頭に,脳卒中・循環器病対策基本法,肝炎対策基本法,アレルギー疾患対策基本法などがあり,隣接する社会福祉分野でも障害者基本法を筆頭に複数の基本法がある。特に平成期以降は,議員立法による基本法の制定が顕著になっている。これは,この時期の政治・行政改革が,官僚主導を脱し政治主導を志向する流れの中に位置付けることができよう。つまり議員立法による基本法には,政府の現行政策の承認ではなく,将来に向けた政策の展開を規定するような内容が求められるのである。その点において今回の認知症基本法は,これまでの認知症政策を踏襲しない,新たな政策的規範・価値の定義付けを行ったという点で,議員立法による基本法として意義があったと言える。
これまでの認知症政策は,医学モデルと社会モデルの揺らぎの中を歩んできた歴史がある。戦後,認知症の人たちは,公的医療保険制度や医療提供体制の整備に伴って医療の対象として長らく位置付けられてきたが,介護保険制度の整備と共に彼らの生活者としての側面が注目されるようになった。それ以降においても,医学の進歩によって完治をめざし,さらには予防を可能にしようとする試みと,認知症になっても安心できる社会づくりをめざす試みの狭間で揺らぎ続けてきた。
今回の認知症基本法は,これまでの揺らぎ・相克を乗り越えたと言えるのではないだろうか。法律の名称は「共生社会の実現を推進するための認知症基本法」とされ,第一条(目的)では,共生社会を「認知症の人を含めた国民一人一人がその個性と能力を十分に発揮し,相互に人格と個性を尊重しつつ支え合いながら共生する活力ある社会」と定義付けた。2019年に政府が策定した認知症施策推進大綱では,「共生」の定義として「認知症の人が,尊厳と希望を持って認知症とともに生きる,また,認知症があってもなくても同じ社会でともに生きる」とされていた。両者を比較すると,今回の認知症基本法は,認知症の有無によって線引きをしない,同じ国民としてどのような社会を作るのか,というこれまでにない視座に立って作られたことがわかる。そうした枠組みの中で,行政や医療・介護・福祉,さらには生活にかかわる公共交通機関やさまざまなサービス業等,認知症の本人や家族にかかわるあらゆる物事が進められることとなる。
「当事者参画」も重要な視点とされている。第三条(基本理念)の第三項では「自己に直接関係する事項に関して意見を表明する機会及び社会のあらゆる分野における活動に参画する機会の確保」が明記され,社会づくり(第十六条第一項)や研究開発(第二十条第三項),政策形成(第三十四条第二項)への参画が位置付けられた。さらには「全ての認知症の人が,基本的人権を享有する個人として,自らの意思によって日常生活及び社会生活を営むことができるようにすること」(第三条第一項)と,いわゆる「権利モデル」の姿勢が明確化された。この部分は,これまでも必要とされてきた社会モデルから一歩踏み込んだ政治化がなされ,個人のニーズの充足ではなく社会構造の変化をめざし,その手段としての市民権の希求を明確にしたものであると理解することができよう。
またこうした意識は,基本的施策への言及など細部からも読み取れる。これまでも度々議論を呼んできた「認知症予防」に関する条文(第二十一条)では,「希望する者が科学的知見に基づく適切な認知症及び軽度の認知機能の障害の予防に取り組むことができるよう」と記された。得てしてパターナリズムに陥りがちな予防・健康増進施策において,一人ひとりの市民を意思決定の主体とする書きぶりがなされたことは,同様に疾病対策や健康増進をめざす他の法律と比較しても画期的である。
自らの手で社会を変えていく
認知症基本法の制定によって,直ちに社会が変わるわけではないことは自明であろう。社会を変えるための理論的基盤ができたにすぎない。今後,認知症基本法に掲げた「共生社会」を実現するには,地域社会からのボトムアップによる積み重ねが必要不可欠だ。そのカギを握るのが,都道府県・市町村レベルでの取り組みである。
筆者は2021年に自治体の認知症条例について比較調査1, 2)を実施した。条例制定プロセスにおける認知症の人や家族等の参画の在り方は,自治体によって大きく異なっていた。認知症基本法では都道府県や市町村の計画策定は努力義務としての位置付けであるが,実際にはほとんどの自治体で策定されると想定される。改めて,各自治体の計画策定プロセスに大いに注目をしたい。各地の当事者が策定プロセスに参画し,課題を洗い出す。そうして「わがまちの認知症計画」が作られることが期待される。一方で,こうした政策形成過程への当事者参画の取り組みが,行政の努力任せになることがないよう,関係するステークホルダーも積極的にその人選や参画方法に対して意見を出し,決して形だけの参画になることのないよう,努力することが求められる。
近代民主主義の理論的基礎である社会契約説は,私たち市民が社会を作ったのであり,その社会は私たち市民が変えられると説く。認知症基本法という「道具」を手に入れた私たちは,「共生社会」に向けて自らの手で社会を変えなくてはならない。
参考文献・URL
1)日本医療政策機構.住民主体の認知症政策を実現する認知症条例へ向けて.2021.
2)栗田駿一郎.認知症条例の意義と先進自治体の動向.実践自治Beacon Authority.2021;88:19-25.
栗田 駿一郎(くりた・しゅんいちろう)氏 日本医療政策機構 シニアマネージャー
早大政治経済学部政治学科卒。東京海上日動火災保険株式会社を経て,日本医療政策機構に参画。祖母の認知症発症をきっかけに,認知症政策を主たる研究テーマとする。早大大学院政治学研究科専門職学位課程修了。東京都立大大学院人文科学研究科社会福祉学教室博士後期課程在学中。現在,東海大健康学部非常勤講師。専門は公共政策学(政策過程論・社会政策)。
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