医学界新聞

寄稿 平尾真智子,城ヶ端初子,金井一薫,小川典子,和住淑子

2022.11.28 週刊医学界新聞(看護号):第3495号より

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 ナイチンゲール(1820~1910)の生涯と「看護覚え書」について学びながら,基礎看護学で学ぶ普遍的な看護への理解を深めることをめざす『ナイチンゲール「看護覚え書き」入門』(医学書院)がまもなく刊行されます。そこで,ナイチンゲールが唱えた看護理論を現代看護にどう活用すればよいか悩む看護師・看護学生に対して,ナイチンゲールの看護理論に造詣の深い先生方からメッセージをいただきました。

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 看護理論のテキストでは,ナイチンゲールが最初の看護理論家として登場する。ナイチンゲールの思想は19世紀に突如として現れたものなのか。医療は古代から連綿と続いており,それに伴い医療に不可欠な要素として,看護に類する行為も並行して行われてきたのではないか。医学史の中にヒントになる考え方はないだろうか。

 1981年に筆者は日本看護協会看護研修学校で,微生物学者で医学史研究者の川喜田愛郎先生の講演「医学史からみたナイチンゲール――健康の意味をめぐって」を聞き,医学史上の「non-naturals(非自然的なもの)」という概念とナイチンゲールが『看護覚え書き』(看護学生が読み間違いをしないように,本稿では『看護覚え書き』表記を使用した)で主張している内容とが類似していることを初めて知った。Non-naturalsは古代ローマのギリシア人医学者ガレノスの医学思想の重要概念の1つで,今日の衛生学に相当する。その内容は光と空気,食物と飲物,運動と休息,睡眠と覚醒,排泄と保持,心のはりの6項目(いわゆるsix non-naturals)から構成される。川喜田先生は,病人を中心にした場合に医療はケアしかなく,キュアはケアの特殊な形であるととらえていた。この視点こそが,筆者が看護職でありながら医学史を含めて看護史を研究する糸口となった。医学も看護学も患者の治癒という共通の目的に仕える広義の技術学で,近代科学の発展と社会・制度の変容とが医師と看護師という2つの独立したプロフェッションを生んだのは歴史的な必然であり,それらは本質的に1つの技術(アート,テクネー)とみるのが妥当であるとしていた。

 長い間,看護は言語化されず,経験知,実践知,暗黙知で伝えられてきた。ナイチンゲールはドイツで受けた看護の教育,ロンドンの病院やクリミア戦争での看護体験などを基に看護を初めて言葉にし,『看護覚え書き』に表現した。ナイチンゲールの看護論は現在の新たな看護理論の基盤にもなっており,同書の内容を理解するには現代からの解釈だけでなく歴史的な視点が欠かせない。このことを教えてくださったのは川喜田先生である。先生は,中世ヨーロッパにナイチンゲールの看護論に類する概念(non-naturals)があったことを強調された。この概念が川喜田先生によって日本の医学史界に紹介されたのは1979年のことで,それまでの日本ではほとんど知られていなかった。

 まもなく発行される『ナイチンゲール「看護覚え書き」入門』(医学書院)は『看護覚え書き』に医学史の視点も含めてナイチンゲール看護論を解説したもので,筆者の40年間に及ぶ研究の結晶である。ナイチンゲールの著作はいつ読んでも必ず何かの発見がある。ぜひ原書を手元に置いて,その高い香りに触れてほしい。


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 私が『看護覚え書』を初めて読んだのは看護学校1年生の夏休みであり,「看護学概論」の授業の課題レポートに取り組んだのがきっかけであった。『看護覚え書』からは病気や人間,環境を看護の視点でとらえる重要性を学び,初めて読んだ時は驚きの連続であった。私がとらえていた「病気」や「看護」に対する考えが根底から覆されたからである。

 当時の私は,病気とは「全身あるいは身体の一部に異常を来たし,本来の機能が働かず何らかの支障や症状が現われた状態」ととらえていたので,「病気が回復過程である」というナイチンゲールの主張に納得できず混乱していた。しかし,数日後に再度病気という概念を考え直す中で次の文に注目した。「病気とは外因によって侵されたり内因によって衰えたりする過程を癒そうとする自然の働きである」1)。確かに人間は,外部から害や毒があるものから侵襲を受け,体内ではそれに対応しバランスを取る働きが生まれるではないか。そうした侵襲や衰えを癒す自然の働きが病気であると知った。医学とは異なる看護独自の視点から病気をとらえる重要性を知り,とても大きな喜びになったことを今でも鮮明に思い出せる。

 また本書には,看護とは「患者の生命力の消耗を最少にするように生活を整えること」1)とある。これも当時の私には難問であった。しかし,本書を読み進める中で,看護とは与薬を行い湿布を貼ることではなく,新鮮な空気・陽光・暖かさ・静けさ・清潔さを適正に保ち,食事の選択と管理などで生活を整え,患者の生命力の消耗を最少にするよう支援することであるととらえられるようになった。看護の意味がわかると,長らく気になっていた本書のサブタイトル「看護であること,看護でないこと」の真意が理解できたのであった。私の夏休みはほとんど『看護覚え書』との格闘に費やされたものの,充実した学びの多い時であった。

 『看護覚え書』を初めて読む者は本書を難解であると思いがちだ。しかし,一歩進めて読み込むことで,本書の解釈はもちろん,新しい気づきや考えが湧いてきて大きな学びにつながっていく。本書は看護に関してくめども尽きない豊かな泉のようである。また,本書は時代や国・地域が異なっても,普遍的な看護思想として私たちに看護の基盤となるものを教えてくれる頼もしく素晴らしい一冊である。私は看護師として仕事をしてきた中で,何か行き詰まった時はいつも本書を読み,解決を図ってきた。私にはなくてはならない一冊である。ぜひ本書を機会あるごとに読みこんでいただきたい。

 なお,私は今「ナイチンゲール看護研究会・滋賀」という研修会を開いており,地域の看護職や本学の教員・学生を対象に,ナイチンゲールの看護思想を実践に生かすことをめざしている。現在はコロナ禍の影響によりオンライン上で開催しているものの,臨床の看護師や看護学生であれば誰でも参加できるので,もし興味のある方がいればご参加いただきたい。

1)F. Nightingale(著),湯槇ます,他(訳).看護覚え書――看護であること看護でないこと.現代社;1968.


 私が看護師のライセンスを取得して間もない頃,初めて手に取った『看護覚え書』に,「なぜ,ナイチンゲールは『看護覚え書』の冒頭に“病気とは何か”」という難しい課題を持ってきたのだろう?」「“病気とは回復過程である”とは,いったいどういうことなのか?」という疑問を抱いた。私の知る限り,アメリカの看護理論と名の付く著作において,病気とは何かという課題から解き起こした書物は存在しない。『看護覚え書』の特徴はまさにこの点にあると私は考え,この数十年間を通して一貫してこのテーマを追いかけ続けている。本稿では,私が勧める『看護覚え書』の読み方を記しておきたい。

 まず本書のタイトルとサブタイトルに注目してほしい。原題のタイトルは『Notes on Nursing』と平凡なもの,サブタイトルは『What It Is, and What It Is Not』である。このサブタイトルにこそ,ナイチンゲールが本書を著した目的が示されている。「何が看護で,何が看護でないか」,本書を読めばそれがわかるとナイチンゲールは言う。つまり,本書が出版された1860年にナイチンゲールは既に看護の定義を見いだし,何が看護であるか,どうすれば看護になるかという答えを本書によって提示していたのである。「『看護覚え書』には看護とは何かへの答えが載っている」という発見は,己の看護師人生に揺るぎない自信を持たせてくれた。迷ったらここに戻ればよいからだ。

 では,「看護とは何か」をどう考えればよいのであろうか。それには「病気とは何か」を理解することが必須条件である。体内に何らかの異変が生じた場合,それが細胞レベルや臓器レベル,また全身の機能レベルであっても,体内には必ず何らかの「回復のシステム」が発動して,元の正常な状態に戻そうとする動きが起こる。ナイチンゲールはこの状態を「回復過程」と呼んだ。

 私は長年の研究課題をこの点にとらえた。そして,体内で発動する「回復過程」の具体的な姿を理解し,それを看護実践に生かす実践方法論を編み出した。ナイチンゲールの時代は現代のように生命科学が発達していなかったので彼女は具体的に表現できなかったのだが,今は違う。現代の生命科学が解き明かしたさまざまな知見を駆使すれば,体内で発動する「回復過程」の姿は見えてくる。例えば,細胞同士が情報交換を行い,異変をキャッチして傷ついた細胞を修復・再生させるプロセスは回復過程である。そして,この回復のシステムを体内で発動しやすくするために,生活を健康的に整えていくことが看護なのだ。その意味で『看護覚え書』は生命科学論であり,生命誌論であるとも言えよう。

 1993年,私は看護師たちが看護の方向性を見失わないように,ナイチンゲールの看護思想をベースに5つの看護のものさし(KOMIケア理論)を作った。①生命の維持過程(回復過程)を促進する援助,②生命体に害となる条件・状況をつくらない援助,③生命力の消耗を最小にする援助,④生命力の幅を広げる援助,⑤患者自身の持てる力,健康な力を活用し,高める援助,の5つだ。①~⑤に沿って看護目標を設定すれば,必ずや「看護であるもの」を実現できるはずだ。特に③と⑤のものさしを使って患者を観察し,課題を特定して看護の方向性を定めれば,患者にプラスの変化を起こせるだろう。

 『看護覚え書』は当時の人々に健康な暮らしの実現を促し,病気を予防することを狙いとして書かれたものだ。この思想は現代とこれからの社会の根底にもとらえるべきもので,時代と国を超えて継承されるべき不動の視点である。


 『看護覚え書』(原題:Notes on Nursing)の冒頭は,「病気とは回復過程であるDisease a reparative process」で始まっている。筆者は,この意味について学生とディスカッションすることから看護理論の授業を始めている。ナイチンゲールは,病気(Sick)と健康(Health)の概念は流動的な一巡りのprocessであり,病気と健康は形容詞的な存在であって人間の管理下にあると言う。NatureはGodではなく人間の中にあるvital powersであり,病気とは人間のvital powersの修復過程だと言う。さらにcureとcareは,対比されるものではなく,共にvital powersを助けるように作用すると。つまり,病気(Sick)⇔健康(Health)は続いていて表裏一体であり,境は存在しない。陰陽というか,同じ表象を別の側面から見ていることなのではないか。これはまさに近年ノーベル物理学賞を受賞した量子論に通じる。全ての事象は両義的であり,量子のぶつかり合いまたは揺らぎから起きている。すなわち,ナイチンゲールの看護理論は量子力学の最先端の考えにつながっているという新しい解釈も登場し,学生とのディスカッションは盛り上がる。人間の生死は医療を超えており,医学では治癒できない場合,そこに入り込む力があるのが実は看護であると。

 本学では,『看護覚え書』の訳者である小玉香津子先生から私がナイチンゲールの看護論を学んだ方法(なるべく原書の原文を読みながら,彼女の言葉を感じ取る方法)で学生たちに教えている。学生に必ず読んでもらう章が,短い第5章「変化Variety」だ。8ページの短い章なので,精読し現代にも通じると思うところを抜き出すという事前課題を出している。この短い章のありとあらゆるところから,今日の在宅看護論にも通じる多くの発見が得られる。例えば,「病人たちは自制心を働かせている」からは,patient(名詞だと患者,形容詞だと忍耐強い)の語源は患者が治療のためにあらゆることに耐え我慢していること,「気まぐれ(fancys)が,その患者の回復にとって何が必要であるかを教えてくれる」からは,色と形は回復への鍵であり,変化は回復への手段であることが読み取れる。「ちょっとした針仕事,書き物,掃除などが患者の救いとなる」といった発見もある。

 また,ナイチンゲールの他の著作『病人の看護と健康を守る看護』(原題:Sick Nursing and Health Nursing)の冒頭は「看護はアートであり,サイエンスでもある」で始まっている。Sick NursingとHealth Nursingも両義的であり,表裏一体でつながっているのだと。『看護覚え書』発刊以降の40年間に新しく創造された新しいプロフェッションである看護師(Nurse),主として病院にいる病人の看護をSick Nursing,家庭における生活の営みの中にある健康についての看護をHealth Nursingと彼女は呼ぶ。Scienceを多く必要とするSick Nursingと,Artがより必要となるHealth Nursingについて,家族を単位とした人間の生活や地域の健康についての新しい,今日の在宅看護論につながる概念が本書で述べられている。ScienceとArtは対立概念ではなく,看護の両義性,むしろ表裏一体の概念として彼女は語っているのではないか。

 加えて,ナイチンゲールは『病人の看護と健康を守る看護』で不治の病にも言及している。彼女が当時感じていたのは「医学には限界があるが,看護には限界がない」ことだったのかもしれない。当時から看護に無限の可能性を感じていたという意味で,やはりナイチンゲールはすごい人なのだな,とつくづく感じている。


 私が『看護覚え書』を初めて読んだのは,看護学部1年生の「看護学原論」の授業の時である。「人の役に立つ仕事をしたい」と思って看護の道を選んだ私は,入学当初,看護に対して理念的で崇高なイメージを抱いていた。ところが,授業で読んだ『看護覚え書』の中で,ナイチンゲールは「看護とは,新鮮な空気,陽光,暖かさ,清潔さ,静かさなどを適切に整え,これらを活かして用いること,また食事内容を適切に選択し適切に与えること――こういったことのすべてを,患者の生命力の消耗を最小にするように整えること」1)であると述べていた。当時の私には,この記述が「普通の人でもできそうな当たり前のことを徹底してやるのが看護だ」と言っているように感じられ,「看護とは,何かもっと専門的な技術を提供することなのではないか」と,彼女が唱える看護の定義に納得できなかったのを覚えている。その後,大学ではさまざまな看護の専門知識や技術を学んだものの,ナイチンゲールの看護の定義には依然としてしっくりこないままであった。

 最後の臨地実習では,ハンセン病による難治性足底部潰瘍の専門的治療のため,遠方の療養所から現在の療養所に1年前にやってきた患者さんを受け持った。車椅子移動技術を使うことはあったが,ほとんどの実習時間を患者さんが趣味でやっている療養所内での陶芸や囲碁,療養所外への買物への同行をして過ごした。買物への同行後,患者さんは退院後に一時的に滞在する予定の生活施設で開かれる自分の歓迎会で着るセーターを私と一緒に選べたことをとても喜んでくれた。その日の看護記録にも「学生さんと外出,活気++」と書かれていた。

 しかし,買物に同行しセーターを選ぶことは,看護師でなくてもできる。「私のしたことは本当に看護なのか」「最後の臨地実習なのに,普通の人にでもできることをやっただけではないのか」との疑問が湧き上がり,その時改めてナイチンゲールの看護の定義と向き合った。『看護覚え書』をよく読んでみると,ナイチンゲールは「こういったことのすべてを,患者の生命力の消耗を最小にするように整えること」が看護である,と言っていたのだ。つまり重要なのは,どのような行為が行われるかではなく,行為を導く意図に「患者の生命力の消耗を最小にする」という一貫性が持たれているかを問うているのである。「患者と陶芸をしたり,買物に行ったりするのは看護なのか」と悩んでいた自分は,行為だけに注目していたのだと気づいた。そこで改めて,患者さんの趣味の陶芸や囲碁を行う,療養所外への買物に同行するといった私の行為を導いていた意図を思い返してみると,「故郷を遠く離れた療養所で生活する患者の生きがいを支援し,退院後の新たな人間関係の構築に向けて患者が準備するのを支援している」点において,患者の生命力がうまく発揮できるように生活過程を整えていることになっていた,と自己評価できた。そしてこの時初めて,患者の生命力拡大を規準に看護師の行う行為の意味を見いだし,患者の生命力の発揮を支援できたかどうかで看護の評価をする,という看護の専門性を私は得心できたのである。これが,私にとってのまさに看護の「開眼」であった。

 以来,看護師として,看護教員として,看護学研究者として本書を読み続け,日々新たな発見を楽しんでいる。

1)F. Nightingale (著),湯槇ます,他(訳).看護覚え書――看護であること看護でないこと 改訳第7版.現代社;2011.pp14-5.

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