医学界新聞

連載

2009.10.19

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第161回

米国肝移植ルールの公正さをめぐって(1)
カリスマ経営者の肝移植

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2848号よりつづく

 2009年9月9日,サンフランシスコ市のイェルバ・ブエナ芸術センターで,アップル社の新製品発表会が開かれた。

 発表会の「トリ」を務めたゲストは,米音楽界の大スター,ノラ・ジョーンズだった。しかし,この日最大の「スター」となったのは,ステージで歌と演奏を披露したジョーンズではなく,司会役を務めたアップルCEOのスティーブ・ジョブズ(54歳)だった。

アップル創業者の健康不安と株価の下落

 アップル創業者のジョブズは,自らが築いた企業から追放されたり,返り咲きを果たしたりと,波瀾万丈の人生を送ってきた。90年代半ばに古巣に復帰した後,iPod・ iPhone等の大ヒット商品を送り出すことで経営不振だったアップルを立て直したが,ジョブズは,この間「企業の顔」として積極的に表舞台に立ち続けた。自らのカリスマ性を,企業経営の貴重な「リソース」として利用してきたのである。

 しかし,ここ数年は健康上の問題に悩まされるようになり,2004年には膵臓のラ氏島腫瘍(islet cell tumor)で手術を受けたことが公表された。「ラ氏島腫瘍は通常の膵臓癌と違い予後はよく,完治した」とされたものの,やがて,ジョブズはやせ細った姿で公の場に現れるようになった。ジョブズは,健康不安を否定する声明を繰り返し発表したが,癌再発の風評をめぐる株主たちの懸念を解消することはできなかった。

 2008年8月末,金融情報「ブルームバーグ」がジョブズの訃報を配信,株主の間に激震が走った。しかし,訃報とはいっても,年齢と死因の部分は空欄のままだったし,真相は,「そのとき」のために備えて書きためられていた「予定稿」が誤って配信されてしまったのだった。9月に行われた新製品発表会に現れたジョブズは「私が死んだという報道には重大な誇張がある」と挨拶したが,これは,昔,マーク・トウェインが自分の死を誤報されたときに発表した声明をそっくり引用したものだった。

 と,本人は誤報を茶化す余裕さえ示したのだが,訃報誤配事件は,ジョブズの健康に対する株主たちの不安を再燃させた。誤報前は170ドル台を推移していたアップル社の株価は下降を始め,3か月の間に80ドル台まで値を下げたのである。2009年1月,株主たちの懸念したとおり,ジョブズは,病気療養のための休職を発表したが,年初95ドルの値をつけていた株価は,発表後78ドルまで下落したのだった。

臓器移植アドボケイトの出現

 5か月後の6月20日,ウォール・ストリート・ジャーナル紙が「ジョブズが4月にテネシー州で肝臓移植を受けた」と報道,アップルCEOが休職せざるを得なかった理由の一端を明らかにした。数日後,同紙の報道を追認する形でメンフィス市のメソディスト大学病院が「ジョブズに肝移植を実施したが,経過は良好」とする声明を発表した,しかし,移植が必要となった病状などの詳細については「個人情報保護」を理由に明かされなかった。

 株主や投資評論家の間には,カリスマ経営者の健康状態について情報をオープンにしないアップル社の姿勢を批判する向きも多かったが,株主に対して企業の経営情報を透明化する義務と,カリスマ経営者とはいえ個人情報を保護する義務と,確かに,どこでバランスを取るかは難しい。

 というわけで,公表されている情報は非常に限られているのだが,4月に行われた肝臓移植と4年前のラ氏島腫瘍を関連づけて考える向きは多い。ラ氏島腫瘍が肝臓に転移したために移植が必要になったのだろうと推測されているのである。

 冒頭に,ジョブズが新製品発表会でノラ・ジョーンズ以上の「スター」扱いを受けたと書いたが,その背景には,ここ数年間,株主を不安におののかせ続けた健康問題があったのである。

 ジョブズが現れることは事前に予告されていなかったこともあり,彼が元気そうな姿でステージに現れた途端,出席者は総立ちとなり,会場に歓呼がこだました。ジョブズは淡々とした口調で「私は,交通事故で亡くなられた20代の方の肝臓をいただいたおかげで,いま,こうして元気に皆さまの前に姿を現すことができました。亡くなられた方の善意に報いるためにも,一人でも多くの方が臓器ドナーとなられることを望みます」と,語り出したが,臓器移植の領域に,強力なアドボケイトが出現したことは間違いない。

「有名人だから特別扱い」(!?)

 ところで,休職を宣言してからわずか4か月後にジョブズの肝移植が可能となったことについて,「有名人だから特別扱いされたのではないか」という疑義が呈されるようになった。実際,米保健省のデータによると,肝臓移植待ち患者(50-64歳)の待機期間中央値は400日を超える現状があるだけに,「特別扱い」の疑いがかけられたのも無理はなかった。

 ジョブズが比較的短期間の間に移植を受けることができた背景に「特別扱い」があったのかどうか,この疑問に答えるためには,まず,現在米国で行われている肝移植優先順位のルールを理解しなければならない。そして,私にとって,読者に優先順位の決め方についてご理解していただく一番手っ取り早い方法は,ヤンキース往年の名打者ミッキー・マントルの一生について語ることなので,しばらく野球の話におつきあい願いたい。

この項つづく

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