トラベルメディスン(濱田篤郎,金川修造,牧信子)
対談・座談会
2014.02.17
【鼎談】
国際化が進む今,渡航者の安全・安心を支える
トラベルメディスン
濱田 篤郎氏(東京医科大学病院・渡航者医療センター教授)=司会
金川 修造氏(国立国際医療研究センター病院 国際感染症センター トラベルクリニック医長)
牧 信子氏(日本航空株式会社 健康管理部主席医師)
日本の海外渡航者数は1980年代後半から急速にその数を伸ばし,2012年には年間延べ1800万人を超えた(図)。
海外渡航が日常的な出来事になった今日,渡航時の健康問題を扱い,渡航者の安全・安心を支えるトラベルメディスンは欠かせない。しかし,本邦では欧米諸国と比較し,本領域の知識とスキルの普及が遅れているという。本紙では,日本の渡航者に対する医療の現状を考察し,医師が担うべき役割とトラベルメディスンの将来展望を議論した。
図 日本人海外渡航者数の推移(参考文献1より) |
渡航に伴う健康問題への意識に乏しい日本
濱田 現在,多くの人々が海外旅行に出掛け,ビジネスマンが世界中を飛び回り,海外渡航はすっかり日常的な出来事となりました。こうした渡航者の増加とともに,渡航に伴う健康問題が注目されています。
古来より旅には苦悩が付き物で,そのひとつが旅の途上で出合う病気でした。19世紀,帝国主義の時代を迎えると,欧州諸国ではアジアやアフリカに広大な植民地を建設するようになりました。この植民地経営を円滑に進めるため,感染症や風土病に備えて,植民地に滞在する自国民への健康対策が行われた。これが,海外渡航者の健康問題を扱う「トラベルメディスン」の起源ではないかと考えられています。
金川 そういう意味では,トラベルメディスンは主に欧州で発達してきた,比較的新しい領域と言えるのかもしれませんね。
1970年代になると海外渡航者も増え,渡航者に対する健康対策は一般的なものになりました。欧米の各地に,旅先の医療情報の提供,予防接種,携帯医薬品の販売,帰国後の渡航者の診察などを提供する施設である「トラベルクリニック」が作られ始めたのもこのころです。現在では,その存在は一般市民に浸透しており,海外へ飛び立つ前に受診することが日常に根付いているようです。
濱田 翻って日本の現状を見てみると,海外渡航時の健康問題に対する認識が甘いのではないでしょうか。
2003年に欧州の空港で行われた調査によれば,欧州からの海外渡航者の半数近くは「出国前にトラベルクリニック等で医療従事者から健康指導を受けた」と回答しています2)。一方,日本で行われた同様の調査によると,「出国前に健康指導を受けた」と回答した日本人渡航者はわずか2%という結果でした3)。
本邦では2005年から旅行業者に,パック旅行の旅客に対する現地の安全衛生情報の提供が義務付けられていることもあって,渡航に伴う健康問題の存在は一般市民の間にも徐々に浸透してきているとは思います。しかしながら,まだまだ十分なものではないのが実情ではないでしょうか。
牧 ええ。やはり渡航先での健康問題を予防する意識が日本人全体に乏しいと言わざるを得ません。さらに言えば,医療を提供する側である医療従事者間においても,同様に意識が低い状態にあると考えています。
濱田 同感です。欧米と比較してみると,日本の臨床医には渡航時の健康問題に関する知識や意識が十分でないことが浮き彫りになってきます。1998年に英国のGP(General Practitioner)を対象に行った調査では,8割以上の医師が毎月10人以上の海外渡航者の診察を行い,その診療のために一定の知識を身につけているという結果が出ています4)。
しかし,私たちが日本内科学会の専門医を対象に行った調査では,「毎月5人以上の海外渡航者の診療経験がある」と回答した医師はわずか7%でした5)。この結果の背景には,日本の臨床医が健康指導やワクチン接種といった予防的な対応に慣れていないという実態も垣間見えると思うのです。
金川 現在の日本は年間延べ1800万人が観光旅行や,海外赴任・駐在といった企業活動のために渡航している時代です。外来を訪れる患者さんの中には,どの診療科であろうと海外渡航の予定がある方,あるいはしたいと考えている方がいると思うのですね。そう考えると,医療従事者は海外渡航時に起こり得る健康問題を意識し,患者さんが安全な渡航を実現できるよう,その予防策を啓発する必要があるはずです。
渡航そのものが,健康リスクである
濱田 では,実際にどのような健康問題があり,どのぐらいの頻度で発生しているのかを確認しましょう。
海外渡航者の健康問題の発生頻度に関するデータとしては,Steffen Rらの調査が有名です。スイス人旅行者約1万人を対象に行ったアンケート調査で,発展途上国に1か月間滞在した場合に起こる健康問題の頻度を算出しています。全旅行者を100%としたとき,何らかの健康問題が起こる頻度が50-60%,実際の疾病にかかる頻度が20-30%,その疾病で医療機関を受診する頻度が8%6)。罹患する疾患としては感染症の割合が高く,1か月間の発展途上国滞在で旅行者下痢症の発症率が20-60%,A型肝炎は0.04%と示されています7)。
私たちも海外渡航経験者1222人を対象に「海外渡航中に発生した健康問題」について質問したところ,「時差ぼけ」(375人),「下痢」(278人),「感冒」(216人)などが頻度の高いものとして挙がりました8)。
金川 こうしてデータを見ると,多くの渡航者の身に何らかの健康問題が発生しています。海外渡航,あるいは別の地域へ移動することそのものが健康リスクであるととらえる必要があると感じます。
ただ,渡航者の健康状態や渡航日程を踏まえ,滞在先の医療衛生情報を基にきちんと予防策を提示することで,そのリスクを下げることは可能です。
濱田 普段の診療において,特に注意されている渡航先や健康問題はありますか?
金川 ひとつ挙げるとすれば,やはり渡航先が発展途上国の場合は注意しています。先進国であれば医療インフラも整備されているので,何か健康問題があっても現地で対処できるケースが多い。しかし,発展途上国となるとそうはいきませんし,また衛生環境が悪く,感染症の問題もあります。
例えば,経口感染するA型肝炎は,発展途上国のいずれの地域においても高い頻度で見られています。「渡航先では現地の食べ物を食べたい」という方も多いので,渡航前のA型肝炎ワクチンの接種や,渡航先での行動に関するアドバイスは欠かせません。
また,渡航時に合わせてお伝えしたいのが,「感染症を国外に持ち出さないように,国内の予防接種プログラムに含まれているワクチンはすべて接種してから出国してください」ということです。日本はワクチン接種率が高くないため,現地に感染症を蔓延させるきっかけを作るおそれがあります。ですから,麻疹や風疹など,国内の予防接種プログラムに含まれるワクチンの接種歴について,海外渡航を予定する患者さんには必ず確認したいですね。
移動中やアクティビティに関する健康問題にも目を向ける
濱田 感染症の他に,環境の変化に起因する健康問題への注意も必要になります。例えば,移動中の航空機内での健康問題や,登山・スキューバダイビングといった渡航先でのアクティビティに関する健康問題がありますが,これらも事前の情報提供や予防指導があることでリスク軽減が可能ですよね。
牧 ええ。当社では1日1000便弱の航空機を運行しているのですが,平均して1日1件はフライト中のドクターコールがあるようです。頻度が高いのは脳貧血発作ですが,それ以外にも機内の気圧低下に起因する航空性の健康問題が認められています。ただ,例えば,気圧に関係して起こる航空性中耳炎であれば,耳管を開かせる方法として「水を飲む」「あくびをする」などの予防策を事前に知っているだけで,発症のリスクは抑えることができます。
また,糖尿病や腎障害などの慢性疾患を持つ方が,機内で何らかの異常を来すケースも少なくありませんが,こちらも薬剤の服用や食事摂取についてあら...
この記事はログインすると全文を読むことができます。
医学書院IDをお持ちでない方は医学書院IDを取得(無料)ください。
いま話題の記事
-
医学界新聞プラス
[第1回]心エコーレポートの見方をざっくり教えてください
『循環器病棟の業務が全然わからないので、うし先生に聞いてみた。』より連載 2024.04.26
-
医学界新聞プラス
[第3回]冠動脈造影でLADとLCX の区別がつきません……
『医学界新聞プラス 循環器病棟の業務が全然わからないので、うし先生に聞いてみた。』より連載 2024.05.10
-
医学界新聞プラス
[第1回]ビタミンB1は救急外来でいつ,誰に,どれだけ投与するのか?
『救急外来,ここだけの話』より連載 2021.06.25
-
医学界新聞プラス
[第2回]アセトアミノフェン経口製剤(カロナールⓇ)は 空腹時に服薬することが可能か?
『医薬品情報のひきだし』より連載 2022.08.05
-
対談・座談会 2025.03.11
最新の記事
-
対談・座談会 2025.04.08
-
対談・座談会 2025.04.08
-
腹痛診療アップデート
「急性腹症診療ガイドライン2025」をひもとく対談・座談会 2025.04.08
-
野木真将氏に聞く
国際水準の医師育成をめざす認証評価
ACGME-I認証を取得した亀田総合病院の歩みインタビュー 2025.04.08
-
能登半島地震による被災者の口腔への影響と,地域で連携した「食べる」支援の継続
寄稿 2025.04.08
開く
医学書院IDの登録設定により、
更新通知をメールで受け取れます。