医学界新聞

連載

2011.07.04

高齢者を包括的に診る
老年医学のエッセンス

【その7】
影のCommonest Disease――老年期うつ

大蔵暢(医療法人社団愛和会 馬事公苑クリニック)


前回よりつづく

 高齢化が急速に進む日本社会。慢性疾患や老年症候群が複雑に絡み合って虚弱化した高齢者の診療には,幅広い知識と臨床推論能力,患者や家族とのコミュニケーション能力,さらにはチーム医療におけるリーダーシップなど,医師としての総合力が求められます。不可逆的な「老衰」プロセスをたどる高齢者の身体を継続的・包括的に評価し,より楽しく充実した毎日を過ごせるようマネジメントする――そんな老年医学の魅力を,本連載でお伝えしていきます。


症例】 老人ホームに居住している81歳の虚弱高齢女性,Sさんの診察を依頼された。前医からの診療情報提供書には気管支喘息と高血圧,脂質異常症,慢性腰痛症が傷病名として記載されている。

 ホームのスタッフによると,Sさんはいつも物静かで,動作も緩慢であるが一応ADLは自立しており,要支援2の介護認定を受けている。身元保証人の妹が,20年ほど前に一人息子を病気で亡くしたときのSさんのショック状態や,3年前に最愛の夫と死別してからの様子を詳しく教えてくれた。現在の老人ホームには独居が困難との理由から入居となった。

高齢者のキモチ?

 筆者は幼少時,学校の先生から「人は年をとるとともに老化を受け入れ,豊かな気持ちで老後を楽しく過ごし,家族や友人に愛されながらあの世へ旅立っていく」と教わりずっとそう思ってきた。しかし老年科医として虚弱高齢者にかかわる毎日のなかで,「多くの高齢者が身体の老化や生きがいの欠如を嘆き,別れを悲しみ,孤独や差別,経済難に悩み,近づいてくる死への恐怖におののくことさえある」と知った。あのときの先生は現在80歳ほどと思うが,どのように感じているだろうか?

 今回は高齢者の心の病である「老年期うつ」について議論する。欧米でも高齢者のうつはlate-life depressionやgeriatric depressionと呼ばれ,若年者のうつ病と区別して議論される。老年期うつは若年発症のうつ病と同様,その病因や発症機序に不明な点が多いが,遺伝などの先天的要因よりも環境や経験などの後天的要因が大きく影響すると考えられている。現在のところ,老化の自覚や病気への罹患,仕事からの引退(定年),身内や友人との死別,経済難などの社会心理的ストレスと,セロトニンやドーパミンなどの神経伝達物質環境の変化といった身体的変化が複雑に絡み合って発症するとの説が最も有力視されている(Mayo Clin Proc. 2003 [PMID:14601704])。

症例続き】 Sさんの部屋は薄暗かったが周りを見渡すと,多くの手作りの人形が飾られていた。

 奥へ入っていくと小太りの高齢女性がベット上に腰掛けており,話しかけても表情を変えず,うつむいたままだった。質問には視線を合わせることなく低い声でぼそぼそと答えてくれた。ホーム職員によると,昼夜問わず食事時以外は自室に閉じこもり,ベッドに横になっていたり椅子に座ってじっとしていることが多いらしい。

 IADLはすべてにおいてスタッフのサポートを受けているが,ADLは入浴の一部介助を要するのみである。包括的評価にてステップ2の気管支喘息,軽度認知機能障害(MMSEスコア20点),うつ症状(GDSスコア11点),歩行バランス不良,夜間頻尿を認めた。

老年期うつ=高齢者総合診療

 一般的にうつ病の診断は,米国精神医学会のDiagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders(DSM)を基準とし行われるが,特に高度虚弱高齢者の罪責感や興味の減退の有無などは評価が困難であり,この基準にあてはめることが妥当か疑問が残る。虚弱高齢者はDSMの大うつ病の診断基準を満たすことはむしろまれであり,その代わりに不安や身体化症状,認知機能低下,夜間頻尿,ADLの障害など高齢者特有の症状を呈することが多い。精神科医の友人が「うつ病の疾患概念が崩壊している」と憂慮していたが,「老年期うつ」も若年者の「大うつ病」とは異なる病気として認識し定義すべきだろう。

 筆者は老年期うつを精神医学的診察やGeriatric Depression Scale (GDS)のスコア,慢性疾患や症状,老年症候群の有無,ADLなどの包括的評価を基に診断しており,高齢者を総合的に診る視点の重要性を強く認識している。また老年期うつはQOL低下や日常生活機能障害,疾患管理能力低下,栄養状態低下,余命短縮などとの関連が指摘されており(N Engl J Med. 2007 [PMID:18046030]),早期発見,早期治療を心がけている。

症例続き】 Sさんの老年期うつを診断しパキシル®を開始した。また多職種チームのカンファレンスにて決定した,散歩やアクティビティへの勧誘や頻回の訪室と声掛け,傾聴を実践した。パキシル®は20mg/日まで増量したところで上肢の振戦が増悪したためリフレックス®に変更,目立った副作用もなく現在30mg/日を服用している。

 薬物療法を開始した約1か月後より表情が明るくなり,質問への対応が迅速に,身体の動きが機敏になった。散歩や体操に参加し始め,ヘアサロンへも行くようになった。ある日,「これ先生へ……」と手渡された袋を覗いてみると,5年ぶりに作ったという人形(写真)が入っていた。

写真 筆者へプレゼントしてくれた,Sさんの人形作り再開の第一号作品。

薬物治療のTIPS

 「うつ病」や「抗うつ薬」などの精神医学用語に抵抗が強い日本社会では,老年期うつ患者に薬物治療を開始する際にも多少気を使う。「○○さんの気分の変動や気力の低下は,加齢やストレスによる脳内ホルモンバランスの乱れとの関連が指摘されていて,最近それを整えるいい薬があるんですよ」。このように説明を始めると,比較的抵抗なく服薬治療に興味を示してくれることが多い。

 筆者は米国での経験からジェイゾロフト®やパキシル®などのSSRIを第一選択薬として使用し,増量にても効果がない場合にはサインバルタ®(デュロキセチン)などのSNRIやリフレックス®(ミルタザピン)へ変更する。副作用に食欲増進や体重増加があるリフレックス®は,虚弱高齢者の治療に合目的であり比較的よく使う。代謝や排泄機能が低下している虚弱高齢者には,抗コリン作用が強く,その他の副作用も多い古典的な抗うつ薬の使用を控えている。

 また,高齢者への薬物治療の原則である"start low and go slow"はここでも遵守すべきである。通常これらの薬物の効果が出るのは服用開始後,数週間経ってからであるが,虚弱高齢者は副作用の出現により早期に服用継続が困難になることも多い。双極性障害や自殺念慮/企図を疑う場合,電気けいれん治療の適応がある場合などの(老年)精神科医へのコンサルテーションのタイミングを見逃してはいけない。

「高齢者の心」の問題に国家的戦略を

 定義や診断の難しさから老年期うつの疫学データは乏しいが,筆者の印象では多くの高齢者がうつ症状に悩まされ,適切な治療によってQOLやその他の臨床指標が改善され得る。高齢者を診療する多くの医師が老年期うつ診療に精通していることが望ましく,その研修は卒後内科トレーニングの必須項目となるべきだろう。

 日本にはもともと高齢者が身体的老化の嘆きや死への不安,孤独の寂しさを表出しにくい文化的背景があり,それに加えて昨今の核家族化に伴う世代間のコミュニケーション減少により,さらに社会的孤立を感じ幸福感を得られにくくなっている。医療現場でも,診察時間が短い,診察時のプライバシーがない,などの物理的理由や,臓器別縦割りに発展してきた医学史的理由からか医療界全体の高齢者の心の問題への関心は低く,老年精神医学の発展と普及が遅れている。

 日本の高齢者がその世界一長い老後をより楽しく安心して過ごすためには,老年期うつの診断・治療の普及といった医学的アプローチのみでは不十分である。社会が今まで気にとめなかった,または誤解してきた「高齢者の心」に真摯に向き合い,教育,医療,年金,定年制度などの社会的施策を通じて高齢者の日々の苦悩を軽減する新たな社会づくりが必要である。

つづく

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