医学界新聞

連載

2008.09.01

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第134回

「ロレンツォのオイル」
その後(1)

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2793号よりつづく

 5月30日,映画「ロレンツォのオイル/命の詩」(1992年,米)のモデルとなったロレンツォ・オドーネが亡くなった(享年30歳)。この映画については,すでに,拙著『アメリカ医療の光と影』(2001年,医学書院)でも紹介したが,以下,あらためてあらすじを振り返る。

ALDの息子を救うために夫婦が独力で研究

 健康に何の問題もなくすくすくと育ったロレンツォが,学校での問題行動や転倒などの症状を示すようになったのは,1983年秋,5歳のときのことだった。副腎白質ジストロフィー(adrenoleukodystrophy;以下ALD)と診断されたのは半年後の1984年4月だったが,父オーギュストと母ミケラは,「治療法がない遺伝性疾患。知能・運動能力・視力・聴力が損なわれるだけでなく,余命もあと2年」という残酷な説明に打ちのめされた。

 ALDにおける代謝異常の特色は体内に極長鎖脂肪酸(very long chain fatty acid; VLCFA)が過剰蓄積することとされるが,オーギュストとミケラは,診断直後,ロレンツォを,ALDの権威ニコライス教授が主宰する食餌療法の治験に参加させた。しかし,「血中VLCFAを減らす」ことが食餌療法の目的であったにもかかわらず,治験参加後,ロレンツォの血中VLCFA値は逆に上昇した。

 まったく逆の結果となった治験に我が息子を参加させてしまった体験は,「権威とされる医師でさえも実はALDについては何も理解していない」現実をオーギュストとミケラに思い知らせることとなった。医学のバックグラウンドをまったく持たないオドーネ夫妻が,「学者でさえも何も分かっていないのだから,自分たち自身で勉強して息子を救うしかない」と決意,独力による「学習・研究」を始めるようになったのは,診断から4か月後の1984年8月のことだった。

 二人は国立衛生研究所の図書館に通い詰め,ALDと脂肪酸代謝に関連する論文を読みあさるようになった。コンピュータによる文献検索などまだ普及していない時代であったし,文献を探し出す方法は,丹念に「インデクス・メディクス」を繰る以外になかった。やがて,たまたま見つけたポーランド語の動物実験の論文がヒントとなって,オーギュストとミケラは,オレイン酸(註1)を投与すればVLCFAが下がるかもしれないという仮説を思いついた。ニコライス教授の「非公式」な協力をとりつけ,ロレンツォにオレイン酸の投与を始めたのは,診断から7か月後の1984年11月だった。しかし,投与開始後速やかに下がり始めたVLCFAは50%で下げ止まり,両親が考案した新治療は壁に突き当たった。

 やがてオドーネ夫妻は,もう一つの脂肪酸,エルカ酸を追加すれば治療効果が上がるはずだとする新仮説を思いついたが,仮説を実証するに当たっての第一の難関は,エルカ酸エステルの合成に合意する企業が見つからないことだった。イギリスの老化学者が善意で協力してくれることになったものの,合成が成功するまでには,1年もの時間を要してしまった。

 次なる難題は,サポートしてくれるものと期待していたニコライス教授が,「人体に対する安全性に疑義がある」と,協力を拒んだことだった。医学研究者としての手順を重んじるニコライスにしてみれば「倫理的に問題がある」研究に協力できないことは当然の結論だったが,「我が子の命を救いたい」一心の両親にとっては,協力を拒むニコライスは「分からず屋」以外の何者でもなかった。

 安全性を確認するために,ロレンツォの叔母をモルモット役として「人体実験」をすることとなった(叔母は,母ミケラと同様ALDのキャリアだったが,「母親に何かあったらいけない」とモルモット役を買って出てくれたのだった)。安全性が確認された後,ロレンツォへの投与が始められたが,2か月半後,血中VLCFA値は完全に正常化した。忌まわしい診断を告げられてから32か月後,二人が独力での研究を始めてから,わずか28か月後の大成果だった。

奇跡的治療法の発見か,いかさまか

 オドーネ夫妻が考案した脂肪酸エステルの混合物は,やがて「ロレンツォのオイル」と呼ばれるようになった。血中VLCFA値を正常化させるというニュースは,すぐさま患者の家族に知れ渡った上,1992年,ニック・ノルテ(父オーギュスト役),スーザン・サランドン(母ミケラ役)主演で製作された映画が大ヒット,ロレンツォのオイルについて「ALDに奇跡的治療が現れた」とする誤解が広まるのに時間はかからなかった。藁にもすがる思いの親たちは,こぞって患児にロレンツォのオイルを飲ませ始めたが,症状が改善する例はなく,期待が強かったぶん,失望と怒りが広まるのも早かった。しかも,ロレンツォのオイルは決して安い物ではなかっただけに(当時1リットル1000ドルと言われた)オドーネ夫妻を「いかさま師」呼ばわりする親さえ現れたのだった(註2)。

 映画公開の翌1993年,ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスン誌に,「成人発症ALDの一亜型で症状が比較的マイルドなadrenomyeloneuropathyでさえもロレンツォのオイルはまったく無効だった」とする論文(註3)が発表され,ロレンツォのオイルが効かないことにあらためてダメが押された。同論文についてのエディトリアルを執筆したバージニア医科大学のリッツォは,「科学は映画のように簡単にはいかない」ことを,ことさら強調したのだった。

この項つづく

註1:正確にはオレイン酸のトリグリセリド・エステル。
註2:映画が,ロレンツォの臨床症状が劇的に改善されたかのような描き方をしたことも,誤解とその反動としての怒りが広がる一因となった。
註3:329巻745-752頁

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