医学界新聞

寄稿

2011.06.13

特集

そして研修は続いてゆく
福島医大のポスト3.11


 3月11日に東日本を襲った巨大地震とそれに続く大津波。災害医療の現場には,病院スタッフや全国から駆けつけた支援チームらとともに奮闘する医学生・研修医の姿があった。本紙では,福島医大の医学生・研修医による取り組みを取材した。地震・津波被害に加え,原発事故とそれに伴う風評被害が重くのしかかる福島で,彼らは何を学んでいるのだろうか。

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ある研修医の3.11

 初期研修1年目も終わりに近づいていたその日,K氏は心臓血管外科チームの一員として手術に参加していた。なんだか浅い揺れが続くな。そう思っていたとき,突き上げるような衝撃が襲いかかった。術中患者の安全のため無影灯をずらし,清潔なシートを創部にかけて長い揺れが収まるのを待った。手術は中止となり医局に戻ると,室内は散乱し変わり果てており,テレビ画面には街が津波に飲み込まれる映像が流れていた。やがて上級医から「いったん解散」と指示を受け,結局その夜は病院に泊まり込んだ。

 翌日K氏は,災害対応に伴い救急科への配属を言い渡される。各科をローテートしていた同期・2年目研修医の計22人も一緒だ。仲間との,想定外の研修プログラムが始まった――。

救急初期診療と圏外搬送

 福島医大病院では震災直後,すべての外来と定時の手術を休止し,救急科を中心に3次医療対応に特化。全国からDMAT(災害派遣医療チーム)の支援を受けつつ,被災者のトリアージと治療を行った。

福島第一原発から20 km圏内の入院患者らの圏外搬送の受け入れ。自衛隊ヘリコプターが用いられ,一度に数十人の患者がグラウンドに運ばれてくる(提供:朝日新聞社)。
 多くの救急科スタッフが,県全体の災害対策や現地での初期治療で忙殺されるなか,残った救急科の医師の指導のもとで活躍したのが,初期研修医だった。冒頭の例にあるように,各科をローテーションしていた初期研修医は一時的に救急科所属となり,3つのグループに分かれ8時間交替で救急初期診療に当たった。

 ただ,今回は津波による被害のほうが甚大であったため,外傷患者の救急搬送は当初予想されたほどではなかったという。混乱はむしろ,徐々に事態が明らかとなった福島第一原発事故によってもたらされる。

 3月12日夜,避難指示の範囲が原発から半径20 km圏内にまで拡大される。これを受け,圏内の入院患者や介護保険施設入居者の大規模な圏外搬送が順次始まった。福島医大病院では計155人の搬送中継を行い,いったん病院に移送した後,後方施設へ搬送可能な患者と,直ちに入院加療が必要な重症者のトリアージを行った。ここで研修医は,入院加療と判断された患者の主治医となったほか,後方施設への搬送に同行するなどの役割を果たしたのだった。

学生ボランティア組織の活躍

 学生もまた,「自分たちにできること」を探し始めた。

搬送中継のため病院前に列をなす自衛隊救急車と緊急消防援助隊救急車。
 地震発生時に病院実習を行っていた医学部5年生を中心に,有志によるボランティア組織を結成。多いときには1日約60人の学生が,急きょ設けられた学生ボランティア室に日々集まった。最初は,エレベーターが停止するなかでの物品の運搬など,病院側からの指示で活動を始めた。しばらくすると,学生自らが考え,動くようになる。例えば,同院では震災直後から断水していたが,学生側から大学への提案により,節水や節電を促すポスターを作成するに至った。

 また,前述の圏外搬送においては,自衛隊のヘリコプターで一度に数十人の患者がグラウンドに運ばれて来た場合,そこから車椅子やストレッチャーに乗せて病院へ搬送するのに多くの人手が必要となる。ここでは学生が大いに活躍したという。

放射線被ばくの不安との闘い

 やがて,放射線被ばくの健康リスクに関する情報が入り乱れるようになり,住民だけでなく医療従事者の間にも不安は広がった。学生ボランティア組織も,彼らの健康を守る観点から一度解散となる。

 こうした事態に対し福島医大では,敷地内の放射線量を測定しリアルタイムで情報提供を行うとともに,大学教員や事務職,病院職員らが一堂に会する「全学ミーティング」を開催。多いときでは1日3回集合し,放射線の専門家によるレクチャーなどを通して関係者間の情報共有を図った。これには思わぬ副次的効果もあった。「病院スタッフはもちろんのこと,大学教員,事務職など全体に一体感が生まれた」(副院長・横山斉氏)のだ。例えば,圏外搬送患者の仮設ベッドは病院ロビーだけでは足りず,看護学部の実習用ベッドと実習室にマットを敷いて対応したが,そこでは看護教員が夜通し付き添うこともあった。また,患者搬送においては医学部の基礎系教員が学生を指揮したという。

 徐々に放射線被ばくに関する情報が整理されるなか,「どうしても活動を続けたい」という学生の要望を受け,新たなボランティア組織も編成された。彼らが新たに担ったのは,避難所訪問だ。県内各所の避難所を巡ることによって,メディアで報道されている以上の悲惨な現状を目の当たりにすることになった。被災者一人ひとりと20-30分かけて話すなか,怒りや不安の感情もたくさん受け止めた。

仮設ベッドが並ぶ1階ロビー。搬送されてきた患者の容態を確認し,必要な処置を行い,転院搬送か入院加療かを判断する。 避難所にて。「エコノミークラス症侯群チーム」による,エコーを用いた深部静脈血栓症スクリーニング。

白衣が強いる「小さな覚悟」

大谷晃司氏(左)と横山斉氏。
 「医師となって早く現場に出たい,とこれほど思ったことはない」。病院や避難所で活躍する医療者の姿に心を揺さぶられた学生ボランティアの言葉だ。指導医の大谷晃司氏は,「自分にできることを各自で考えてその結果も自分に返ってくるという,実習では得がたい経験を学生は積むことができた。また,多職種のチームワークがあって初めて医療が成り立つこともわかったのでは」と語る。また研修医も「日々たくましさを増して医師らしくなってきた」と,成長を実感している。

 3月下旬ごろより災害医療支援は慢性期のステージに入り,福島医大の主な役割は高度医療緊急支援チーム(エコノミークラス症侯群チーム,心のケアチーム等)による避難所での活動や,被災病院への医師派遣となっている。学生ボランティア組織は解散し初期研修も通常体制に戻るなか,一部の医学生・研修医が,自主的に避難所での支援などにかかわっている状況だ。

 今年度は,恒例の新研修医歓迎会はできなかった。代わりに病院幹部と新研修医による昼食会が4月1日に開かれ,震災時の経験を話し合った。福島医大出身の女性研修医は地元(福島県外)に戻るように以前は親に説得されていたが,震災後は「もう帰って来いとは言えなくなった。お世話になった福島で頑張れ」と励まされたエピソードをそこで披露したそうだ。

 ただ,明るい話題ばかりではない。医学部では震災後,14人が入学を辞退した。研修医についても,福島医大病院では辞退がなかったものの,県全体でみると,74人の採用予定者のうち5人が県外の病院に変更している。

 5月6日,1か月遅れの入学式が福島医大で挙行された。入学者を前にした式辞を,菊地臣一氏(理事長/学長)は次のように結んだ。

「君たちがこれから身につける白衣は,着る者に小さな覚悟を強います。白衣は君たちに誇りを持つこと,そして厳しさに耐えることを求めています。福島県立医科大学は,<中略>原発事故に対して国民や県民の健康を守っていくという新たな歴史的使命を負うことになりました。君たちの,そして福島県立医科大学の歴史に新たなページを書き足すのは,今ここにいる君たち自身なのです。わが国における未曾有の惨禍を受け止めて,君たちがどのようなページを書き足すのか,私たちは今から期待しております。無限の可能性を秘めた君たちの,今後の成長を期待しています」

 最後に,白衣に"小さな覚悟"を強いられた研修医の声を紹介する。川島氏は,記事の冒頭に出てくるK氏と同一人物である。あの日始まった困難を乗り越え,彼らの研修は続いてゆく。


■災害医療支援を経験した研修医の声

◆加藤由理氏(1年目研修医)

 私は震災時は実家(神奈川)におり,4月からは福島医大病院の研修医として働いています。当初は心配していた地元の友人や家族も,今では福島の現状を正しく理解し,研修生活を支えてくれています。

 当院は県内で唯一,ドクターヘリでの患者搬送および被ばく患者除染が可能な病院です。原発での作業が長期化する今,災害発生時のシステム構築を,多職種で情報共有しながら進めています。また,避難所の人々のケアも重要です。私は「エコノミークラス症候群チーム」の活動に参加したのですが,検査陽性率の高さに驚くとともに,先行きへの不安に苦しむ方々から逆に温かい言葉をかけてもらったのが印象的でした。福島では,震災での物理的な被害に加え,風評被害によって医師不足にさらに拍車がかかるのではないかと懸念されています。日本の力を信じて,復興へと皆が一つになれるように願っています。頑張ろう,福島!

◆川島一公氏(2年目研修医)

 震災後の自宅の部屋掃除が大変だったこと,朝4時に起きてガソリンスタンドで7時間並んでから病院に来たこと,病院から配布されるおにぎりと救急外来の看護師さんからの差し入れが嬉しかったこと,風呂に入れず体が臭かったこと,品薄のスーパーのレジで長蛇の列に並んだこと,皆で車に相乗りして自宅に帰ったこと……。今回の震災でたくさんのことを経験しました。被ばく問題がメディアで取り上げられるようになると,指導医の大谷先生から「避難してもいいし,残って一緒にやってくれてもいい。どうするかは自分で決めてくれ」と言われましたが,私も含めて大半の研修医はそのまま仕事を続けました。

 約3週間,救急科に特化した特別編成で診療に従事しましたが,現在は病院全体が通常のローテーションに戻っています(救急科では,被ばく者が搬送されたときのためにシミュレーションやミーティングを現在も行っています)。放射線量は減少し,少しずつですが,福島も日常に戻りつつあります。被災県の病院はどこも大変ですが,もうやるしかありません。福島の研修医は,地震にも風評被害にも負けずに頑張っています。

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