医学界新聞

寄稿

2019.12.02



【特別寄稿】

HIF;Highly Involved Factor
ノーベル医学・生理学賞「低酸素応答」の医学的意義と今後の展開

広田 喜一(関西医科大学附属生命医学研究所侵襲反応制御部門学長特命教授)


 アルフレッド・ノーベルの命日である12月10日に毎年行われるノーベル賞授賞式がいよいよ1週間後に迫ってきた。2019年のノーベル医学・生理学賞は「細胞の酸素利用度の感知と応答の仕組みの解明」に貢献した英米の3氏に贈られる。3氏の研究は,生体に不可欠な酸素をいかに感知し,応答するかを解明したことで,酸素濃度が与える生理学的な影響を理解する上で基盤となるものだ。貧血やがんなどの疾患へ立ち向かう新たな戦略の種となったことも評価された。

 細胞が酸素に応答する仕組みの根幹を担う遺伝子の単離を行ったGregg L. Semenza氏(米ジョンズ・ホプキンス大)の研究室で客員教授としてその後の関連研究に携わった広田喜一氏が,これらの知見の医学的意義について本紙に寄稿した。

(本紙編集室)


 スウェーデンのカロリンスカ研究所は10月7日,2019年のノーベル医学・生理学賞を「細胞の酸素利用度の感知と応答の仕組みの解明」への貢献を理由に,米ハーバード大ダナ・ファーバー癌研究所のWilliam G. Kaelin, Jr博士,英オックスフォード大・フランシス・クリック研究所のSir Peter J. Ratcliffe博士,米ジョンズ・ホプキンス大のGregg L. Semenza博士へ授与することを発表しました。本稿では新聞,雑誌で概要が報告されているこの分子システムの詳細については他に譲り,この受賞のパースペクティブを解説したいと思います。

ポストEPO製剤としての期待

 受賞研究をより具体的に述べると,1980年代の終わり頃にその端緒が見いだされるエリスロポエチン(erythropoietin;EPO)の発現維持・誘導の分子機序について説明する因子として単離された低酸素誘導性因子(hypoxia-inducible factor;HIF)の発見と,その酸素分圧依存性の活性調節の分子機序の解明です(図1)。ここで重要な役割を果たすのは酸素濃度依存的な酸素添加酵素です。これらを「低酸素センサー」と考える研究者もいます。HIFのαサブユニット(HIF-α)のプロリン残基の水酸化を担う3種類の酵素とアスパラギン残基の水酸化を担う1種類の酵素が現在知られています。アスパラギン残基の水酸化を担う酵素はFIH-1と命名され,この分子の遺伝子単離には筆者もSemenza氏の研究室員として参加しました。

図1 低酸素応答のセントラルドグマ(クリックで拡大)
HIF-1α,HIF-2αの転写因子としての活性は,タンパク質の安定性と転写活性で制御される。安定性は酸素を基質とした酸素添加酵素であるプロリン水酸化酵素proly hydroxylase domain(PHD)に,転写活性化は別の酸素添加酵素FIH-1(factor inhibiting HIF)により調節される。(A)酸素が豊富に存在する条件では酵素活性が高く,HIF-αは不安定型になり分解される。(B)低酸素になれば酵素活性が低下し,HIF-αは活性化型のまま細胞内に存在。またこの酵素の活性化には二価鉄とビタミンCが補酵素として必要である。現在開発されているHIF活性化剤はα-ケトグルタル酸の競合阻害薬として作用し,これら酵素の活性を抑制することでHIFの活性化をもたらす。

 これらの研究結果は,腎性貧血の治療薬として「ポストEPO製剤」と呼ばれ期待を集めています。本邦でも2019年9月に1剤目が承認された腎臓領域の新しいタイプのHIF活性化薬(roxadustat,vadadustat,daprodustat,molidustat)にも応用されています。『The New England Journal of Medicine』誌で先頃公刊された論文によれば,透析導入された患者の貧血治療において,EPO製剤と比較してのroxadustatの非劣性がすでに示されています。こうした臨床医学への直接の貢献も今回の授賞を後押ししたと考えられます。

 腎臓間質に存在する特別な細胞でEPOの産生に貢献している転写因子はHIF-1でなくHIF-2であると現在では考えられています。HIFはトランスフェリンやトランスフェリン受容体,セルロプラスミン,ヘプシジンなどの発現調節に直接・間接に関与することが示されています。これらのことから,HIF-α水酸化酵素阻害薬はEPOのみならず鉄代謝を改善することで貧血の改善に貢献すると言えます。

 遺伝性の多血症のいくつかはこのパスウェイの分子の遺伝子異常で説明できます。Chuvash polycythemia(常染色体劣性遺伝)はHIF-αタンパク質のユビキチン化酵素として機能しその分解に関与するVHLの,PHD2 erythrocytosis(常染色体優性遺伝)はHIF-αプロリン水酸化酵素の一つであるPHD2の異常です。さらにHIF-2α erythrocytosis(常染色体優性遺伝)はHIF-2αの遺伝子異常で発症する多血症です。ちなみにChuvash polycythemia発症の分子機構の解明には筆者も参加しました。

酸素のバランスを感知し,酸素利用モードを調整する

 このようにHIFはEPOの発現調節に多重に関与する因子ですが,さらに重要なことは,HIFをめぐる一連の研究が,生体における酸素の役割についての考え方つまり酸素観を変えた点にあります。酸素はヒトの生命の維持に必須な分子です。この観点から酸素は細胞のATP産生に必須な分子であり,その欠乏によるエネルギー不足により生体機能の維持が不可能となるというスキームが想定されます。その欠乏は細胞死,生体機能の失調を経て個体の死に至る,と考えられてきました。

 しかし,このような古典的な酸素観はここ20年くらいの研究により完全に見直されています。そもそも酸素は,多種の組織・臓器で構成される脊椎動物のような高等生物ではむしろ常に「不足」しているのです。酸素は生命維持に必須な分子であるにもかかわらず,私たち哺乳類は酸素を体内で生合成する仕組みを持ちません。それ故生体はその必須分子の不足,つまり低酸素に応答する仕組みを進化的に構築して身体の統合の維持に積極的に利用してきたとの考え方が主流となりました。

 HIF-1は「低酸素」で活性化しますがこの「低酸素」という言葉はそもそも曖昧です。多くの培養細胞では培養環境の酸素濃度を5%まで低下させるとHIF-1αタンパク質の発現が確認されるようになります。しかしこの原則が当てはまらない細胞も存在します。

 また,逆説的に思えますが,細胞は低酸素に暴露されると活性酸素を発生します。この仕組みを利用してHIF-1をあらかじめ活性化することで,低酸素環境下での活性酸素の発生を抑制することができます。これらの性質を利用して虚血再灌流傷害の軽減戦略にHIF-1の活性化が利用できるという研究も存在します。

 さらに,HIF-1活性化へのネガティブフィードバック機構が存在します。HIF-1の活性化が持続すると,HIF-1活性を抑制する機構が発動します。

 このようにHIF-1は,酸素不足で活性化するのみならず,細胞の酸素利用モードを積極的に調節する役割を担っています。酸素利用において,その供給の不足だけでなく需要の側面を同時に最適化することで生体は恒常性を維持しているのだという現代的な酸素観の成立に今回のノーベル賞の業績が果たした役割は大きいと言えます。

 HIFは生体の酸素利用とさらに広くかかわっています。呼吸器は,赤血球中のヘモグロビンに酸素を移行するための場を提供する肺や,血液中の酸素分圧を感知する神経上皮細胞などで構成されます。循環器は,酸素運搬媒体である赤血球,運搬ポンプである心臓,その運搬経路である血管で構成されます。これらシステムの調和の取れた発達と維持のためには,おらく数千の遺伝子の調和の取れた発現が必要です。

 このような遺伝子発現をつかさどる転写因子がHIFです(図2)。低酸素で発現が変化する遺伝子のうち2千個程度(全遺伝子の約10%)はHIF-1によりその発現が制御されていることを示す報告があります。このような現象への広く決定的な関与からHIFをhighly involved factorだとSemenza博士はかつて呼びました。

図2 HIFと生体の酸素代謝
転写因子ネットワークと低酸素応答HIFに依存した遺伝子応答は,生体の低酸素応答の重要な要素であり,ネットワークを形成している。細胞,組織・臓器,個体レベルでの応答が存在し,各レベルで個々の細胞の応答の総和として低酸素応答が現れる。このネットワークのキー転写因子としてHIFが同定された。HIFは核を持つ全ての細胞に存在し,細胞が暴露される酸素分圧に依存して活性化が決まり,細胞・組織特有の因子により活性化が修飾を受けることも知られている。

 これらの知見により網膜血管が異常増殖する未熟児網膜症の発症,逆に透明であるべき角膜での血管新生抑制の分子機序なども説明することができます。さらに,持続的な低酸素血症を引き起こす先天性心疾患などでは肺...

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