医学界新聞

対談・座談会 村上 陽一郎,國頭 英夫

2020.11.02  週刊医学界新聞(通常号):第3394号より

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現代社会では多くの死は病院内における出来事となり,人々が死を身近なものとしてとらえることは少なくなった。その中で訪れた新型コロナウイルス感染症(以下,COVID-19)の流行は,人々の死生観にどのような影響を与えているのだろうか。

今回,哲学の場から死を見つめてきた科学哲学の泰斗である村上氏と,このたび『「治る」ってどういうことですか?――看護学生と臨床医が一緒に考える医療の難問』(医学書院)を上梓し,臨床の場で「死にゆく患者」を見つめてきた臨床医である國頭氏の対談を企画。対談には本書に登場する,國頭氏の教え子で現在は現場で働く2人の看護師も同席した。

人が生きる上で最大の難問である「死」をどう考え,どう臨むべきか。知の巨人たちが導き出した答えとは。

村上: コロナ禍で著名人の死がセンセーショナルに報道されました。COVID-19は私たちの死生観に少なからず影響を与えているのでしょうか。臨床医のお立場から,どうご覧になっていますか。

國頭: これまで死への意識が薄くなっていた現代社会で,コロナ禍は人々が直視してこなかった死についての意識を顕在化させたといえるでしょう。

村上: そもそも,人々にとって死の多くは病院内での出来事となり,身近なものではなくなっています。亡くなった家族を自宅で看取る機会は減り,すでに1976年には院内死の件数が自宅死を上回っています。厚労省「人口動態統計」1)によると,2019年には約70%が病院内で死亡しています。

國頭: 死と出合う機会が減少しているために,人々が死を忌むべきものとしてのみ扱い,考えないようにしている現状があります。そしてそれは病院の患者においても同様です。周囲に迷惑を掛けずに突然コロッと亡くなる「ピンピンコロリ」を理想の死に方として挙げる人は多いのですが,しかし,いざ「コロリ」が近いとわかると「心の準備ができていない」と大慌てします。ほとんどの人は「ピンピン」ばかりで,「コロリ」のことは考えていないように思います。

村上: 本来,死とは人が次第に衰えて亡くなる瞬間までの長い時間を含んだ「プロセス」なのです。決してある一瞬だけをとらえた「点」ではない。しかし今や死は極めて非日常的な特異点となり,人々がそのプロセスについて考える機会さえほとんどなくなってしまった。他者の死のプロセスを見つめなければ,自分の死について考えることも難しいと思います。

國頭: そうですね。私が以前に担当した患者さんは,入院していた40歳前の男性で小学校高学年と低学年くらいの子どもがおり,ご両親は健在でした。そのご両親は子ども(つまりお孫さん)が父親の苦しむ姿を見るとトラウマになるからと,患者の面会になるべく来させないようにされていました。

村上: 親が亡くなるまでのプロセスを見ることが子どもにとってトラウマになると考えてしまうこと自体が,死から遠く引き離されていることの証ですね。

國頭: その通りです。当時,私は患者と年齢が近く,「自分の子どもに会えずに最期を迎えるのはつらいだろう」と考え,患者の奥さんと相談して,子どもさんには面会に来てもらいました。患者の両親は父親の死という「嫌なもの」を孫に見せたくないと思ったのでしょう。これが多くの日本人の感覚なのではないでしょうか。

村上: そうですね。かつては,身近な人を看取る中で,先人が連なる死者の列にいつか自分も加わることはごく自然なこととして理解されていました。しかし,身近な人の死を見つめる機会が少なくなった今では,その感覚はかなり希薄化しています。

國頭: わが国の急性期病院では,例えば肺炎や心不全での急変時などであれば,まずは人工呼吸器を装着して治療を行うことがほとんどデフォルトの処置になっています。それは高齢患者でも例外ではありません。

村上: 昨今の病院の目的は,終末期であっても実施できる全ての医療をできる限り投入して患者を1日でも長生きさせることですね。しかし,医療が本当に戦うべき相手は患者の死ではなく,患者の苦しみであるはずです。急性期医療では,患者の死は「医療の敗北」として,忌避すべきものとして扱われているように感じます。

國頭: 私は急性期病院においては,そもそも患者が亡くなることがほとんど想定されていないと考えています。急性期病院では,治療としてできることをやり,回復が見込まれない場合には慢性期の施設に移す。また末期がんなどに罹患して治療が難しい場合には緩和ケア病棟に送る。「患者が死なないこと」を前提に提供される医療が人生の終末期にふさわしくないのは明らかですが,急性期病院では「それは自分の仕事ではない」となる。

緩和ケアでは,2018年度の診療報酬改定で従来のがんとHIVに加えて末期心不全も保険適用の対象となりました。しかし心不全の緩和ケアにはがんの緩和ケアと異なる点があります。現在のがんの緩和ケアは予後についての影響は限定的です。一方で心不全の場合は症状緩和の治療で予後も改善しますから,「緩和ケア」と通常の治療の区別は不明瞭です。

村上: さらなる高齢化に伴い心不全患者の増加が予想されることなどを考えると,心不全の緩和ケアは難しい問題を多く含んでいますね。

加えて現代医療では,本人の意思確認の問題も重要です。2019年に人工透析中止で亡くなった女性の遺族が公立福生病院を提訴する事件が大きく報道されました。これは患者が真摯な意思で人工透析の中止を選んで意思確認の書類に署名をした後,苦しみに耐えかねてその決定を撤回する発言をしたものの,担当医は苦痛緩和の治療を行い人工透析が再開されずに亡くなったとされるケースでした。

國頭: ええ。日本透析医学会では本件の調査結果を検討し,本人の意向をより尊重して透析中止の条件を緩和するように,提言の改訂2)を行いました。

終末期の準備のため,患者が事前に医療者と共に意思決定を行うプロセスであるアドバンス・ケア・プランニング(ACP)や,その際に残す事前指示書がありますが,実際にどこまで有効かは難しい問題です。ACPや事前指示書は事前の意思が変わってもいいことを前提としています。患者の意思は変わりますが,本人は意思が変わったこと自体を忘れている場合も多いそうです。1年前には「いざとなったら人工呼吸器は着けないでほしい」と話していた患者が,実際にそのときになると「着けてくれとずっと話していた」と言う。そうすると「事前」の意思に意味があるのか。

村上: 3月に志村けんさんがCOVID-19で亡くなった時,感染予防の観点から身内の方も看取ることができなかったと大きく報道されました。著名人のコロナ禍における突然の衝撃的な訃報を受け,さながらペスト流行下で甚大な被害を出した中世ヨーロッパにおける標語である「メメント・モリ(死を思え)」のように,自身の「死」について考える人が増えたのではないでしょうか。

國頭: 多くの人が「もしかすると自分もCOVID-19に感染して死ぬかもしれない」と考えたことは確かだと思います。しかし志村さんのケースでは「COVID-19は恐ろしい」という恐怖ばかりが強調されて,人々が自分の死をわがこととして考えることは少なかったように思います。むしろその後,4月に岡江久美子さんが亡くなった時に繰り返し報道された,彼女が骨壺に入れられて自宅に戻った映像のほうが多くの人に衝撃を与えたように思います。誰からも看取られず,骨壺になるまで身内にも会えない死に方に恐怖を感じた人が多かったでしょう。

村上: コロナ禍では家族の死に立ち会う選択肢が強制的に奪われます。COVID-19で亡くなった方のご遺体には,どのような処置を行うのでしょうか。

國頭: 処置後に感染防止のために巨大な納体袋に入れて,ファスナーを閉めてさらにその上から消毒をします。少しだけ透明になっている部分から遺族に顔を見てもらい,霊安室に運びます。

村上: その後はどのようなプロセスをたどるのですか。火葬場における拾骨は別れの儀式であり,その人の死を認識する上で大切なタイミングです。やはり遺族は火葬に立ち会って骨を拾うことはできないのですか。

國頭: 私の知る限り,立ち会いも拾骨も難しいです。火葬場の人が防護服を着て,ご遺体を焼いてお骨にするそうです。人々が「誰にも看取られない,この死に方はしたくない」と感じてしまう理由がよくわかります。COVID-19では,身内に取り囲まれて行う「大往生」はかないません。

村上: いつか必ず訪れる死のプロセスについて考えてあらかじめ備えておき,それを「よく生きること」につなげる教育をデス・エデュケーションと呼びます。自分の死のみでなく,他者の死やその悲嘆のプロセスについて理解を深めるデス・エデュケーションを行う上で最も大切なことは,やはり身近な人の看取りでしょうか。

國頭: そう思います。幼いうちから普段の生活の中で身近な人の死のプロセスを経験をしていないと,いざ人の死に臨んだときに途方に暮れるでしょう。特に人の死に触れることが避けられない,というよりもそれが職業としての使命である医療者にとって,「死への臨み方」は学んでおかねばならない必修科目です。

村上: 私は自著『死ねない時代の哲学』(文春新書)の中で,医師の覚悟として①人の命を救おうと全力を尽くす覚悟,②全力を尽くしても救えない命はあり,むしろそちらの方が多い事実に直面する覚悟,③①に背いてでも患者の苦しみを思いやって慈悲の死を与える覚悟,が必要だと書きました。人の命を預かる仕事である医師には,それだけの重い覚悟が求められると思います。医学教育では,患者の死を「敗北」としてとらえるのではなく,①~③に述べた医師の覚悟を育むことが必要なのではないでしょうか。

國頭: しかし,私は看護大学で学生にゼミを行う中で,今では医師よりもむしろ看護師にその覚悟があると感じています。看護師は,学生のうちから「人が亡くなるときにその場所にいるのは自分たちだ」という感覚を持っていることが多いようです。

村上: それはなぜなのでしょうか。

國頭: 私のゼミの卒業生で看護師のRとCがここにいるので,聞いてみましょう。

看護師R: そうですね……。特に誰かに教えられたわけではないのですが,患者さんの一番近くにいる職種が看護師だからなのだと思います。

看護師C: 私もそう考えています。現場でも患者さんの最期に立ち会うのが当たり前だという意識を持っている看護師がほとんどだと思います。私は患者さんが亡くなる時に立ち会うことができると「最期に会えてよかった」と感じます。

村上: 素晴らしいですね。もはや患者に対して医学的にできることがなくなったとき,医師によっては病室に足を運ばないこともあるでしょう。しかし看護師は患者の最期を看取ることを厭わない。むしろ積極的に足を運ぶ。

國頭: エドワード・トルドー医師の言葉に“to cure sometimes, to relieve often, to comfort always”があります。つまり「治すことは時々できる。症状緩和はたいていできる。そして,慰めることはいつでもできる」。今では最期に患者のそばに一緒にいて慰めるのは,看護師の役割になりつつあるように感じています。

村上: 看護師は医師と患者の間に立ってどちらにも気を遣いながら,医療がうまく運ぶように働き掛ける仕事だと思います。だからこそ重たい覚悟を持って,最期の患者の看取りを「自分の仕事」として引き受けられるのでしょうね。看護師がその覚悟を持っていることは,多くの患者にとって大きな希望になるでしょう。

國頭: かつて多くの人が家で亡くなっていた頃には,そこに医者はおらず,寺の住職が引導を渡していた。時代の変遷とともに患者は病院で亡くなるようになり,看取りの多くは医療者の役割になりました。

しかし繰り返しになりますが,昨今の急性期病院は「患者が死なないこと」を前提とした場所です。そこでは医師は積極的治療が終わった患者を最期まで診るつもりがない。患者が亡くなるとき,そばに人がいてほしいと思うのであれば,それを引き受けるのが看護師になっていくのでしょう。もちろん全員の看護師にその準備ができているわけではないでしょうが,これからその覚悟を身につけた医療者が増えてほしいものです。

(了)


参考文献・URL

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東京大学名誉教授/国際基督教大学名誉教授

「医師には人の命を救おうと全力を尽くす覚悟が必要であり,同時に患者の苦しみを思いやって慈悲の死を与える覚悟も必要だ。」

1962年東大教養学部卒。同大大学院人文科学研究科博士課程修了後,東大教養学部教授,国際基督教大教養学部教授,東洋英和女学院大学長などを歴任。2015年に瑞宝中綬章を受章。『ペスト大流行――ヨーロッパ中世の崩壊』(岩波新書),『〈死〉の臨床学――超高齢社会における「生と死」』(新曜社)など著書多数。近著に『死ねない時代の哲学』(文春新書),『コロナ後の世界を生きる――私たちの提言(編)』(岩波新書)。

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日本赤十字社医療センター化学療法科部長

「医療者はその職業使命として人の死に触れることは避けられず,「死への臨み方」は学んでおかねばならない必修科目である。」

1986年東大医学部卒。横浜市立市民病院,国立がんセンター中央病院,三井記念病院などを経て2014年より現職。『誰も教えてくれなかった癌臨床試験の正しい作法』(中外医学社),『医学の勝利が国家を滅ぼす』『「人生百年」という不幸』(里見清一名義,いずれも新潮社),『死にゆく患者と,どう話すか』(医学書院)など著書多数。近著に『「治る」ってどういうことですか?――看護学生と臨床医が一緒に考える医療の難問』(医学書院)。