医学界新聞

インタビュー

2011.10.10

【シリーズ】

この先生に会いたい!!

菅野武氏
(東北大学大学院医学系研究科博士課程・消化器病態学分野)
に聞く

<聞き手>齋藤伴樹さん
(福島県立医科大学5年生)


「病と闘うか,あきらめるか」ではうまくいかないことがきっとある。そんなとき,「寄り添う」医療もあることを覚えておいてほしい。

 東日本大震災時に南三陸町の公立志津川病院に勤務し,自らの命を危険にさらしながら患者を救った菅野武氏を,米TIME誌は「世界で最も影響力のある100人」に選んだ。氏自身は自らを「普通の人間」と評し,恐怖や不安との闘いの中での行動だったと明かす。そしてその極限の精神状態を支えたのは,「患者に寄り添う医療」という,医学生時代から見続けてきた"月"の存在だった――。


齋藤 震災時の公立志津川病院はどのような状況だったのでしょうか。

菅野 地震のあった14時46分は,私が午後の回診を終えて医局に戻ってきた直後でした。強烈な縦揺れの後,横揺れで医局の本棚が倒れて,隣のデスクのパソコンから火花が散ったのを覚えています。揺れが収まるのを待ちきれずに病棟を見て回ったのですが,私の見た範囲では地震による負傷者はおらず,停電後も非常用電源の作動により医療機器は動いていました。

3月11日15時30分(津波到達の2分後),公立志津川病院の5階窓から菅野氏が撮影。建物を破壊しながら津波が押し寄せる。
齋藤 やはり,その後の大津波が深刻な被害をもたらしたわけですね。

菅野 そうですね。もともと南三陸にはチリ地震津波(1960年)の教訓があって,志津川病院は当時の観測(2.8 m)の倍以上に当たる6 mの津波まで想定し,3-4階に入院病棟をつくったのです。半年に1度は防災訓練を行っており,その際の基本ルールも「3階以上に逃げる」でした。

 ただ,今回は明らかに尋常でない揺れだったので,津波警報の発令後,最上階の5階へ患者搬送を始めました。志津川病院には寝たきりや歩行に介助が必要な高齢の入院患者が多く,ほとんどの方は自力で階段を上がれません。エレベータは停止していましたし,病院スタッフが患者さん一人ひとりを階段で運びました。

齋藤 津波はどれくらいで来ましたか。

菅野 最初の地震後,40分ほど過ぎてからです。濁流が見えたので階下に残った人たちに「早く5階に上がれ」と叫んだのですが,その2-3分後には病院の4階天井まで津波が流れこんできました。

無力感,死の恐怖,覚悟の指輪

菅野 南三陸は湾に面した,リアス式海岸の美しい町です。病院は海から400 mぐらい離れたところにあって,窓が太平洋側を向いているので朝日がすごくきれいでした。

 その町がまるごと津波にのまれてしまって,運びきれずに病院の3-4階にいた患者さんや病院スタッフを私は救うことができなかった。あの美しかった町が,自分のいる病院と向かい側の建物の一部だけを残して,見渡す限り茶色の水で覆われたのです。人生であれほどの無力感を味わったことはありません。それと同時に,「自分も余震や津波の第二波で死ぬかもしれない」という恐怖感にも襲われました。

齋藤 もし病院が4階建なら……。

菅野 誰も助かっていないかもしれませんね。ただ不思議なもので,死を意識したときに,自分のことよりも残される家族のことが頭をよぎったのです。私は消化器内科医で,内視鏡を使うと吐物や便で汚れることもあり得るので普段は指輪をしません。でも,「自分が津波に流されて遺体で発見されたときに目印になるものがあったほうがいい」と考えて,財布から結婚指輪を取り出して薬指にはめました。

齋藤 第一波が引いた後,4階のフロアに患者さんを探しに戻ったそうですね。「もし第二波が来たら……」とは考えませんでしたか。

菅野 もちろん怖かったです。でも,第一波で患者さんが亡くなった悔しさのほうが強くて,「もう後悔したくない」という医療者としての気持ちが,ほんの少し勝ったのですね。覚悟を決めて気持ちを同じくするスタッフと下に降りると,幸いにも息のある患者さんが10人いて,ひとりずつシーツにくるんで5階に運びました。

「月とガスタンク」

齋藤 医療者としてのお気持ちが,死の恐怖に勝るほど強いものだったのですね。そもそも,先生が医師になろうと思われたのはいつごろですか。

菅野 高校3年生の夏です。受験の準備をするにはすごく遅いですよね。そのころ,認知症だった祖母が転倒して,大腿骨頸部骨折で入院し寝たきりになったのです。最期は肺炎を合併して亡くなったのですが,お見舞いに行くと,酸素吸入器や点滴,尿道カテーテルで管理された姿で,手を握ったり話しかけても反応がない。でもすごく苦しそうでした。

 私の両親は共働きで,幼少時は祖母に育ててもらいました。その祖母に対して自分は何もできなかった。それで,終末期を含めた「患者に寄り添う医療」を勉強したいという気持ちが芽生えてきたのです。

齋藤 それで進路変更を?

菅野 もともとは理工学部に進学するつもりが高3の夏になって方針転換ですから,進路指導の先生には怒られ,受験勉強も間に合わなくて一浪してしまいました。

齋藤 そこから自治医大に進学され,学生時代のご経験のなかで「今に生きている」と感じるものはありますか。

菅野 大きかったのは,金田英雄さん(故人)との出会いですね。金田さんは学内にある医書専門店の社長で,当時はうどん屋も経営していました。そこのうどんがおいしくて,私はそこに入り浸っていた(笑)。そこで親父のように慕う金田さんが教えてくださったのが,「月とガスタンク」という話です。

 夜空の向こうに満月が見えて,手前に大きなガスタンクがある光景を想像してください。形は同じ球体ですが,手前のガスタンクは巨大で,月はすごく小さく見えますよね。でも,実際は月のほうが大きいわけです。「目前に大きく見える事象があっても,本当に大切なものはもっともっと向こうにある。自分の生きる目的を見失ってはいけない」という訓話です。

齋藤 高3で医師をめざしたときの心境が,菅野先生にとっての「月」になるのでしょうか。

菅野 その通りです。苦しんでいる人に寄り添うことが自分の根っこであって,このことを一生大事にしようと決めました。

 私はたいして成績のよいほうじゃなくて,まあなんとか国試に受かって卒業できた程度です。そんな自分でも,医療に対する姿勢の根源だけは学生時代に築くことができたし,同級生や先輩と熱い思いで地域医療の理想を語り合った日々は忘れることができません。

「支えなくてはいけない人がいる」ことが自分を支えた

菅野 学生時代でもうひとつ印象深いのは,病棟実習で50代の膵癌患者さんを受け持ったときのことです。予後不良で手術も難しいと診断され,主治医がそのことを説明する際に私も同席させてもらいました。その方は説明を受けた後,理解はできたものの,病室に戻ってずっと泣き続けました。私はその方にかける言葉がみつからなくて,隣で一緒に泣いてしまったんですね。

 その後で実習指導の先生に,「泣く気持ちがあるのは大切だけど,医師になったら,プロとして患者さんに接しないといけない。医師が泣いたら,患者さんは頼れるものがなくなってしまうよ」と諭されました。これも,私の心に強く響いた言葉です。

齋藤 同じ状況だったら,私もやっぱり泣いてしまいそうです。

菅野 患者さんに共感するからこそ,涙が出てくるわけですよね。でも今はやはり,プロとして泣いてはいけないと思います。「寄り添う気持ちを大切に持ち続けたい」という「月とガスタンク」の話と一見矛盾するようですが,「プロとしての自覚」と「自分にとって大切なもの」,両方のバランスが大事なのでしょう。

齋藤 それは震災時にも言えることなのかもしれませんね。

菅野 あのときは,たとえ若輩であっても医長である自分がパニックになったり泣いてしまってはいけませんし,普段の医療の縮図だったのでしょうね。あそこで自分が崩れずに済んだのは,学生時代の経験が頭のどこかにあって,「おまえは医師なんだぞ!」と自分を鼓舞していたのかもしれません。

齋藤 震災当日,濁流が引いた後も,大変な状況は続いたのですよね。

菅野 入院患者107人中42人を病院の5階に引き上げられたのですが,5階は病室ではなく会議室と図書室のフロアで,酸素吸入器も点滴もありませんでした。できることは,痰を手でかき出したり,窒息しないように横に寝かせて様子を見るぐらい。自衛隊の救助ヘリが来るまでに亡くなった方もいます。それが今も非常に悔しい。やることをやって結果的に救えない経験ならこれまでもありますが,今回はそれとはだいぶ違いました。

齋藤 それでも涙をこらえて……。

菅野 そうですね。図書室を霊安所にして,看護師さんと一緒にご遺体を運びました。タグの代わりに画用紙を切ったものに名前や性別,病名,死亡時刻を書いて,ガムテープで張り付けるわけです。ご遺体に対しては,合掌して「何もしてあげられなくてごめん」とだけ話しかけて,皆のいる会議室に戻りました。

 自治医大出身なので,若輩でも地域病院のチームリーダーとして振る舞ってきた経験があって,それが生きたと思います。それと,これは逆説的ですが,「自分が支えなくてはいけない人たちがいる」という状況が,逆に自分自身を支えてくれていたのかもしれません。志津川病院のスタッフも星愛子看護部長を中心に強い団結力で,パニックになることもなく,私とともにずっと患者に寄り添っていてくれました。

震災から3日目に流した涙

齋藤 全員が救助されるまでの3日間,本当に長く感じたのではないでしょうか。

菅野 頻繁に余震があって,食料も水もほとんどない。不安で眠れなかったです。深部静脈血栓予防として,数時間おきに皆で足踏みしたり寝たきりの患者さんの足を動かすのを促していましたが,実際には,寒さと不安の解消目的のほうが大きかったです。

齋藤 通信手段もないなか,震災後しばらくは孤立したわけですよね。

菅野 情報源はラジオだけで,当初は志津川病院のことはまったく報道されなくて,本当に怖かったです。11日の夜中になって,「志津川病院に人が閉じ込められている」という情報がラジオで流れ始め,やっと希望が見えてきました。ヘリで患者さんの搬送が始まったのが12日の午後ですね。

齋藤 菅野先生は最後の患者搬送まで病院に残られたそうですね。

菅野 私が救出されたのは13日午前,ヘリで石巻赤十字病院まで運ばれました。ちょうどスタッフミーティングが始まる時間で,外科部長の石井正先生に「一言を」と頼まれて,志津川の現状を報告しました。

齋藤 どんな話をされたのですか。

菅野 「南三陸町は津波で全部失われてしまいました。ですから,南三陸から運ばれてきた患者さんの命をどうか守ってください」と。でもその後,言葉に詰まったんです。それで,下を向いてちょっと泣いてしまって……。そうしたら,看護師さんたちが走り寄って来て私を抱きしめてくれて……。なんかもう,それ以上は言葉も出なかったです。

齋藤 ご家族と再会されたのはその後ですか。

菅野 搬送された患者さんを見届けた後,石巻赤十字病院の知人が貸してくれた車に泥んこの白衣のまま乗って,実家のある仙台に戻りました。ただ,携帯電話が全く通じなかったので,お互いの安否がわからなかったのですね。玄関先で会ったときはお互い突っ立ったまま,無言で泣きました。

齋藤 ずっとこらえていた感情があふれ出たのでしょうね。

菅野 震災後は3日間ずっと,時に無理しながらも医師として振る舞ってきたのが,あそこでひとりの人間に戻ったのだと思います。

「治す医療」と「寄り添う医療」

齋藤 震災の5日後にお子さんが生まれて「怜(れい)」と名づけたエピソードは,TIME誌にも紹介されました。名前は震災前から決めていたのですか。

菅野 男の子なので自分と同じく一文字にしようと考えていて,「怜」もいくつかの候補のうちの1つでしたね。最終的には顔を見て決めました。

 「怜」を訓読みすると,「さとしい」という賢さを示す意味があり,知恵を持って人生の困難を乗り越えてほしいという思いを込めています。それに音読みすると,光線を意味する"ray"と発音が似ていますから,「彼が生まれてくれたこと自体が私たち家族に差し込む希望の光だろう」と。そんな話を記者にしたらTIME誌に書かれて,ちょっと恥ずかしかったです(笑)。ただ実際の話,出産準備のため妻が娘を連れて仙台に帰っていなかったら,二人とも助かっていないと思うんですよね。

齋藤 もともとは志津川にいらしたのですか。

菅野 震災の10日前まで,病院の裏のアパートで一緒に暮らしていました。もしあそこにいたら,私も助けに行って津波にのまれていたかもしれない。息子は生まれてくることによって,私たち家族を助けてくれたのですね。

齋藤 先生がTIME誌の「世界で最も影響力のある100人」に選ばれて,同じ東北の後輩として,私も非常に嬉しく思います。先生ご自身はどのようにお考えでしょうか。

菅野 同じような環境のなかで闘っていた人はたくさんいます。これは私個人の業績ではなく,東日本大震災の被災者全体の苦難と努力に与えられたものだと認識しています。

 それと同時に,この経験を伝えることが,私に課せられた使命だと思っています。多くの命が失われたことに対して,私自身,震災後しばらくは無力感でいっぱいでした。でも少しずつ,「絶対に負けない,皆で力強く立ち上がろう」という気持ちへと昇華させることができました。私みたいな普通の人間でも頑張ることができた経験を伝えることで,一人ひとりが自分にできることを考えてくれると嬉しいです。

齋藤 経験を伝える上で気を付けていることはありますか。

菅野 大事なのは,他人を非難しないことですね。敵対するのではなく協力する。暗闇をみるより,明日への希望につながる具体的な一歩を歩み出すことです。皆が一丸となって頑張れば,日本の未来は明るいと信じています。

齋藤 最後に,医学生や研修医に伝えたいことはありますか。

菅野 私は自治医大を出て,地域でプライマリ・ケアをやってきました。その同じ気持ちをすべての方に共有してほしいとまでは言いません。ただ,「治すことだけが医療じゃない」ことは心にとどめてほしいのです。

 医師としてやっていくなかで,「病と闘うか,あきらめるか」という二者択一のような診療ではうまくいかないことがきっとある。そんなとき,「寄り添う」という医療の形もあることをぜひ覚えておいてください。震災時の極限状態の中,私が何とか精神のバランスを保つことができたのも,「患者に寄り添う医療」という「月」が,自分を導いてくれたからだと思います。

インタビューを終えて

地域医療に従事し,患者に寄り添う医療を実践されてきた菅野先生。思い出すのもつらい経験をされたはずですが,時折目に涙を浮かべながらも,当時起きた生々しいエピソードを話してくださり,鳥肌が立ちました。残された家族を案じ,自らの死の恐怖心を抱きながらも,「後悔はしたくない」という決死の覚悟に,医師としての姿勢を感じました。私も,これから被災地で医療を行っていく上でさまざまな困難に直面するときが来ると思います。そんなとき,「患者に寄り添う医療」という言葉を忘れずにいたいと感じました。被災地の復興のために,あるべき医師の姿を学んだインタビューでした。

(齋藤伴樹)

(了)


菅野武
仙台市出身。2005年自治医大卒。国立病院機構仙台医療センターにて初期研修後,市立栗原中央病院を経て09年4月より公立志津川病院内科医長。東日本大震災時,大津波に襲われた同院において患者の治療・搬送に当たった。11年4月には米TIME誌の「世界で最も影響力のある100人」に選ばれる。3月末の任期終了後も南三陸町にて医療チームの受け入れ支援にかかわったため,当初予定よりひと月遅れの5月に東北大大学院に進学。リサーチ・マインドを磨いた後,将来は質の高い医療と教育を地域で実践することを目標としている。