米医療保険制度改革(2)一世紀におよぶ失敗の歴史(李啓充)
連載
2010.05.17
〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第174回
米医療保険制度改革(2)
一世紀におよぶ失敗の歴史
李 啓充 医師/作家(在ボストン)(2877号よりつづく)
前回のあらすじ:2010年3月23日,医療保険制度改革法が成立,米国は皆保険制実現に向け,大きな一歩を踏み出した。
大統領就任から14か月,オバマは,医療保険制度改革に政権の命運を賭して取り組んできた。一方,共和党は,同法案の成立を阻止することがオバマ・民主党政権の力を削ぐ一番の早道と,党の総力を挙げて反対運動を展開,医療保険制度改革をめぐる議論は文字通り国論を二分した。
以上のような政治状況があったため,今回の歴史的法案成立に至るまでの道のりは,決して平坦なものではなかった。成立2か月前の1月19日,ケネディの死で空席となった議席を埋めるためのマサチューセッツ上院議員補選で共和党が推す候補が当選,民主党が上院での安定多数を失ったときには,「これで医療保険制度改革は完全に死んだ」と誰もが思ったものだった。
オバマと民主党とが絶望的状況から這い出すためには「ある幸運」が必要だったのだが,法案成立に至る「大逆転」の過程はおいおい説明するとして,まず,今回の医療保険制度改革に至るまでの歴史的背景を振り返ろう。
頓挫した進歩派の試み
「皆保険制実現」をめざす動きが始まったのはほぼ1世紀前。第26代大統領セオドア・ルーズベルトが1912年の大統領選挙に「進歩党」から立った際,公約として掲げたのがその最初であったとされている。
19世紀末から20世紀初頭にかけて,西欧諸国では何らかの「公的疾病保険」が相次いで創設され,「先進国で公的保険制度を持たないのは米国だけ」という状況となっていた。当時の米国は,いわゆる「進歩派(progressives)」が力を強めていた時代だったが,1915年,米国の遅れた状況を打開すべく,進歩派の経済学者が中心となって公的保険による皆保険制度設立をめざすための法律草案が起草された。この法案は進歩派の経済学者・法学者が集まった学会,American Association for Labor Legislation (米国労働法学会,以下AALL)の名を取ってAALL 法案と呼ばれているが,翌1916年,連邦議会だけでなく16の州の州議会でAALL法案が審議されるに至り,皆保険制実現の気運は高まった。
しかし,AALL法案が提案する医療保険には生命保険的な「死亡時給付金」が含まれていたため,生命保険のマーケットを浸食されることになる民間保険業界は猛反発した。折しも,第一次世界大戦の真っ最中,保険業界は全米にみなぎる反独感情に便乗,「皆保険制はドイツで発明された。ドイツで始まった制度がよい制度であるはずがない」とするキャンペーンを展開した。さらに,第一次大戦が終わった後は,1917年に建国されたばかりの社会主義国家ソ連に対する反感・恐怖感に便乗,「社会主義医療が始まる」と,国民の恐怖を煽った。
また,当初こそ「患者の利益になる」とAALL法案を支持した米医師会も,会員医師たちの収入減への懸念を払拭することができず方針を180度転換,反対に回った。さらに,AALL法案は「疾病に起因する所得逸失から労働者を保護する」ことを主目的として起草されたものだったが,肝心の労働団体も「政府が公的保険という社会サービスを提供することになったら組合の影響力が削がれてしまう」という身勝手な理由で反対,「進歩派」による皆保険制実現運動は,あえなく頓挫してしまったのだった。
反対運動の基本パターン
以後一世紀近く,フランクリン・ルーズベルト,ハリー・トルーマン,リチャード・ニクソン,ジミー・カーター,ビル・クリントンと,歴代大統領が皆保険制実現を試みては失敗し続けるのだが,皆保険制実現を阻止した勢力の反対運動の基本パターンは,すでに1915年のAALL法案に対する反対運動で確立されていたので,以下にその概要をまとめる。
1)イデオロギーに基づく反対
「皆保険制(公的保険の創設あるいは拡大)は社会主義の始まり,国民の自由が削がれることになる」と,反対勢力は米国民特有の「大きな政府・社会主義」嫌いの感情に訴えるべく,真実とは著しく乖離する主張であっても「イデオロジカル」な議論を持ち出すのがお定まりとなってきた。例えば,今回の改革に際しても,オバマは「公的保険の新設」を早々と断念したにもかかわらず,共和党は「政府が民間医療を接収,社会主義医療になる」と言い続け,国民の恐怖心を煽った。
2)利益団体による反対運動
公的保険が拡大されたらマーケットを失うことになるのだから民間保険業界が皆保険制に反対する理由は明瞭であるが,労働団体・医師団体も自らの「エゴ」を優先,皆保険制に反対し続けてきた。
特に,「自由診療」の恩恵を享受してきた米医師会が「皆保険制は社会主義医療」と反対し続けた歴史は古く,1960年代に,国民が大賛成した高齢者用公的医療保険(メディケア)設立に総力を挙げて反対した際には,米国民に,医師会に対する「回復しがたい不信感」を植え付けてしまった。
(この項つづく)
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