医学界新聞

寄稿 儀賀 理暁,川越 正平

2021.06.07 週刊医学界新聞(通常号):第3423号より

 2016年に改正されたがん対策基本法では,新たに学校教育等におけるがん教育の推進が盛り込まれた。17年に改訂された学習指導要領には「がん教育」が明記され,中学校では21年度から,高等学校では22年度からそれぞれ実施される。

 文科省によるがん教育ガイドラインで医療者など外部講師の参画が謳われる中で,教育現場では医療者のどのようなかかわりが期待されるのだろうか。

 学校でがん教育などの授業を展開する儀賀氏と,子どもたちに対する健康教育を地域で実践している川越氏,それぞれの立場から寄稿していただいた。


 例えば「桶狭間の戦い」の名前を聞いたことがない方はいないでしょう。出陣直前の織田信長が,「人間五十年~」と幸若舞『敦盛』を舞った逸話はあまりにも有名です。では,ほどなく名古屋中心部に入る国道一号線に桶狭間という交差点があること,緩やかなアップダウンが続く地形であること,そこから少し足を延ばした所が激戦地であること,今川義元の本陣は「おけはざま山」だったことなどを,体感したことがある方はどのくらいいるでしょうか?

 ふらりと立ち寄った桶狭間の交差点で,私は立ちすくみました。授業や小説や映画等から得た「情報」と,風景の中に身を置いたことから導き出された「認識」が自分の内側で融合したその時,私は桶狭間の戦いを初めて「学んだ」のです。

 ではがん教育の現状はどうなっているでしょうか。文科省が提示する『外部講師を活用したがん教育ガイドライン』の冒頭には,「がん専門医をはじめとする医療従事者やがん経験者等,学校外の人材を積極的に活用することが重要である」1)と記載されています。

 なぜそれは重要なのでしょうか? 同ガイドラインはがん教育を「健康教育の一環として,がんについての正しい理解と,がん患者や家族などのがんと向き合う人々に対する共感的な理解を深めることを通して,自他の健康と命の大切さについて学び,共に生きる社会づくりに寄与する資質や能力の育成を図る教育」と定義しています1)。この定義と,新学習指導要領の「人工知能がどれだけ進化し思考できるようになったとしても,その思考の目的を与えたり,目的のよさ・正しさ・美しさを判断したりできるのは人間の最も大きな強みである」2)という哲学とを併せて考えると,答えは浮かび上がります。

 がんに関する「情報」は非常に重要で,丁寧に作りこまれた教材3)がすでに用意されています。しかし,実は「健康教育」は諸刃の剣です。これが提示する望ましい生活習慣や検診,早期発見,早期治療だけが人生の正解ではありません。全てのがんを合わせた5年相対生存率はステージIVでも20%以上ある,罹患した人の人生や大切な人を残して亡くなった人の人生は間違いでも失敗でもない,苦しくて辛くて悲しくて悔しい時は「助けて」と言えばどこかから誰かが必ず手を差し伸べてくれる……。私たち医療者の存在とその臨床経験から紡ぎ出される言の葉から,子どもたちはさまざまな人生を「認識」し,「(仮)体験」し得るのです。

 多くの医療者にはがん体験はありません。直接の体験がない医療者は「桶狭間の戦い」の義元にも信長にもなれません。しかし,がんと共に生きる患者の多彩な人生の間近で,お互いに影響しながらさまざまなことを感じ取っています。そして医療者が語る具体的かつ文脈のある出来事は,子どもたちを深みのある学びへと誘うのです。例えば私が学校で展開するがん教育の授業の後で,小学6年生の児童はこのように語ってくれました。「もし自分や身近な人ががんや病気と戦ったら,助けたり助けてもらったりしようと思いました(一部修正・加筆)」。「学び」とは,information(他者の経験を一般化したもの)とidea(自らの経験から導き出されるもの)の融合です。子ども一人ひとりが内側で構成する,個性的で個別的な「意味の経験」なのです4)

 結びに,ガイドラインの続きを紹介します。「これらの外部講師は特定の資格や認定を要するものではなく,多様な人材が参画し,それぞれの専門性やこれまでの経験を十分生かせるような指導の工夫を行うことにより,がん教育がより実践的で効果的なものとなることが期待される」1)

1)文科省.外部講師を活用したがん教育ガイドライン(令和3年3月一部改訂).2021.
2)文科省.中学校学習指導要領(平成29年告示)解説―保健体育編.2017.
3)文科省.がん教育推進のための教材(令和3年3月一部改訂).2021.
4)七木田文彦.保健授業の挑戦――学びの創造とデザイン.大修館書店;2021.


3423_0202.jpg


 文科省による「がん教育」の在り方に関する検討会の報告書には,「がんを通して健康や命のかけがえのなさに気付き,がん患者や家族などのがんと向き合う人々の取組に関心をもつとともに,健康な社会の実現に努める」という目標が掲げられている1)。また2016年にがん対策基本法が改正され,「国民が,がんに関する知識及びがん患者に関する理解を深めることができるよう,学校教育及び社会教育におけるがんに関する教育の推進のために必要な施策を講ずる」と掲げられた。「がん教育」が明記された学習指導要領の実施にも後押しされ,学校現場のがん教育はまさにこれから進められていくことになるだろう。

 がんに限らず,早くから健康啓発を実施することの重要性は論をまたない。糖尿病や慢性腎臓病はもちろん,がんや心不全のような重大な疾病の軌道にフレイル・サルコペニアや認知機能障害が少なからぬ影響を及ぼすなど,多疾病併存状態への対応が必要となる患者は年々増している。日々の診療でも,病状が悪化してかなりの時間が経過した時点で初めて医療機関を訪れる患者や,医療者とのかかわりが浅く深刻な状態に至る段階まで医師―患者関係が深まっていないため方針決定に苦慮する患者に遭遇する。事態の解決には,患者として疾病を生じる前の住民に働きかける戦略を持つ必要性を痛感している。

 しかし例えば市民公開講座を開催しても,本当に聞いてほしい人は参加していないかもしれない。そこでその限界を克服することも視野に入れて,千葉県松戸市で取り組む「まちっこプロジェクト」()を紹介する。このプロジェクトでは2015年度から,「いのちの尊さ」と「認知症」をテーマとする健康啓発授業を,松戸市医師会の医師が小学5年生以上の小中学生に対して実施している。19年度までの5年間に61回開催され,計9446人の児童に授業を提供した実績がある。「4つのねらい」として,①(単なる知識伝授ではなく)行動変容の促進,②家庭における人生会議開催の推奨,③人と人・地域とのつながり強化,④かかりつけ医推奨,を掲げている。あらかじめ基本スライドを作成してそれを講師が活用する体制を構築しているため,臨床経験のある医師であれば大きな負担なく担当できる。これまでに講師を担当した12人の医師は,皆授業を通じて子どもたちから浴びる多くのエネルギーに刺激を受け,確かなやりがいを実感している。

 このプロジェクトの最大の特徴は,子どもたちが周りの大人に学んだ内容を伝える「宿題」にある。授業中に「地域が健康でいられるかどうかは君たちにかかっている。今日学んだことを周りの大人に伝えるのがみんなの役割だ」と繰り返し強調し,これを宿題としている。さらにもう1つの宿題として,高齢化や医療高度化に伴って判断に迷う場面が生じ得る今日において,人生会議の普及をめざすため「(余命6か月と言われたら/認知症と診断されたら/家族が新型コロナウイルス感染症に罹患したとしたら)どこでどんなふうに暮らしたいか」と大人にインタビューすることをお願いしている。このように子どもへの教育効果に加えて,それを通じた親,祖父母,近隣住民などへの効果波及をめざしている。

 コロナ禍に陥った2020年度は「感染症」をテーマとする講義を構築した。市から予算を得て作成したテキストとデモ授業の動画を撮影したDVDを,小中学校に配布した。松戸市ではこのように医師会・市行政・教育委員会の三者による協力体制が整っている。

 外来の診察室や入院病棟だけでは,住民のヘルスリテラシー向上に当たる機会は得がたい。ヨーロッパでは地域の初期診療を担う家庭医には健康教育を行う役割が求められており,地域住民に対するヘルスリテラシー向上に寄与している。地域に対する教育介入は,老いても病んでも暮らしやすいまちづくりをめざす地域包括ケアの礎になると予想され,がん教育はその大きなきっかけとなり得る。高齢化も相まって,診療のみならず,医師が医療機関の外へ踏み出し活躍する時代が到来したのではないだろうか。

:下記URLからYouTubeのまちっこプロジェクト紹介動画をご覧いただけます。
  https://www.youtube.com/watch?v=q96wPKs8xd8

※まちっこプロジェクトにて蓄積したノウハウやコンテンツに関心を持たれた場合は,以下の松戸市医師会までご連絡ください。
◆連絡先:mtdisikai@chiba.med.or.jp 

1)文科省.学校におけるがん教育の在り方について(報告).2015.

開く

医学書院IDの登録設定により、
更新通知をメールで受け取れます。

医学界新聞公式SNS

  • Facebook