医学界新聞

対談・座談会

2018.11.19



【対談】

どもる体とシンクロする心
「治る/治らない」を超え,何ができる?

伊藤 亜紗氏(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授)
尾藤 誠司氏(国立病院機構東京医療センター臨床研修科医長/総合内科)


 《シリーズケアをひらく》の一冊で,吃音の謎に迫った『どもる体』(医学書院,2018年)が今,話題を集めている。本書では,吃音の当事者に対する徹底した観察とインタビューをもとに,「しゃべること」の不思議がひもとかれている。著者の伊藤亜紗氏は,従来の医学的・心理的アプローチとは全く異なる視点から身体や障害に向き合うユニークな研究者だ。

 プライマリ・ケア医として医師・患者の新たな関係を模索し続けてきた尾藤誠司氏は,本書を読んで「腰を抜かした」という。その理由とは?――


「治す」医療のどん詰まり,それを破る取っ掛かり

尾藤 実は前著『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社,2015年)以来,伊藤さんのファンです。今度は吃音をテーマにした新刊『どもる体』を出されたと知り,読んでみて腰を抜かしました。臨床医としての私を次のステージへと持ち上げるための取っ掛かりが本書にはある気がするんです。

伊藤 医療者の方がそんなふうに受け止めてくださったとは驚きです。私は人文系の研究者として,医学とは違った文脈で身体を研究しているので。尾藤先生のおっしゃる「臨床医としての次のステージ」って,どのようなものですか。

尾藤 臨床医としての自分自身,いや,現代のヘルスケアそのものが,“どん詰まり”を迎えつつあると思うんですよね。もう,次のステージに行かないと,やっとれんな,と。

 これまでの医療の大きな目的は「病気を治す」ことでした。患者さんを正常という雛形に近づけるために,足りないところを埋め,出っ張りを取る。ヒポクラテス以来,医療はある意味わかりやすい営みを続け,うまくいっていた。ところが近年,約2500年間続くこのパラダイムでは解決できない問題が増えているんです。

伊藤 それは,どのような?

尾藤 まず一つは,高齢化が進む中,正常な状態に戻すことだけが医療の役割なのか,という問題です。身体機能が脆弱になっていく高齢者を診ていると,無理をして正常をめざすよりも適切なゴールがあるのではないかと感じます。

 もう一つの問題は,検査や診察では異常がないのに「お腹が痛い」「頭が痛い」「不安だ」と訴える患者さんが近年とても多いこと。医療のロジックでは「病気」はないものの,明らかに「やまい」を抱えているんです。

伊藤 「治す」を主眼に置いた医療だけではうまく対応できない患者さんが増えているのですね。

尾藤 はい。しかも,私のようなプライマリ・ケア医はこのようなケースに出会うことが特に多いです。

 私は診療の基本プロセスとは,患者さんという一人の人間を情報化すること,つまり「○歳の女性で,□□の症状があって,検査結果は△△で,……」というデータに落とし込むことだと考えています。プライマリ・ケア医は,全く情報化されていない“ナマ”の状態の患者さんを診て,情報に焼き付ける。その情報をもとに治療を進める,あるいは専門科に紹介する。どんどん情報化できる病気の場合はこれでうまくいきます。けれど,例えばリウマチ科に紹介して「リウマチではないですね」と言われ,「でもやっぱり,痛い」と訴える患者さんではどうでしょう。どん詰まりになって,またプライマリ・ケアに戻ってくるんです。

伊藤 一巡して。

尾藤 ある意味,いい循環ができています。それに,このような患者さんに対しての私なりのスタイルもできつつあります。雛形にギュウギュウに詰めようとするのではなく,「できないところはできないなりに,できるところはできるなりに」という感じですかね。“解決できない問題”の専門家として,私は病院の中でけっこう重宝される存在になっています。

 でも,自分のやっていることをうまく言語化できなくて……。他の医療者にもわかる形で表現しないと,「尾藤先生って最近アヤシイよね」と言われてしまいますから(笑)。そんな時,伊藤さんの著書に出会い,「ここに何かしらの答えがある」と思ったんです。

“ナマ”の患者を受け止める

尾藤 『どもる体』の中で,「ノる」と「乗っ取られる」が重要なキーワードになっています。

伊藤 吃音の当事者の中には,何かのパターンにノるとうまく話せるという人がいます。例えば,多くの当事者は歌うときにはどもりません。あるいはメトロノームの「カチ,カチ,カチ」というリズムに合わせると話しやすくなる。この他にも,「教師っぽい話し方」など,何らかのキャラクターを演じていると吃音が出ない人もいます。

尾藤 そうなんですね。

伊藤 けれども本人は,うまくしゃべるために仕方なくそのパターンを選んでいるとも言えます。つまり,パターンにノると同時に,乗っ取られているんです。当事者インタビューでも,パターンの中に収まっているうちは,その人が本当に話したいことは引き出せていないと感じます。

 でも,ずっと話していると,そのパターンが壊れるときがある。準備していたセリフがフッとどこかへ行って,どもってしまうけれどもすごく興奮して話し始める瞬間です。相手のナマの部分が見えた時,そのインタビューは成功だな,と思えるんです。

尾藤 診療でも,患者さんのナマの部分をいかに引き出すかは重要です。先ほど,医療とはナマの体を情報に焼き付けていくプロセスだと話しました。情報化するからこそ,どの患者さんにもある程度うまくいく標準的なサービスを提供できます。

 でも,臨床をやっていると「このナマのものを情報化してしまっていいのか」と感じる瞬間が,ものすごくたくさんあります。

伊藤 患者さんのナマの部分を受け止めるには,医療者側もナマの部分を出したほうがいいんじゃないですか。

尾藤 そうですね。例えば「困る」とかですかね。

伊藤 患者さんの前で,ドクターが困っている。ナマですね(笑)。でも,相手を尊重しているからこそ,困るんですよ。

尾藤 なるほど。

伊藤 先日,学生に「絵画ってどうして四角いんですか」って質問されました。それに対して,適当に「建築が四角いからだよ」と,教科書的な答えを返すことはできます。でも,その学生が「なぜ?」と感じた時の興奮をキャッチするなら,ちゃんと困らないと,と思ったんです。

 お決まりの答えを楽に返すのではなく,相手のナマの部分にしっかり付き合う。これが「困る」態度として表れるんです。

尾藤 情報化してパターンに乗っけていくのではなく,ナマの状態をそのまま受け止めて,ナマのままリアクションする。この視点が,次のステップのヘルスケアでは重要になる気がします。

伊藤流“軽やかな身体論”×尾藤流“湿度低め外来”

伊藤 「治す」という医療のパラダイムに行き詰まりを感じた尾藤先生が,私の本から何かを感じてくださった。それは,私が「治るのか,治らないのか」とは別の視点から身体や障害に向き合っているからではないでしょうか。

 医療者ではない私は,当事者にお会いしても治療やケアはできません。『どもる体』の執筆に当たって,吃音の当事者の方にインタビューした時もそうでした。でも,何もできないことが私の強みだとも思っているんです。

尾藤 確かに,伊藤さんの身体論って,とても“軽やか”っていうのかな。そこがいいんです。

 われわれ医療者が身体や患者に向き合うと,自分が思い描く正義感や使命感に引っ張られて,ねっとりした“湿度高め”の議論になってしまいます。もちろん,湿度が高いほうがいい場合もあるけれど,ものの見方を曇らせることもある。『どもる体』で伊藤さんは吃音の世界をクリアに見て,ヴィヴィッドに分析していると感じました。こんなふうに軽やかにインタビューできるって,すごい!

伊藤 当事者の方にどうかかわり言語化すれば,その身体を分析したことになるのか。これが私のチャレンジだと思っています。

 医学のように何かの知識に基づいて分析するのではありません。本当にゼロの状態で研究対象に向き合っています。だから,研究対象というよりは共同研究者ですね。当事者インタビューは,「あなたの身体について一緒に共同研究しましょう」という姿勢で行っています。

尾藤 専門科では治せずプライマリ・ケアに戻ってきた患者さんに接する時の私のスタンスと通じるものがありますね。患者さんに向き合いつつも,医療者としての正義感に引っ張られすぎないように意識する。私はこれを“湿度低め外来”と呼んでいるのですが(笑)。そうすると,患者さんの抱える問題をよりヴィヴィッドに観察できるんです。

 それでも,困りごとを抱えた患者さんに接するうちに,医療者として「何とかしたい」という欲求が良くも悪くも出てきて,診察室の湿度がだんだんと上がります。伊藤さんは身体論の軽やかさを保つために何か心掛けていますか。

伊藤 一つは,時間の感覚を大事にすることです。何かを分析する時って,普通,時間を止めたり細かく分けて考えたりしますよね。けれど私は,なるべく身体のライブ性を消したくない。あまり細かく考えず,人がしゃべるスピード感を保ったままインタビューや分析をするように心掛けています。

 もう一つは,当事者の世界を当事者以外の人にもなるべくわかるようにすること。それも,当事者にしかわからない感覚や悩みに深く入り込むのではなく,当事者でない人が「自分にも理解できるかもしれない」と思えるように。研究を通じて,そういう風通しの良さをつくりたいんです。

尾藤 身体のライブ性を保って,風通しの良い分析をする。だから,伊藤さんの身体論は軽やかなのか。

伊藤 当事者の悩みにダイレクトにアプローチするのではなく,まずは当事者と当事者でない人を隔てる壁の周りをマッサージしたいんです。壁をほぐすことで,回りまわって当事者の助けになればと思っています。

コントロールしきれない部分を肯定する

尾藤 伊藤さんは理系で大学に入ってから文転し,美学の研究者になったそうですね。その経緯にとても興味があります。

伊藤 幼い頃から虫や花が好きでした。生物学者になりたいと思っていたので,最初は理系を選びました。でも,大学の生物学はメカニズムを学ぶことが中心です。私がやりたかった,「昆虫はどういう感覚で世界を見ているんだろう」みたいな学問とは違っていて。情報化されすぎてしまって,ライブ性がないな,と思ったんです。

 それで,大学3年次に文転して,美学を専攻しました。美学は,感覚や芸術といった言語化しにくいものを言葉で表現しようとする学問です。

尾藤 ライブ性が研究のキーワードなんですね。

伊藤 ライブ性って,次にどうなるかわからない,リスクのある状態だと思います。コントロールされた,安心・安全な状態よりも何となくエネルギーが高い。例えば,スキのない整った文章よりも,誰かが思いつきで勢いよく書いた文章のほうが,ライブ性があります。そういう文章って,内容どうこうではなく,すごくエンパワーされませんか?

尾藤 それ,わかります。音楽なら,クラシックというよりジャズやロックかな。

伊藤 吃音を研究してみて思ったのは,身体にはコントロールしようとすればするほど,うまくいかない側面もあるということです。ライブ性を大事に,コントロールしきれない部分を肯定すれば,もっと楽に身体をとらえられると思います。

尾藤 これまでの医療では,身体や疾患をいかにコントロールするかが重視されてきました。コントロールしきれない部分に対して何ができるかが,今後の医療の大きなテーマだと思います。そのために必要なアプローチと,伊藤さんの研究姿勢はすごくシンクロしています。今日お話しして,そう確信しました。

(了)


「当事者の方にどうかかわり言語化すれば,その身体を分析したことになるのか。これが私のチャレンジ」

いとう・あさ氏
専門は美学,現代アート。もともと生物学者をめざしていたが,大学3年次より文転。2010年に東大大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻美学芸術学専門分野博士課程を単位取得退学。同年,同大大学院にて博士号を取得(文学)。日本学術振興会特別研究員などを経て,13年に東工大リベラルアーツセンター准教授に着任。16年4月より現職。研究のかたわらアート作品の制作にも携わる。著書に『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社),『目の見えないアスリートの身体論』(潮出版社),『どもる体』(医学書院),参加作品に小林耕平《タ・イ・ム・マ・シ・ン》(東京国立近代美術館)など。趣味はインタビューのテープ起こし。

「コントロールしきれない部分に対して何ができるかが,今後の医療の大きなテーマ」

びとう・せいじ氏
1990年岐阜大医学部卒。国立長崎中央病院,国立東京第二病院(現・東京医療センター),国立佐渡療養所に勤務。95~97年米カリフォルニア大ロサンゼルス校に留学し,臨床疫学を学びながら医療と社会のかかわりについての研究活動を行う。2008年より現職。東京医療センターでは実地診療とともに,研修医の教育,倫理サポートチームの活動などにかかわっている。編著に『医師アタマ――医師と患者はなぜすれ違うのか?』,『白衣のポケットの中――医師のプロフェッショナリズムを考える』(いずれも医学書院)など。趣味のロックバンド「ハロペリドールズ」ではボーカルと作詞作曲を担当。

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