医学界新聞

寄稿

2007.10.15

 

【寄稿】

米国ERからDr.コトーを訪ねて

志賀隆(米国メイヨークリニック)


 「あまりに凄すぎて圧倒されてばかりの1か月!!」

 というのが正直な感想でした。この8月,私は現在の職場の選択期間を利用して下甑島手打診療所(鹿児島県薩摩川内市)の瀬戸上健二郎先生の門を叩きました。『Dr.コトー診療所』のモデルであり,離島医療の第一人者でいらっしゃる先生の姿から学び,大病院に慣れ甘ったれた自分を鍛え直すことを目的に考えてのことです。

 甲子園出場の神村学園のある串木野から高速船シーホークで青い東シナ海を1時間と少し,下甑島をめざしました。軽く船酔いがちな私を事務長の広庭さんが爽やかに出迎えてくださり,研修医用宿舎に連れて行ってくれました。小ぎれいで快適な宿舎で着替えるとすぐに自転車で3分の手打診療所に向かい,憧れの瀬戸上先生にご挨拶をしました。先生は非常に気さくに私に接してくださり,二言三言交わすとすぐに私に診療を促してくださいました。少々の戸惑いのなか接した島の患者さんはみなさん驚くほど明るく温かい方々で,島の様子を教えてくれました。あっという間にその日が終わり,私は宿舎に戻り海を見ながら一日を振り返りました。

外科医としての瀬戸上先生

 鹿児島大学の外科教室から国立療養所南九州病院に赴任,一般外科・胸部外科の医長をされていた瀬戸上先生は,ご自身ではおっしゃいませんが,南九州の肺癌の外科の第一人者でした。評判を聞いて福岡から手術を受けに来る患者さんもいたそうです。37歳で外科医として鹿児島に土地を買い開業の計画を立てていた先生のところに,ある島の熱心な村長さんが「半年でもいいからぜひ来てほしい」と勧誘に来たことが,瀬戸上先生の下甑島での日々の始まりであったそうです。

 当初は本当に半年のつもりでいらっしゃったそうですが,離島の人たちの医療悲話,限られた人的・物的資源の中でのチャレンジ,島の人たちとの触れ合いなど多くの要因が絡み合い,今30年目に突入されています。

 先生が下甑島に来てめざしたことは,しばしば悪天候などでヘリコプターも運用できないこともある離島という環境で,島民の医療の最後の砦となるべく様々な手術ができる環境を整えること,緊急時に備え献血台帳を作ったりして救急医療体制を整えることでした。赴任前に揃えられた設備は必ずしも十分でなく,村長さんの理解もあり,酸素ボンベから始まり麻酔器・X線透視・内視鏡,最終的にはCTスキャンまで揃えて行かれたそうです。

 私がお世話になった間も胆嚢摘出総胆管切開・胃癌・腹壁瘢痕ヘルニアなどの手術がスムーズに行われました。先生はもちろんのこと,看護師さんたちがあまりにスムーズに仕事をされてあっという間に終わってしまったため,麻酔をかけていた私はかなり驚きました。

 今では「手術を受けるなら診療所で瀬戸上先生に執刀してほしい。他には行かない」という方が多いのですが,信頼関係を作りあげていくにはいろいろとハードルがあったと伺いました。信頼関係ができてからは,様々な手術症例(骨盤骨折/膀胱破裂・緊急帝王切開・緊急子宮全摘術・食道癌・肺癌・往診にて喉頭蓋炎への気管切開)がどんどん先生によって手がけられ,多くの島の方々の命が救われる現在に至っています(詳細は瀬戸上先生の著書『離島診療所日記』をご参照ください)。

離島医療こそ究極のプライマリケア

 甑島滞在中,手打診療所に加えて隣の長浜診療所にもお世話になりました。長浜診療所では常勤の先生がお休みの間に3日間診療をしました。渡米前の沖縄の病院ではある程度自立して診療をしていましたが,そんな経験は少し助けになるくらいで,むしろ自分の未熟さがよくわかりました。

 総合病院では高度な検査が可能,いざとなれば専門医に相談することも容易ですが,島の診療所では目の前の患者さんに自分と看護師さんで向き合わなければなりません。いわゆる内科系の症例はまだしも,小児科・整形外科・皮膚科などは悩みながらその時々のベストを考えての診療です(さらに瀬戸上先生はマムシにかまれた犬を診療されるなど,獣医の仕事までされています)。

 プライマリケア能力の養成に適した環境があるとすれば,まさに離島こそそのための環境...

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