医学界新聞

新春企画

悔しさも悲しさも財産になる

寄稿 鈴木 富雄,塩尻 俊明,根岸 一明,峰 宗太郎,北野 夕佳,八重樫 牧人,今西 洋介

2021.01.11 週刊医学界新聞(レジデント号):第3403号より

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 研修医の皆さん,あけましておめでとうございます。研修医生活はいかがでしょうか。失敗を繰り返す自分を責めたり,周りの医療者や患者さんの言葉に落ち込んだりしていませんか?

 「後悔を乗り越えることはできない。忘れることもできない。悔しいこともうれしいことも一つひとつ,胸の中に積み重ねて僕たちは医者として進んでいくしかない」。これは,連続ドラマ『コウノドリ』(TBS)で主人公・鴻鳥サクラが,患者さんを救えず落ち込む後輩産科医・下屋加江に掛けた言葉です。今抱えている感情は全て,今後医師として働く際の財産になるでしょう。新春恒例企画『In My Resident Life』では,著名な先生方に研修医時代の失敗談や面白エピソードなど“アンチ武勇伝”をご紹介いただきました。

こんなことを聞いてみました

①研修医時代の“アンチ武勇伝”
②研修医時代の忘れえぬ出会い
③あのころを思い出す曲
④研修医・医学生へのメッセージ

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  • 鈴木 富雄

  • 大阪医科大学病院 総合診療科診療科長

①研修医の時の失敗談は多数あります。また,表面上は何事もなく診療が行われていたとしても,自分の力不足や経験不足から患者さんに思わぬ不利益を与えたり,嫌な思いをさせたりしたこともしばしばあったと思います。

 研修開始後2,3か月目,ベテランの看護師さんが,患者さんの腕のほとんど見えないような細い血管にも難なく留置針を入れられるのに対し,医師である自分が失敗し続けるのが情けなく,痛そうな顔をされる患者さんにも申し訳ない気持ちでいっぱいでした。「失敗したらどうしようという不安な気持ちがさらなる失敗を呼ぶ」という悪循環に陥り,一時は留置針恐怖症のような状態になりました。なんとかこれを克服しなければ先に進めないと思いましたが,周りの人に知られると恥ずかしいので,誰もいない夜の外来の処置室で自分の左腕の血管に右手で留置針を刺す練習を繰り返しました。自分の腕は血管も見えやすく極めて刺しやすいため,腕の裏側の細くて見えにくい血管を選んだり,腕を少し高く上げて血管を虚脱させたり,駆血帯を使用せずに行ったりなど,わざわざ穿刺しにくいように難易度を高くして,難しい条件でもできるように練習を繰り返したことを覚えています。

 また,診療の中での失敗とは違いますが,こんなこともありました。退院を控えた患者さんにベッドサイドでお金の封筒をこっそり渡されたのです。金銭的なものは受け取っていけないと指導されていましたし,実際受け取れません。長時間押し問答をした挙句,最後は声を荒げる感じで強引に押し返したのですが,相部屋だったためにそのやり取りが周りにまる聞こえになってしまい,患者さんが「自分の気持ちが踏みにじられた上に,恥までかかされた!」と相当ご立腹され,ひと悶着ありました。今であれば,その場でいったん受け取り,後でお礼の言葉を記した手紙と共にそっとお返しする,あるいは,「個人では受け取れませんので正式な手続きをして病院への寄付としていただき,医療の発展のために使用させていただきます」と応えるなど,別の対応ができるのですが,研修医ですからそんな真似はできません。一種の保身もあって決められたルールを守ることばかりに必死になり,患者さんの気持ちや立場など全く考えもしなかった未熟な自分がそこにはいたのです。

②忘れえぬ出会いは,やはり多くの患者さんたちとの出会いというか,「別れ」です。個室で「水……」と言いながらたった一人で息を引き取られたあの方,「先生苦しい,先生」と言いながら最期の時を迎えられたあの方,大勢のご家族の見守る中で静かに旅立たれたあの方,なぜだか不思議なことに,看取らせていただいた方のことばかりが思い出されます。人が亡くなられた時に,自分の無力さや医療の限界を痛感することが多かったからかもしれません。

③思い出の曲と言えばCHAGE and ASKAの「SAY YES」。何もかもうまくいかなくて一人落ち込んでいた研修医1年目の当直の夜。何気なく医局のテレビをつけた途端,いきなり武田鉄矢がトラックの前に飛び出して(何と危険な!)「僕は死にましぇん。僕は死にましぇん! あなたが好きだから,僕は死にましぇん」とあの有名なセリフを叫んだのです(若い方は全くご存じないと思いますので『101回目のプロポーズ』(フジテレビ)を昔のドラマの動画サイトなどで見てください)。飛び出す瞬間から突然流れ始める「SAY YES」のあのイントロ。当時ドラマなど見る暇もなかったので,なぜ武田鉄矢があんな危険な行為をしたのか全くわからなかったのですが(笑),とにかく場面のインパクトがすごかったので強烈に頭に残りました。

 それ以来「SAY YES」を聞くと,研修医の当直の夜の不安と寂しさと心細さが入り混じったようなあの感覚が蘇ります。戻りたいような戻りたくないような,でも決して戻ることのできない,苦くて少し切なくて,なぜだか泣けてくるほど大切なあのころに,あのころの自分に,今でも少しだけ戻ることができる,そんな気がするのです。

④挽回できないような失敗や失墜,立ち上がることができないほどの挫折や悲しみ,消すことのできないような憎しみや痛み,人には知られたくはないほどのねたみやそねみ,誰もがそんな感情に苦しみ苛まれることがあると思います。私もそうです。ただ,この世で本当に大切なことは2つしかありません。「前を向くことと愛すること」。それさえ忘れなければたぶん大丈夫。医師になって30年,実にいい加減で適当で煩悩の塊のような自分でも,なんとかここまでやってこられましたから。

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写真 研修先の市立舞鶴市民病院の大リーガー医の一人,米ダートマス大学教授のPaul.D.Gerber先生と共に。素敵な先生で大好きでした。左から2人目が研修医時代の筆者。

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  • 塩尻 俊明

  • 国保旭中央病院副院長/総合診療内科部長

①ある日の午後,40歳代の男性が初発のてんかん発作で来院しました。スマートな印象の銀行員で,既往もなく飲酒も一切しないとのことでした。その患者さんが入院した日の夜,看護師さんから「ポルターガイストが見えると患者さんが言っています」との報告。『ポルターガイスト』とは当時はやったホラー映画で,彼いわく何本もの光の柱がそこら中に見えるとのことでした。しばらくたって看護師さんから「患者さんが暴れています。困ります,なんとかしてください」と再びコール。今度は何が起こっているのか,駆け付けると,看護師さん数人で彼をやっと抑えている状態でした。ベッドの上に私が馬乗りになり,抑えるしかありませんでした。なんとか自分が彼を鎮静させなければ,とは思いつつもそのまま時は過ぎ,馬乗りのまま気付けば夜中の3時。どうにもならず精神科の先生に電話したところ,「なぜもっと早く呼ばないんだ。その経過はアルコール離脱が疑わしい。ちゃんと病歴を聞いたのか」とご指摘をいただきました。

 その後患者さんには,当時の自分としてはびっくりするほどの大量のジアゼパムを投与し,鎮静。翌日,患者さんの奥さんと小さな娘さんが来院し「パパは散歩に行くといつもお酒を買っていたよ」との情報に愕然としました。アルコール離脱でてんかんを起こし,振戦せん妄となった典型例だったのです。もう少し問診をしておけば早く気付けたはずです。何よりもご本人,スタッフ,精神科の先生に負担を掛けずに済んだのに。30年たった今も鮮明に覚えています。

②全身性エリテマトーデスで抗リン脂質抗体症候群を合併し,舞踏病を呈していた20歳代の女性(以下,Aさん)との出会いが忘れられません。当時彼女はステロイドによる精神症状を来しており,夫や姑からも「こんな体で家にもどってきては困る」と言われていたようです。そんな状況の中,私の夏休み初日に行われた教授回診では「病状が安定しているため退院をしても良い」との診断が出ました。Aさんの状態に一抹の不安を感じていた夏休み初日の夜,同僚から一本の電話。「Aさんが窓から落ちた」――。何が何だかわからないまま,雨の中私は自転車を走らせました。病院にたどり着くと,電話をくれた同僚がAさんを担いで病棟まで戻り,他の先生と対応をしてくれていました。

 同僚の話によると,その日の夜中にAさんは「塩尻先生はどこ?」と,ナースステーションにふらっと現れたそうです。「今日から夏休みだからいないよ」と答えると,Aさんは何も言わず病室に戻っていきました。その様子に違和感を抱いた同僚がAさんを追いかけて行ったところ,彼女は病室の開いた窓からすーっと落ちたそうです。ステロイドによる精神症状の影響と,「私はどこに帰れば良いのか思い悩んでいた(後日,本人から)」ことから追い詰められていたのかもしれません。Aさんが落ちたのは3階からでしたが,不幸中の幸いにも窓の下には配管などがあったため地面への直撃をさけることができ,そのままICUに入室。頭部硬膜下血腫,脾臓・肝臓破裂,多発肋骨骨折,脛・腓骨々幹部開放性骨折と菌血症,播種性血管内凝固症候群を来した彼女に合わせて私の研修先もICUへと切り替えていただきました。ひと夏をICUで共に過ごしたAさんは,4か月後には無事回復され退院となりました。

 それから7年後,外来中にドアをノックする音がして,開けてみるとそこにはAさんが立っていました。「先生,お久しぶりです。私,幸せになったのよ。ほら」と,結婚指輪を見せる彼女。当時の夫とは退院後離婚されたと聞いていましたが,新たな人生を歩み始めたことを報告に来てくれたのでした。医師になって良かったと思えた一つのエピソードです。

④一つひとつの経験こそが,色あせることのない,優れた教科書です。総論の勉強とは異なり,目の前の患者さんの医学的な疑問を解決するための勉強はパッチワークのようですが,積み重なる経験はいつか必ず良い医療の実践へとつながります。


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  • 根岸 一明

  • 豪シドニー大学内科教授

①研修医の先生方の参考になればと思い,2つのエピソードを紹介する。

・「Festina lente(ゆっくり急げ)」

 まずは学生時代の病院選びのエピソードを紹介する。当時は臨床研修制度が必修化される前であったが,Evidence-based medicineが日本でも普及し出したと同時に,総合診療科が研修医に人気になりだしていた。私は,周りの「意識高い系」の友人にかぶれて,在日米海軍病院も含めいくつかの病院見学に行った。仲の良い友人も親切心から「自分のためになるから,勉強になるところで研修したほうがいいよ」とアドバイスをくれた。しかし,いろいろな事情から出身大学の医局に入局することになった。同期に取り残された残念な気持ちはあったが,有名研修病院に行った友人をうらやむ暇もないくらい忙しかった。

 そんな中,茅ケ崎徳洲会病院でバリバリに臨床をされていた先生が医局に入られた。何を言ったわけでもないのに「根岸先生,同級生がもうCVを入れたとか言っているのを聞いても焦ることないから。そんなの2~3年たてばみんな一緒だから」とアドバイスをくれた。当時は「そんなものかな」と思っていたが,まあそんなものでした。

・「Devils in the details(細かいところも手を抜かずに)」

 次は心電図に関するエピソードである。心電図を100枚読めば大体わかるようになるとのことで,院内でとられた心電図を読影する「心電図当番」という制度があった。研修医になりたてで困っているわれわれに,優しい指導医の先生が心電図の指導として宿題を出してくれた。採点後に指導医の先生から「根岸君,心電図の縦のマス目は1 mmが0.1 mVですよ。注意してください」「先生だけですよ,1 mmを1 mVにしていたの。これではみんな肥大心です」とのこと。まあ,落ち込みましたね。

②忘れえぬ一言。

・「No Panacea(万能薬なんてない)」

 学生時代の病院見学にて,当時から有名であった国立病院機構東京医療センターの総合診療科に伺った。部長の先生に「根岸先生はどんなところで研修を希望しているの?」と聞かれ「教育の充実しているところがいいです!」と元気よく答えた。すると,「何を言っているの! 医者は自分で勉強するんだよ!」と言われ,有名な教育病院で研修することが大切と思い込んでいた私は,鈍器で頭部をたたかれたような衝撃を受けた。しかもその,教育の分野で有名な先生から。その後の研修中もこの言葉が耳から離れず,空き時間を見つけては自分で勉強した。今の自分に多大な影響を与えたことは言うまでもない。

③これといった思い出の曲はすぐに思い浮かばないが,感染症で有名な青木眞先生の本を読んで,当時のiPodに「No pain, No gain」と刻印して,座右の銘とした。

④希望の進路に行けなかったり,上司に理不尽な指導を受けたりする方もいるかもしれません。私はどこにでもいる学生で,授業中に居眠りしたり,さぼったりもしていました。成績も普通で,周りに優秀な同級生がたくさんいました。研修も有名研修病院ではありませんでした。でも今は自分でやりたいと思うこと(臨床と研究)ができています。続けていれば,いいこともあります。あのアリストテレスもこう言っていました。

“The roots of education are bitter, but the fruit is sweet.”――Aristotle(B.C. 384-322)1)

 教育の根は苦いかもしれませんが,皆さんの研修が甘い果実に実ることを願っています。お互い頑張りましょう。


参考文献

1)J Am Soc Echocardiogr.2017[PMID:29056408]


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  • 峰 宗太郎

  • 米国立衛生研究所内 アレルギー感染症研究所 博士研究員

①私は,国立国際医療研究センター病院の外科系病理コースで初期研修を受けました。同期が臨床現場に出る中,病理診断を学び始めました。5月には研修医の当直業務が始まります。同期は病院のルールや臨床の様子を一通り見ていますが,私がやってきたのは顕微鏡をのぞくこと。日常会話の用語もわかりません。「ルートを作って」と言われても何のことかわからず出遅れた気分になる,そんなベッドサイド研修のスタートでした。

 初期研修の2年間,「いまだから言える“とほほ”な話」は枚挙にいとまがない状態でした。とにかく体力が足りず,いつもアップアップ言いながら研修時代を過ごしていました。

 アンチ武勇伝というようなことはたくさんあったのですが,一番の失敗は研修2年目に完全に燃え尽きてしまったことです。ローテーションで新しい環境に次々と適応せねばならず,毎日自分に足りないことに悩み,休みも取らずに働き続けた結果,ある日全てが無駄であるような気がして完全に燃え尽きました。研修中断も考え指導部の先生に相談し,精神科を受診しなんとか研修は続けました。

 自己コントロールができなかったこと,これが最大のアンチ武勇伝であり,同時に一番の学びにもなりました。人を救うためには,まず自分自身をしっかりとコントロールできなくてはならない,そういう当然のことを学びました。

 思い返せばつらいことも多かったものの,あっという間の2年間だったように思います。とにかく多くの人に支えていただき,謙虚に学ぶことの重要さを骨身にしみて学んだ研修でした。

②多くの出会いがあり,指導医運に恵まれ続けてきました。真摯に人と命に向き合い,知識・技術に優れるのみならず人間的に魅力的な多くの先生にご指導いただきました。

 中でも,医師としての姿勢に一番大きな影響を与えてくださったのは,河合繁夫先生(現・とちぎメディカルセンターしもつが 病理部長)です。仕事に真摯に向き合う姿勢を背中で見せてくださりました。病理診断はどこまで「詰めるか」というところにある程度の裁量が入ってくる医行為です。診断をどこまでも追い詰めようとすれば時間をはじめとする資源とのトレードオフにもなります。そのようなせめぎ合いが生じることも多い現場において,全力を尽くしぎりぎりまで妥協しない姿勢,これを徹底的に見せてくださいました。このぐらいで妥協してもよいか,と思うようなことが起きるたびに,そうではなくベストを尽くすこと,その原点に返らせてもらっています。

③いきものがかりの「ありがとう」。研修当時,NHKの連続テレビ小説は『ゲゲゲの女房』が放映されていました。主題歌であるこの曲は,当直明けや前日遅くまで仕事をしていた翌朝,病院敷地内の寮で朝の支度をしている時に流れてくるメロディーでした。聞くと初期研修医の頃の気持ちがよみがえってきます。

④自己管理ができるようになることも研修の重要な隠されたカリキュラムであると思います。うまくいかないことはたくさんありますし,落ち込むことも多くあるかもしれません。ベストを尽くせるようになるために,自分のことも大切にして無理をせず楽しみながら学習・研修を進めていただきたいと思います。

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写真 同期や環境に恵まれた研修医時代でした。

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  • 北野 夕佳

  • 聖マリアンナ医科大学 横浜市西部病院 救命救急センター

①失敗談・アンチ武勇伝を披露とのこと,山ほどあります。

重症対応できずに看護師さんに支えられた思い出

 研修医1年目の5月ごろのことです。入院患者さんのSpO2低下で夜中に呼び出されました。急いで病室まで走って行ったものの,何をすればいいのかわかりません。新米の看護師さんに血液ガス分析用シリンジを渡されて,私は「そうか,低酸素だから血ガスか」と動脈採血を始めました。今考えると噴飯ものです。後からモニターを持って走ってきたベテラン看護師さん(以下,Aさん)に「あんた,あほちゃうの!?」と罵倒されました。Aさんにルートを渡され「そうか,急変だからルート確保が優先だ!」と納得して処置を始める私。てきぱきモニターを付けて血圧測定して酸素開始してくれるAさん。神々しく見えました。

 全て終わった後にはこんなやりとりをしたのを覚えています。

  • 私「Aさん,本当にありがとうございました。すんません」
  • A「だんだんできるようになってや,ほんまに。腹立つのを通り越して,笑てもうたわ」
  • 私「まず,モニター,血圧,SpO2,酸素投与,ルートですね(メモしながら)」
  • A「それと,レントゲン撮って,12誘導心電図,指導医とご家族を呼ぶ,もね」
  • 私「あ,そうか(メモ続ける)」
  • A「(苦笑)」
     

家族対応における未熟さに初めて気が付いた経験

 研修医になって3年目ごろの体験です。当時私は,消化器内科で肝細胞癌の肝動脈化学塞栓療法(TACE)を何度か担当させてもらっていました。その日私は50歳代男性のTACEを行い,手技の終了後,「無事に終わりましたよ」と伝えるためスクラブを着たまま家族待合室に出ました。自覚はしていませんでしたが,(自分が)無事に手技が終わったことの達成感が表情に出ていたのだと思います。

 しかしその日は,血管造影検査によって肝細胞癌が肝両葉に広がっていることが判明した日でもありました。数日後,ご家族への病状説明(当時は,ご家族にだけ先に伝えるというのが一般的でした)としてご主人の肝細胞癌が両葉に広がっていることを伝えると,奥さまに泣きながら怒鳴られました。「じゃあ,あの日,先生はどうしてあんな『無事に終わりました』っていう顔で出てきたんですか!? 主人の肝臓に癌が広がっていることがわかって,どうしてあんな笑顔で出て来られるんですか!?」――私は血の気が引いて,恥ずかしさで消えてしまいたい気持ちでいっぱいになり,震えながら謝りました。後日,奥さまから「先日は感情を爆発させてしまってすみませんでした。先生に自分の裸を見られたみたいに恥ずかしいです」と言われ,自分の親くらいの年齢の方に気を使わせている状況に再度恥ずかしくなりました。「『治療自体が順調だった』ことをお伝えしたつもりが勘違いをさせてしまいました。私が未熟だったせいです。本当に申し訳ありません」と繰り返し謝り,面談室で奥さまと二人泣き合ったのを覚えています。

時間を味方に付ける大切さを再認識した経験

 卒後4年目ごろ,40歳代女性患者さんの夜間救急外来受診を対応した時の話です。その日彼女の中学生の息子が問題行動を起こして学校の担任教師が家庭訪問に来ていました。担任教師を玄関から送り出した途端に両足に力がはいらなくなり,くたくたと地面に座り込んだ彼女は,這って電話機までたどり着き救急車を呼びました。しかし来院時は,両下肢の徒手筋力テストに異常なし。神経学的所見も詳しく調べましたが特に異常は見られなかったため,私はカルテに「ヒステリー」と記載した上で,患者さん本人には「精神的なものも大きいかと思いますよ」と説明し,診察を終えました。この時が初発。

 その後数か月間,彼女は同じ症状を繰り返して複数の医療機関にかかり,最終的には他院で慢性大動脈解離による脊髄梗塞と診断されました。それを聞いた私の背中には冷たいものが流れ,全身の血の気が引きました。以降は,もともとその診断がついているのでなければ,精神疾患やヒステリーといった内容を救急外来カルテに決して書かないように気を付けています。

 救急外来は最終診断をする場所ではありません。今では,「後医は名医である」ことを心にとどめ,患者さんには,後日同じ症状が出た際には必ず受診するように説明することを心掛けています。

 この経験のあと私は,慢性大動脈解離や脊髄梗塞について成書や総説を読みまくりました。

 他にも日々のトホホは多々あります。

  • ・NGチューブを挿入する際,うまくいかず看護師さんに代わってもらう。するとすんなり成功し,患者さんから白い目で見られる。
  • ・中心静脈カテーテル留置後,看護師さんに「縫合が緩い,ダメ」と注意され縫合糸を切られて,縫い直し。
  • ・内視鏡検査でインジゴカルミンを散布し観察していたら患者さんに「こんなに時間が掛かったん,初めてや! へたくそ!」と怒鳴られる。
  • ・研修医のころ,私が所属していた病院では外来点滴当番という制度があった。この当番に当たった研修医は,「コの字」型に向き合って座っている十数人の患者さんに対し,一人ずつ点滴を刺していく。まさに衆人環視。最初の数人への対応で,その日の担当研修医の手技の熟練度がバレてしまう。自分の順番を控える患者さんから「あーあ,今日はハズレやな~」と聞こえよがしに言われて,余計に緊張する悪循環。
  • ・ある日の13時ごろのこと。救急外来などで病棟を走りまわっていたところを患者さんに呼び止められ,「退院前に診断書に押印してほしい」と依頼される。しかし他業務に手いっぱいで,押印できたのはその日の18時ごろだった。「はんこ1つにどれだけ待たすんだ!」と罵倒される。今から考えると,診断書を私のいる場所に持ってきてもらうなり,はんこを渡すなり,対策は取れたと思う。
  • ・米Virginia Mason Medical Center内科で研修医をしていたころのアンチ武勇伝は,英語の苦労がさらに加わるわけで,ありすぎて書けません(笑)。
     

③Lazlo Baneの「I'm no Superman」。米国での内科研修医時代に,夜勤月(Night Float,サバイバルの4週間!)の相方だった同期が「このDVDいいよ」と貸してくれた,ドラマ『Scrubs』の主題歌です。新米研修医が成長していくコメディタッチの医療ドラマなのですが,軽いノリながらも医療の実情をよく反映している誠実な話でした。

 “I can't do this all on my own. I'm no superman♪”という歌詞が,午前3時にポケベルで呼び出されて「もうむり~(涙)」と病棟内を走りまわっていた時の心情にまさにどんぴしゃりで,心の中で常に流れていました。

④指導医からも,患者さんからも,看護師さん,コメディカルさんからも,たくさん怒られてください(怒られて折れない心を持ってください)。私もたくさん叱られました。それが実は一番,成長の糧になります。常に自己嫌悪の嵐の中でもいいのです。そして怒られたこと,うまくいかなかったことを,少しずつでいいので分析しましょう。周りの方々に「どうしたら良かったですか」と素直に聞きましょう。自分に不足していることを積極的に聞きに行く行為は,あなたがあなた自身の安全地帯(comfort zone)から出て成長しようとしてもがいている証しです。卒後24年目の私も,総合内科・救急科・集中治療科という無謀な三足(!?)のわらじ故に今もその状況であり,これからも生涯続くでしょう。そのことに日々めいりつつも,comfort zone外でもがきつづける職業人生を誇らしく思っています。

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写真 横浜市内で発生した災害に対応する医療チーム,YMATとして出勤した時の写真(左)と,米国内科学会総会FACP授与式にて米Virginia Mason Medical Centerのレジデント同期と指導医に再会した時の写真(右)。

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  • 八重樫 牧人

  • 亀田総合病院総合内科 部長

①「血圧が落ちて上がらない……」。メチャクチャ焦るが,とりあえず教わったことをやろう。

 麻酔科で研修を受けていた頃の話。指導医が部屋から離れ私一人で腹部麻酔をかけていた時に,患者さんの血圧がどんどん下がっていったのだ。そうだ,こういう時は輸液急速投与,それもポンピングでさらに早く輸液投与したら良いと教わったな。輸液全開だけではなく,点滴ラインの横に付けた50 mLのシリンジを文字通り押しまくって輸液投与した。血圧はなんとか上がってきた。が,他の手術室から戻ってきた麻酔科の指導医に大目玉をくらう。

 指導医に「血圧が下がった原因は?」と聞かれるも,言葉が出ない。アセスメントが皆無だったのだ。血圧が下がった原因は全身麻酔ではなく,その前に硬膜外麻酔を入れた際,硬膜外麻酔が硬膜を突き破って腰椎麻酔となっていたこと,すなわちデュラパンだった。硬膜外麻酔より腰椎麻酔のほうが圧倒的に血圧が下がる。硬膜外麻酔を挿入する時にある程度の確率で起こることだが,その合併症を起こしてしまったことよりも,それに気付かなかったことに叱られた。

 ダメ押しは,指導医が手術のためのオイフをめくりあげた時だった。静脈ラインの刺入部より肘に近いところで,患者さんの腕がパンパンに腫れていたのだ。私がポンピングして輸液を急速投与した静脈が過度の点滴の投与速度による圧力により破れていて,私がポンピングで投与したと思っていた輸液は,静脈から漏れて皮下の浮腫を大きくしていただけだった。

 私の他にも2人の研修医が麻酔科をローテートしていたが,「八重樫はちゃんと麻酔科の勉強しているのか?」と,その指導医は私の同僚の研修医に聞いていたそうだ。確かに,明らかに麻酔科の勉強が足りなかった。

 研修医の頃は自分の「失敗リスト」と「成功リスト」を作り,落ち込んだ時は「成功リスト」を見て自分を鼓舞し,調子に乗っているなと思った時は「失敗リスト」を見て,気を引き締めるようにしてきた。今でも鮮明に覚えている,失敗リストの筆頭に来る思い出だ。

②「なぜ早く呼ばなかった?」。

 指導医のその問いに,ぐうの音も出なかった。ただ,手術が無事終わり麻酔も完全に覚めた後に,その指導医の先生は患者さんに謝るため一緒に来てくれた。おかげで,患者さんも笑って許してくれた。

 その指導医の先生には心から感謝していて,厳しい態度ながらも,私のような研修医を気にかけて裏ではフォローしつつ成長をサポートしてくれた彼のような教育者になりたいと思った。

③芸人のネタ曲として若い人は認識しているかもしれませんが,Bon Joviの「It's My Life」です。1980年代に大ブレイクしたハードロックバンドが次々と消えていく中で復活し,メンバーがオジサンになった2000年でもこれだけロックできると,私を含む世界中のファンたちに勇気と元気を与えてくれた曲です。米国に留学中は毎年のようにBon Joviのコンサートに行っていたので,周りからはよく「八重樫はBon Joviの追っかけで渡米したのか,臨床留学で渡米したのかどっち?」とも言われました。

④医学生から医師への移行は大変で,失敗もたくさんして当たり前です。同じ失敗をしないようにしていれば必ず,困っている人の力になれる医者に成長できます(患者さんに取り返しのつかない大きな失敗をしないことだけ注意してください)。失敗しなければ成長しません。逆に,失敗は自分が成長する機会だと思って,失敗をするたびに自分に「ナイスチャレンジ!」と心の中で声を掛けて,学びと成長の機会としてください。変わりゆく世界の中で,日本だけガラパゴス路線をとって衰退していくか,より良いやり方を取り入れて成長していくかは,若い世代の先生たちにかかっています。成長を期待します!

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写真 研修医の時に行った米ハワイ大学研修にて。指導医とチーフレジデントと共に除細動するふりをしている。

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  • 今西 洋介

  • 大阪母子医療センター 新生児科医長

①今,私は大阪唯一の小児専門病院である大阪母子医療センターの新生児集中治療室(NICU)で新生児科医として勤務しています。高度な専門性が求められるだけでなく,重症度も高い,まさに「新生児医療の最前線」です。週刊モーニングで連載されていた周産期医療漫画『コウノドリ』(講談社)の医療監修もしていました。

 こんな私でも初期研修医時代は,本当に思い出したくない,けど決して忘れることのできない多くの失敗をしてきました。私が最初にローテートした診療科は外科でした。手術は当然ながら医者としてのお作法も何も知りません。知識もない技術もない,お作法も知らない自分はそこで多くの失敗を重ねました。手術時に成人に麻酔をかけて気管挿管を行う際,初回から3回連続で食道挿管しました。当時の後期研修医の女性医師から「気管挿管くらい,どうしてできないかわからない」と直後に毎回言われた記憶があります。今思えば,喉頭展開時に声帯はしっかり観察できたものの気管チューブを入れる際に目を離していたことが原因ですが,当時の自分はなぜ成功しないのかわかっていませんでした。

 また,小児科での研修でも採血やルート確保は自分の仕事でした。手技が本当に苦手で,いつも失敗を繰り返していました。初期研修医の直属の指導医に「先生,回ってくる研修医の中で手技が一番下手だね」と言われたことは今でもはっきり覚えています。小児科で研修していたのは3か月間でしたが,結局手技は上達しないまま終わりました。自分としても小児科を第一志望としていましたので,あまりのセンスの無さに自分は小児科に向いていないのではと思い小児科の道を進むことを諦めそうになりました。

②そんな中,1個上の明るいY先輩が同時期に小児科研修で回っていました。今は産婦人科医をしているY先輩は手技で困っていた自分に声を掛けてくれて,手技を教えてくれたり,悩みを聞いてくれたりと良く面倒を見てもらった記憶があります。「習うより慣れろ,だよ」という名言のもと,毎回懇切丁寧に教えてくれました。その時から小児科手技が面白くなり,小児科診療にさらに一層深い興味を抱けるようになりました。

④先輩の金言を心の支えにし,現在は総合周産期医療センターの大規模NICUで,22~23週のような未熟性の高い赤ちゃんや出生体重1000 g未満である超低出生体重児の赤ちゃんに対し,失敗したら赤ちゃんの命や発達予後に影響を与える緊張感の下で,最小15秒で気管挿管を成功させるだけでなく,糸のような血管にスパスパ点滴ルートを確保できるまで成長しました。

 研修医時代の手技の上手下手は,強い意思があればその後のキャリアに影響を及ぼすことは全くありません。研修医時代は誰でも一年生です。一番してはいけないのは,早期に自分の不向きを決めつけて挑戦し続けるのをやめることです。

「向き不向きより前向き」

 この言葉を頭の片隅に置いて,研修医生活を楽しんでください。

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